2297124 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2021年11月11日
XML

信春(房)のふるさと教来石(白州町)

 

 この記事は、ある歴史月刊誌に掲載されたものでる。未確認・史料未の記事が多い。

史実からかけ離れた内容は一考を要する。山梨県にはこうした歴史家が多い。

 

甲・信国境に諏訪口と佐久口がある。

馬場美濃守信春が生まれ育った教来石は、諏訪日の国境。いまの山梨県北巨摩郡白州町の島原にある。

 地名をとって教来石一族が、諏訪口から攻め寄せてくる敵に備えて、この地に住むようになったのは南北朝の争乱期、十四世紀の米から十五世紀の初期といわれている。

 南信から侵入する敵に備え、甲州街道の前身である甲斐と南信をつなぐ軍用道路の国境に位置した丘陵地帯に農民軍団の集落を築いたのである。

 『甲斐国志』の教来石氏の項に

「軍艦ニ教来石民部ヲ馬場氏ノ名跡トスル由見エタリ。

其ノ余教来石氏ノ事所見ナシ、

民部氏ヲ改ム時ニ一族皆馬場ニ変姓ナシケルナランカ、

或ハ云フ馬場ハ本氏ナリ。

教来石ニ住スルヲ以テ軍鑑ニ是ノ如ク記スルノミ、

教来石氏ニハアラズト、最モ然モアリシニヤ」

と記されている。

 古くから鳥直に「教来石民部の屋敷趾」

といわれる中世の豪族の館の遺構が現存している。その付近の地名に「殿畑」「堀端」「陣馬」「裏門」「御城坂」の小字がある。昭和六十三年九月初め、地元の白州町教育委員会は、初めて教来石の館跡の発掘調査に着手する。

 館跡の周囲には最大幅約六封、深さ七mからI〇mの濠がある。東側の空濠の土塁の向う側は断崖、北側の空濠は埋め立てられて畑になっているが、遺構は歴然としている。地方の豪族が何代かに亘って住んでいたことを裏付ける館跡の規模は、武田の館の躑躅ケ崎の遺構を凌ぐほどの壮大な印象を受ける。秋にはじ

 まる発掘調査に期待がかけられている。

  

景政から信男、信春と改名

 武田信玄の四各臣の一人に数えられた 馬場美濃守信春は、国境警備を兼ねた武河衆の旗がしらの教来石家に生まれた。

出生は永正十一年(一五一四)と推定される。

 信春自身、甲斐源氏の末流二十七代目と自称している。平時にあっては、豊富な水資源と肥沃な土地に恵まれて、水田、畑地を耕し、山野を駆けめぐって、イノシシ、シカ、クマなどを射止めて皮をはぎ、新鮮な肉は全戸に配られて塩をふりかけて焼き、または鍋で煮て食べた。重い甲冑と武器をたずさえて駿馬に跨り、

敵とわたり合う底力は動物性たんぱく源を十分に摂取していたからである。

 信春もまた、狩猟の名手であった。イノシシを追い詰めて、五〇mも離れた場所から剛弓をひきしぽって脳天を射止める妙技は、他の追随を許さなかったようだ。

 信春の幼名は明らかではないが、元服して教来石民部景政と名乗った。父の名は不明だが甲斐の武川谷大賀原根古屋の城将・馬場遠江守信保の名跡を継いで「馬場」と改姓したのは信玄の時代になってからである。

 景政の初陣は、享禄四年(一五三一)四月の河原辺の合戦である。南信の諏訪領主・諏訪頼満の大軍が甲・信国境を突破して甲斐に乱入した。弱冠十七歳の景政は一族郎党をひき連れて優勢な諏訪軍に立ち向かったが、多勢に無勢、諏訪軍に押しきられて、いまの韮崎市韮崎町の塩川と釜無川が合流する河原辺まで敗走した。

ここで甲斐の国守武田左京大夫信虎の武田の軍勢と合流して、押し寄せた諏訪軍に反撃を加えて追い返した。その折、景政は単騎、敵中に飛び込んで十三の首級をあげたと伝えられる。

天文十年(一五四一)六月、信虎が駿河へ追放されたとき、教来石一族は晴信擁立派の板垣信方の下で晴信への忠誠を約し、翌十一年六月から始まった諏訪攻略の先陣を拝命した。諸国に勇名をはせた騎馬軍団のスター武河衆の筆頭として頭角をあらわしたのは板垣信方戦死後の天文十八年(一五四九)四月の佐久の春日城攻略のころからである。

 晴信の下知で戦死した馬場信保の名跡を継いだ景政は、馬場民部信房と改名した。馬場家については諸説ある。『武田三代軍記』では、馬場伊豆守虎貞は信虎の怒りに触れて切腹、跡目が絶えたとある。

馬場信保が虎貞の嫡男とすれば、父切腹と同時に根古屋の小さな砦に左遷され、晴信の時代になってかえり咲き、その信保も信濃の戦場で戦死したということになる。いずれにしても景政は相次ぐ軍功で七十騎分の加増があり、百二十騎の侍大将に昇格したのである。

 馬場美濃守信房を信春と改めたのは永禄二年(一五五九)以降である。信房時代の領域は、いまの白州町から武川村にかけての広い範囲にわたっている。

の中山砦は、馬場惜春が築き、その麓に元亀二年(一五七一)、曹洞宗龍岸寺(同郡長坂町上条)の六世利山玄益住持を開山として、その末寺の長松山萬休院(杉浦道彦住職)を開基している。

 信春は萬休院を馬場の菩提寺として私財を投じて堂宇を造営した。境内にある日本一を誇る「舞鶴の松」(国指定天然記念物)は当山二世康頼住職が植えた。その松が傘状に鶴が翼をひろげたような大樹に

成長した。

 樹齢四百有余年。樹高九封、根本の周囲四〇封、目通り幹囲三・七封、主幹は地上約二封の高さのところで折れ、その下から西ヘー本の太い横枝が出ている。

 ふるさとにもう一つ、馬場信春ゆかりの寺がある。白州町白須の曹洞宗白妙山自元寺(山崎正道住職)である。ここでは馬場信房が開基と寺記にある。もともと馬場一族の菩提寺である。前述のように馬場伊豆守虎貞が、この寺を菩提寺としていたが、主君信虎の暴政を諌めたことで馬場家は断絶した。のちに馬場家を継いだ信房(信春)が開基となって寺を再建したと寺記にある。開山は清泰寺四世の端叟和尚。

 天正三年(一五七五)五月二十二日、三河の長篠の合戦で六十二歳で戦死した信春の遺髪を持参して、この寺に葬った。この寺に遺髪を埋めた信春の墓がある。信春の法名は「乾叟自元居士」とある。

一方、萬休院の本殿に安置されている位牌には「萬休院殿因岳爆圓大居士」とある。

 

 『軍鑑』にこんな話が出ている。

ご氷禄十フ年(一五六八)十二月十三[口、

信玄と共に今川氏真の拠城である駿府城(静岡市)を攻めたときである。城外の本陣に控えた信玄は、城攻めの一番手をになう馬場信春に、「義元殿は生前、蒐集した書画や骨董をたくさん所蔵しておるはずだ。城内に乱入したさい、それを燃やさぬように心掛けよ」と命じた。信玄は義元から 『伊勢物語』を借りて愛読し、義元から「返してくれ」と請求されたが「まだ読みきっていないから、あと暫く貸してもらいたい」とねばり、ついに返本しなかったという逸話があるほどの読書家。

信春は「承知つかまつった」と駿府城に一番乗りでとび込んだが、城内に潜んでいた今川勢の抵抗がはげしく、大刀をふるって戦っているうちに主君の言いつけをすっかり忘れて、火箭を放って片っ端から曲輪を焼いてしまった。炎上する城内を眺めていた信玄、はらはらして城内に入ったが、亡き義兄の義元が蒐集した秘蔵品のすべては灰になっていた。

 信玄は信春を呼びつけ、「約束が違うではないか」と叱責すると、信春、「甲斐の国守が今川殿の家宝を奪ったとあれば末代の恥になろうかと思い、すべてを灰にしました」

 と撫然とした態度で答えたという。行きがかりで燃やしてしまった義元の秘蔵品である。その価値の尊さを知らぬ信春には、書画、骨董には全く関心がなく、無骨一辺倒の信春の性格をほうふつとさせるエピソードである。

馬場信春のふるさとに、書画、骨董に無関心でなかった証拠の軸が萬休院に納められている。

それは狩野派風の墨絵で描かれた「竜虎之図」であるが、戦国期に多くみられるたくましい黒一色の竜と虎を描いた墨絵である。

現在、武川村の文化財に指定されている。筆者が訪ねたとき、あいにく杉浦住職が外出中で撮影できなかったが、この軸は元亀二年(一五七一)、信春がこの寺に寄進したと伝えられている。

そのころの信春は、名実ともに武田の四名臣の一人に数えられ、内藤修理亮昌豊、高坂弾正志昌信、板垣信方についで重臣の座に就いた山県三郎右兵衛尉診景らと共に信玄の片腕としてつねに側近に控えていた。したがって教来石の屋敷は部下が守り、信春自身は、甲斐府中の躑躅ケ崎の館近くの武家屋敷に住んでいた。

領土の拡大に伴い、信春もまた、信州更級郡・牧野島城の城主を兼務し、牧野郷を所領し、さらに三河国設楽郡市場村の古宮城を馬場の縄張りとし、さらに遠江国榛原郡・諏訪原城の領土を管理していた。

晩年の信春は、体がいくつあっても足りぬほどの多忙を極め、ほとんど郷里の教来石で過ごすことはできなかったようだ。

 

馬場美濃守の素顔

 

武田二十四将に必ず登場してくる馬場信春という名臣の素顔をさぐってみよう。

 

 『武功雑記』『武田三代軍記』などで記されている信春は晩年にしぼられている。

 「敵と刃を交えたことは数知れず、敵と組み討ちしたのは二十一回、そのつどお屋形様から感状を戴いた。戦って一度も負けたことはござらぬ。それには運が強い、と言えるが、わしには五つの必勝の信条がござる」

 と数人の若武者の前で語った戦陣五つの信条とは、

 

一つ、敵より味方が勇ましく見える日は先を争って働くべし。その逆のときは独走してはならない。

 二つ、場数を踏んだ味方の士を頼りにする。その人と親しみ、その人を手本として、その人に劣らない働

きをする。

 三つ、敵の兜の吹き返しがうつ向き、旗指物が動かなければ剛敵と知るべし。

逆に吹き返し仰向き、旗指物動くときは弱敵と見るべし。弱敵はためらわず突くべし。

 四つ、敵の槍の穂先が上がっているときは弱敵と知るべし。

穂先が下がっているときは剛敵、心を緊めよ。

長柄の槍そろう時は劣兵。長短不揃いのときは士卒合体、

功名を遂げるなら不揃いの隊列をねらうべし。

 五つ、敵気心盛んな時は、ためらうことなく一拍子に突っかかるべし。

 

いくさにかけては、百戦練磨、弓を取らせても、槍をとらせてもだれにも劣けをとらなかった信春だが、文芸や書画、骨董のたぐいは弱かったらしい。

 

  長篠に死す

 

元亀三年(一五七二)十月三日、信玄と共に本隊に加わった信春は、各所の領地から兵を呼び寄せて西上作戦に参加させて、伊那路から遠州に入り、二俣城の攻略に次いで三方ケ原の合戦では五十八歳の老将とは思えぬほどの闘志を燃やして奮戦した。

 翌四年一月の野田城攻略でも病いに倒れた信玄をかばい、自ら陣頭に立って攻撃を繰り返して城を陥した。

 主君信玄の病い重く、西上作戦の中止が秘かに流れたとき、信春は大粒の涙を流して号泣した。そして、その年の四月十二日、信州・駒場の宿陣で信玄は五十三年の生涯を閉じた。信玄の遺言に従い、四郎勝頼に忠誠を誓い、内藤昌豊、山県昌景らと共に三年間、主君の喪に服していたが、天正三年(一五七五)五月、武田が結集して三河の長篠城攻略に当たる旨の軍役状を受け取って馬場一族、武河衆を動員して南下した。

 長篠城を死守する徳川家康の腹心奥平貞昌(のちの信昌)を城将とする三河勢の守りは固かった。弓矢や槍で戦った信春の時代はもう終わりを告げていた。

 長篠城には五百挺の鉄砲が配置され、城を攻める武田軍に十字砲火を浴びせ、城崩し作戦を得意とする武田軍も容易に城を陥せなかった。

 信春が心配したのは、長篠城確保に大軍を投入して攻め寄せてくる織田信長、家康の連合軍の来攻である。

 勝頼が本陣とする医王寺に集合した重臣たちの中で信春は「まだ信玄公の喪をず撤収して策を練られたらよろしいかと存じます」と諌言した。それに同調したのは内藤昌豊・山県昌景・甘利郷左衛門といった老将たちであった。

 だが、勝頼を擁立する若手の部将たちの意見に押し切られて、設楽ケ原で織田・徳川の連合軍と真正面から対決する結果を招いた。

 夜来の豪雨のあと設楽ケ原を戦場に武田軍と織田・徳川連合軍の熾烈な戦いが開始されたのは五月二十二日の早朝からであった。

 信長指揮の三千振の鉄砲の三段構えの秘しているいま、砲火を浴びて武田軍はもろくも一万余の正面から戦うのは無謀と心得る。遺体を積み重ねて敗走した。

 信春は、銃弾を避けて山林に身を躍らせて襲いかかる敵と戦った。中世武士らしい最期を飾る奮戦であっ

た。

 ふるさとの人たちの間では、馬場信春の死は「戦死ではなく、信玄公のあとを追っての殉死だ」という見方をしている人が多い。

 「不死身の信春が、おめおめと討たれるわけがない。世代交替の時期がきて、よき死場所を得たとして中世武士の花道を飾ったのだ」

 と言うのである。馬場信春にふさわしい讃歌と受け取れる。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年11月11日 19時47分18秒
コメント(0) | コメントを書く
[馬場美濃守信房資料室] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X