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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年11月13日
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カテゴリ:山口素堂資料室

甲府尊体寺の「山口家の墓」は素堂や魚町市右衛門家とも関係ない。

 最後に甲府尊体寺に在るとされる『国志』の素堂位牌と戒名であるが、これも疑問である。素堂は享保元年八月十五日に死去して、感應寺(現在の天王寺}の黒露らの手により埋葬されている。この墓所が山口家の墓所が在った所かどうかは定かではないが、甲府尊体寺で無いことだけは明確である。戒名も、
 『国志』…… 感應寺、尊体寺…法諱眞誉桂完居士
 『素堂句集』…感應寺中瑞院 …廣山院秋厳素堂居士 である。この感應寺の素堂の墓石は黒露により他の寺へ移設されている。
 素堂の評価は伯毅の『含英随記』の次の言葉がよく表わしている。
   子晋(素堂の号)の才は擒ふ可らず、盖し林門の三才の随一たるべし。
 素堂の研究は今後も継続していく。諏訪図書館には曾良の素堂晩年の文書もあると云う。

十、山口素堂は濁川浚工事に関与していない

はじめに

 この書は拙著「山口素堂の全貌」の資料をもとにして、真の素堂像を人々に伝えることを目的にしている。
 文中に於いて過去の間違いを正す為に、誤記述のある書籍名及び著述者を記す場合もあるが、真実を追求する段階で必要であり、許されることと信じている。
 これまでも機会があるごとに山梨県内の歴史認識の曖昧さを訴えてきたが、浅学な一般人の歴史研究などと無視されてきたが、最近になって拙い資料をを求めて来る人が多きなってきたので、これまでの著述を部分的に公開することとした。
 しかしそうしたことが、私の調査研究に拍車をかける大きな要因になった。歴史の誤りを修復するには時間がかかる。

『甲斐国志』の誤り

 現在伝わる素堂像は真実のものと大きな開きがあり、人々に正しく伝わっていない。
中でも素堂と濁川改浚工事との関連については『甲斐国志』の独壇場で、今では土木の神に祭りあげられてしまった。
『甲斐国志』は素堂が没して百余年経てから甲斐で編纂され幕府に提出された一級の書であると云う。編纂時に参考にした中央の資料も多く、また多くの時間を割いて取材し、村々へも資料の提出を要請し地方もこれに応じた。その収集範囲は山川や神社仏閣などや人物や古蹟に至るまで甲斐の歴史を網羅し、編纂者の労苦が忍ばれる。
私は『甲斐国志』を批判したり、全体の信憑性を疑う者ではない。

宮本武蔵は甲斐の生まれ?

その甲斐国志には、宮本武蔵はの祖は甲斐国であるとの記述がある。誤解を招くといけないので関係する箇所の全文を掲載する。
 甲斐国志巻之百二 士庶部第一
一、〔宮本武蔵忠躬〕
  本州の士宮本源内忠秀と云者の後なりと云。武蔵は剣術を以て栄名を施せり。
嘗て江戸に在りて豊州小倉に招かれ小笠原右近将監忠貞に仕ふ。
 武将感状記に云、始め細川越中守忠利に使へたり。小倉に赴く時に於て、長州下関岸柳と云う撃剣堪能の士に出会ひ互いに其術に誇り、仕合して遂に岸柳を打ち殺せし由を載す。武蔵は両刀を用ひ、長二尺五寸、短一尺八寸なり。
世に武蔵流と称す。
 この記載事項については、後の書が触れた形跡がない。若しこの記述が真実なら、これまでの武蔵像が見直されることになる。
この記載に気がついてから、武蔵に関する書を読み漁ったが、残念ながらそれを示す著書や伝記物に出会う機会に恵まれない。

濁川工事

 素堂は「濁川改浚工事は関与していない」これが私の長年の調査の結果導き出された結論である。

山口家市右衛門

 本文では『甲斐国志』(以下』国志』)の記述に沿って真偽を確認してみる。素堂は調査した範囲内の資料では決して「素道」とは号していない。また『国志』での素堂の「公商」号は不詳であるが、「小晋」は資料に見える (『含英随記』) 
 素堂の号は信章から来雪そして素堂へと移行している。素堂の本名は『国志』では市右衛門または官兵衛となっていて、市右衛門は甲府市中の魚町山口屋市右衛門の代々の家名であり、だからその山口屋の長男であった素堂も市右衛門を名乗ったと推察している。
 後述で詳細に述べるがこの山口屋と素堂の関係は史料には見えない。魚町山口屋は酒造業を営んでいたとする書もあるが、『国志』には山口屋の家業は示されてはいない。山口屋は人々が「山口殿」と羨む富豪家であったと『国志』以来諸書に記されているが、『国志』以前の書や当時の時代背景からは富豪家山口屋の存在を示す資料は無く、編纂者の記憶違いか若しくは創作の疑いもある。

甲斐国志の間違い

 こうした適切な資料を欠く記述は『国志』一書の記述であり、後の諸書は『国志』を鵜呑引用し、さらにその事蹟を拡大評価して著す傾向にあり、その結果素堂の多くの事蹟は消失して濁川改浚工事関与が事実の様に人々の記憶に積重なることになった。
 『国志』への歴史関係者の盲信や、自らの歴史観を固守など歴史への特別の思い込みは歪んだ歴史を生み、真実から遠ざかることになってしまった。

歴史研究に携わる人々

 歴史は常に見直しが必要で、歴史家には自説を問い質す謙虚さが求められるもので、確実な資料の少ない場合は、確定せず後世へ託すべきであり、軽はずみな定説創りを急いではならない。また歴史関係者は自説と違ったり、過去の定説が覆る有効な資料が現われた場合には素直に耳を傾け、訂正する度量の広さが求められる。 
中には自己の研究を中心にして著さずに、引用書で覆われた歴史論を展開している書もあるが、こうした行為は間違いを訂正するどころか、間違った説を後押しすることにもなる。引用の繋ぎ会わせや定説擬きを真実のように記述するだけでは史実は解明できない。
また歴史紹介書は一度間違いを史実のように書すと、真説が出ても滅多に訂正されることはなく、訂正されないもので、柳沢吉保、市川団十郎それに山口素堂などがこれにあたるものである。
国書や高名な歴史学者並びに文学者の説は、例え間違っていても訂正されることはなく追認され、引用されて定説になり、史実ようになるものである。
 この項で取り上げる素堂と濁川改浚工事はそれの最たるものであると考えられる。
 今回は有効な資料を各種提出して、素堂の甲斐との関係の浅さや濁川改浚工事との関与がいかに薄いかを多くの人に認識していただきたい。また『国志』の素堂に関する記述で明らかに間違っている箇所も多い。これは項を変えて述べることとする。
 勿論、私の研究もすべて正しいわけではないので、どしどし批判や訂正を加えていただきたい。要は歴史を正しく見直す作業の大切さを今後も訴えていきたい。
 幕府直轄の河川事業において、国志のいうような「濁川工事」の形態は有り得ない事であることは明白である。

 

十一、素堂と濁川改浚工事

 素堂像を大きく歪めたのは元禄九年3月の濁川改浚工事への素堂の関与が、『国志』に劇的に記載されたことが起因である。
 この項はよく読んで見ると、時の代官触頭桜井孫兵衛政能の事蹟顕彰を「素道」の項を借りて記述している。こうした記述方法は他の人物の項などにはなく独特のものであり、講談調の語りを入れるなど「お涙だ頂戴」の構成になっている。
 素堂没後約百年経てから編纂された『国志』「素道」の項は素堂の事蹟、特に「濁川改浚工事」への関与を特書して、命を賭けて国を救った土木技術者として祭り挙げてしまった。後年になり事蹟顕彰の石碑が立ち土木書に引用され、山梨県内外の歴史書には素堂を義民の生神様としてしまった書もあり、素堂は可哀想に俳諧の事績や文人としての活躍など、一部を除いて等閑にされてしまったのである。

桜井孫兵衛と斉藤正辰

 素堂は桜井孫兵衛より七歳年下であり、没年は素堂が享保元年、孫兵衛は享保十六年である。孫兵衛は甲府の代官を辞した後は大阪に赴任している。
 孫兵衛の石祠と顕彰石碑は濁川のほとりにあり、地域の人々は今でも「桜井しゃん」として祀っている。この石碑は刻字もはっきりしていて正面には「桜井社」裏面には享保十八年建立、西高橋村・蓬澤村と刻字してある。
これは桜井孫兵衛政能の姪斎藤六左衛門正辰(政能孫兵衛と兄政蕃は父定政の子で、政蕃の子政種、その子が政命で、斎藤六左衛門正高の家に婿に入り、斎藤正辰と名乗る…『寛政重修諸家譜』)が享保十八年(1733)甲斐に来た折に地元に建立させたものである。
正辰は元文三年(1738)にも来甲して、その折には地鎮碑を建立している。

石祠は生祠ではない

碑文によれば桜井孫兵衛の生祠に関わる部分として、「政能死してから久しい。而して両村民はその恩を忘れることは能わず。乃ち政能を奉じて地の鎮めと為し、祠を建て毎歳これを祀る。ああ生きて人を益すれば、即ち死してからこれを祀るは古の典也」
 とあり、生祠では無い。前述のように孫兵衛の没年は享保十六年であり、石祠の建立は十八年である。この石祠は明らかに生祠ではないことが明白であるが、それ以前のものがあった可能性は否定できない。

山口霊神は存在していなかった

 山梨県の歴史書や紹介書は長年この石祠を生祠として記している。また『国志』以来素堂の「山口霊神」も合祀されているとの記述も見られるが、その存在を証する書もなく不詳であり、現在もそれ以前の紹介にも石祠は文書以外に現存しない。傍らにある石碑は孫兵衛の兄の子供が斎藤家に婿に行った斎藤正辰(当時勘定奉行の一員)が甲斐を訪れた時(正治三年)に建立したものである。前述しておいたが、正辰は孫兵衛の兄政蕃の子であり、斎藤家に婿入りしている。この石碑の刻文を後の『国志』が拡大引用したものである。
 残念ながら石碑刻文の中には素堂に関与する記述は見えず、孫兵衛の威徳を顕彰しているだけである。何故素堂が孫兵衛の事蹟の中に組み入れられたかは、それを示す史料が無く不明である。

『甲斐国志』

 元禄八年(1695)乙亥歳素堂年五十四、帰郷して父母の墓を拝す。且つ桜井政能に謁す。前年甲戊政能擢されて御代官触頭の為め府中に在り。
 政能素堂を見て喜び、抑留して語り濁河の事に及ぶ。嘆息して云う。「濁河は府中の汚流のあつまる所、頻年笛吹河背高になり、下の水道 みずみち のふさがる故を以て、濁河の水山梨中郡に濡滞して行かず。云々然れども閣下(素堂)に一謁して、自ら事の由を陳べ、可否を決すべし望み、謂う足下に此に絆されて補助をらんことを」
 「素堂答えて云う。人は是天地の役物なり。可を観て則ち進む。素より其分のみ。況んや復父母の国なり。友人桃青(芭蕉)も前に小石川水道の為に力を尽せし事ありき。僕あ謹みて承諾せり。公のおうせにこれ勉めて宜しくと」云々
  素堂は薙髪のまま双刀を挟み再び山口官兵衛を称す。幾程なく政能許状を帯して江戸より還る。村民の歓び知りぬべし。官兵衛又計算に精しければ、是より早朝より夜遅くまで役夫をおさめて濁河を濬治【水底を深くすることす。云々
 是に於て生祠を蓬澤村南庄塚と云う所に建て、桜井明神と称え山口霊神と併せ歳時の祭祀今に至るまで怠り無く聊か洪恩に報いんと云う。

 だそうである。ここで他の資料を見てみる。 

『甲斐国歴代譜』

元禄九年丙子三月、中郡蓬澤溜井掘抜仰付、五月成就也。
これが幕府の正式な書類である。河川工事は幕府直轄事業であり。当時国志のいうような工事形態は有り得ない事は後述する工事内容で明白となる。。
 素堂は江戸に於いて草庵にいたわけではない。元禄六年、時の幕府儒官人見竹洞が素堂の家を高官と訪れているが、その記載によれば、素堂の家の広さを相当なものである。この項ではこうしたことは深く記さないが、その竹洞は素堂の母の死去についても記述している。

『竹洞全集』

幕府儒管人見竹洞著

    元禄八年夏、素堂の母
素堂山子八旬老萱堂 至乙刻夏忽然遭喪

 素堂は元禄六年に林家に入門。七年の冬に妻の忌中に盟友芭蕉を亡くし、八年夏には母を亡くしている。素堂の母の没年を元禄三年としたり、甲府尊体寺の「山口市右衛門建立」の墓石は素堂の母とはなんら関係ないものである。
 山口家の墓所の墓石には中央に山口藤左衛門とあり、定かではないが、代々市右衛門を名乗ったとする甲斐国志の記述との相違が認められる。

『甲山記行』素堂著

 それの年の秋甲斐の山ぶみをおもひける。そのゆえは予が母君がいまそかりけるころ身延詣の願ありつれど、道のほどおぼつかなうて、ともなはざりしくやしさのまま、その志をつがんため、また亡妻のふるさとなれば、さすがになつかしくて葉月の十日あまりひとつ日かつしかの草庵を出、云々
 十三日のたそがれに甲斐の府中につく。外舅野田氏をあるじとする。云々
 重九の前一日かつしかの庵に帰りて(九月八日)
旅ごろも馬蹄のちりや菊かさね

 素堂は元禄八年八月十一日に甲府にきて、九月八日に江戸葛飾に帰っている。素堂が元禄九年に甲斐に居て、三月から五月まで孫兵衛の手代として濁川改浚工事を指揮した事を示す史料は見えず、また『甲山記行』には孫兵衛と会ったことや濁川改浚工事への関与を窺わせる記述は無く、『甲斐国歴代譜』は淡々と工事の開始と終了を告げている。
(空白の日時はある)
 素堂の府中の宿は外舅野田氏宅である。外舅野田氏とは素堂の妻の父親ではないだろうか。

『裏見寒話』

   元禄七年~十四年
御代官触頭 桜井孫兵衛
  〃   野田市右衛門
御入用奉行 野田官兵衛
 素堂は実家山口屋を訪れたのであろうか。当時も素堂没後も魚町山口屋市右衛門は居た。素堂の弟が家督を継いだという山口家と府中魚町山口屋市右衛門家は同一なのだろうか。これも明確な資料が不足で言及できない。それより、素堂が甲府に居た実績などを示す資料は全く見当たらないのでる

『国志』素道の項

 舎弟某に家産を譲り、市右衛門を襲称せしめ、自らは名を官兵衛と改むる。時に甲府殿の御代官桜井孫兵衛政能と云ふ者、能く其の能を知り頻に招きて僚属となす。居る事数年、致任して東叡山下に寓し、云々

 素堂が江戸に出たとされるのは二十歳の頃とされているが、孫兵衛は素堂より八歳年下である。従ってこの時点で孫兵衛の僚属となることや、孫兵衛が甲府代官になっていることも有り得ない。

『山梨県史』「資料編九」

   元禄八年 覚 金割付御奉行所より被遺候文
小判十両 うを町 市右衛門

『山梨県史』「資料編九」近世2 甲府町方

   享保二年(1715)
御用留口上書
 御巡見様御泊之節御役人衆留書
  町役人詰所 魚町 市右衛門

『甲府市史』「資料編 第二巻」近世1

 享保八年(1723)山梨郡府中分酒造米高帳
魚町 山口屋市右衛門
 元禄十年(1697)造高四十三石五斗
 享保八年(1723)造高 十四石五斗
 当時山口屋は西一条町にも存在した.
西一条町 山口屋権右衛門
 元禄十年(1697)造高四十二石二斗八升
 享保八年(1723)造高 十四石八斗
 
山口屋は酒造業とすれば決して大きいほうではない。伝えられる説では素堂家は素堂が幼少の頃現在の北巨摩郡白州町下教来石字山口を出て府中魚町に移り住み、忽ち財を成したと云う。
 「山口殿」といわれた豪商の家にしては酒造石高が少なすぎる。
 そして生地とされる下教来石字山口地区には素堂ことを示す資料や史実は見えず、地域に伝わる話は、『国志』以後の「戻り歴史」で、中央で記述された書を見てそこに記されている事象を地域に当てはめる歴史、それが「戻り歴史」である。
 『甲山記行』の「また亡妻のふるさとなれば、さすがになつかしくて」の「ふるさと」を身延とする説もあるが、「甲斐の山ぶみをおもひける」を踏んで、甲斐が亡妻のふるさととも解釈できる。むしろこの方が自然である。
素堂の妻は元禄七年に没している。盟友芭蕉が大阪で十月十二日に没したとき素堂は妻の喪に服していた。

「素堂、曾良宛て書簡」抜粋

  野子儀妻に離れ申し候而、当月は忌中に而引籠罷有候。
  桃青(芭蕉)大阪にて死去の事、定而御聞可被成候。云々

 これは素堂の妻の存在は河合曾良に宛てた書簡により明確である。素堂の母も人見竹洞の事を伝える『竹洞全集』により元禄八年夏に急逝したことがわかる。素堂の母の没年には元禄三年説があるが、元禄八年逝去が正しい。また府中山口屋市右衛門の母の墓石が甲府尊躰寺にあるが、これが素堂の母の墓石である可能性は極めて低く、側面の「市右衛門 老母」の刻字は不自然である。また尊躰寺にあったと『国志』が記す素堂の法名「眞誉桂完居士」も同様である。素堂の法名は現在も谷中の天王寺(当時は感應寺)の位牌堂に安置されていて、法名は、「廣山院秋厳素堂居士」である。  
 従って『国志』の「元禄八年乙亥歳素堂年五十四、帰郷して父母の墓を拝す」は史実ではなく創作話である。
 素堂の父の存在は資料が無く明確に出来ない。父は素堂が何歳まで生存していたかもわからないが、何れにしても素堂家の墓は江戸に在ったとするほうが自然である。先代の山口屋市右衛門の墓は尊躰寺の墓所内には見えず、山口屋及び「山口殿」代々の墓所は何処に存在したのであろうか。
 善光寺の墓所にも「山口」の立派な墓所もあるが不詳である。

『甲斐国志』巻之四十三 「庄塚の碑」

 文化十一年(1814)刊行
   (前文略)
   代官桜井孫兵衛政能は功を興して民の患を救う。濁
   川を浚い剰水を導き去らしむ。手代の山口官兵衛(
   後に素堂と号す)其の事を補助し、頗る勉るを故を
   以て、二村の民は喜びて之を利とす。
終に生祠を塚上に建つ。桜井霊神と称し正月十四日
忌日なれども今は二月十四日にこれを祀る。
   側らに山口霊神と称する石塔もあり。云々
   後の斎藤六左衛門なる者。地鎮の名を作り、以て石
   に勒して祠前に建つ。

 とあるが、はるか以前の『裏見寒話』にも同様な記述があるが、素堂の関与は示されてはいない。

『裏見寒話』巻之三 宝暦二年(1752) 

  『国志』より六十年前の書(野田成方著)
   昔は大なる湖水ありて、村民耕作は為さず、漁師の
   み活計をなす。其の頃は蓬澤鮒とて江戸まで聞こえ
   よし。夏秋漁師の舟を借りて出れば、その眺望絶景
   なりしを、桜井孫兵衛と云し宰臣、明智高才にして、
   此の湖水を排水し、濁川へ切落し、其の跡田畑とな
   す。農民業を安んす、一村挙げて比の桜井氏を神に
   祭りて、今以て信仰す。蓬澤湖水の跡とて纔の池あ
   り。鮒も居れども小魚にして釣る人も無し。

『甲斐叢記』(国志を引用)

  嘉永元年(1848) 大森快庵著
   (前文略)
   元禄中桜田公の県令桜井政能孫兵衛功役を興め二千
   四間余の堤を築き濁川を浚い剰水を導き去りて民庶
   の患を救へり。
   属吏山口官兵衛(後素堂と号し俳諧を以て聞ゆ)其
   事を奉りて力を尽せり。因て堤を山口堤又素堂堤と
   も云と称ふ。
   諸村の民喜ひて生祠を塚上に建て、桜井霊神、山口
   霊神と崇祀れり。云々

濁川工事の概要

 さてここで、濁川改浚工事の概要が詳しく著されている資料があるのでここに提出する。

『山梨県水害史』

 古老手記(未見、不詳)元禄九年の条に三月二十八日、蓬澤村の水貫被仰付(中略)五月十六日八つ時分に掘落申候へば、川瀬早河杯の様に水足早く落申候。(中略)
 桜井孫兵衛政能なる人、此苦難を救わんとして来り、堤を築き、河を浚い、以て湖水を変じて良田に復す。而して此工事には山口官兵衛なる人補助役として努力し、其土工の俊成を迅速且つ完全にならしめたりと云ふ。(中略)また桜井孫兵衛等によりて、中郡一帯安全の土と為りたる効を沒す可かならず、地方土民等其遺績に感激し桜井孫兵衛を祭りて桜井霊神とし今日至る迄に崇敬を厚うする亦宜なる哉(後略)

『元禄年間濁河改修事蹟』

 武井左京氏著
  『甲斐』第二號P31~36《》印筆者

 濁河は、甲斐国志に「高倉川・藤川・立沼川・深町川等城屋町の南板垣村の境にて相會する虞に水門あり、是より下を濁河と名つく。東南へ湾曲して板垣界より中郡筋の里吉・國玉両村の間を南流す」とあり。改修以前は現今の玉諸村の内里吉・國玉の界を南流し、同村の内蓬澤を経て住吉村の内増坪の北横手堤(信玄堤)に抵り、一曲して東に向ひ玉諸村の南にて笛吹川(明治四十年の大水害にて改修せられ今は平等川となれり)に合流したるものなりしが、延宝年度頻年の大出水にて笛吹川瀬高になり、川尻壅塞して平常水患を被るもの沿岸村九ケ村即ち現在の里垣村の内坂折・板垣、王諸村の内里吉・國玉・西高橋・蓬澤・七澤・上阿原、往吉村の内畔村にして就中西高橋・蓬澤、最も甚敷田園過半沼地となり鮒魚多く生産す。其頃物産の一なりしと云ふが如き状態に陥りたるを以て排水の為當時の合流地點より約十四五町の下流西油川(往吉村の内)附近に於て濁河を笛吹川に合流せしむべく計画したるに、対岸東油川村(富士見村の内)に於て故障を中立たるを以て遂に工事に着手すること能はさりしを以て
 延宝三年(二百五十六年前)《1675》正月西高橋、蓬澤村の名主長百姓連書し、
 延宝二年《1674》八月度々出水にて田畑は勿論住宅迄浸水し、居住困難に陥りたるを以て何れにか移轉を被命度且つ東油川村の意向を取糺したるに、既定計画の合流口を多少の変更を為すに於ては異議なき旨に付、
 同春《延宝二年》中に工事を遂行せられ度旨奉行所に訴へ出たり。
 其の後十一年貞亨年丙寅年(二百四十五年前)《1686》六月十二日出水浸水床上四寸に至り畑作物皆無となれり。
 同四丁卯年《1687》八月二十七日出水あり。
越へて元禄元戊辰年《1688》七月二十日・二十一日に亘り大出水家屋内浸水五六尺に達し溺死者を出し、田畑共作物皆無となり示後八月十日及九月の両度出水あり。
 同二年巳年《1689》四月九日・五月二十九日・六月十八日・十九日同二十四日の数度出水あり。
 同《元禄二年》七月六・七日に旦る大出水は元禄元年七月の出水より三寸の増水にて浸水十日の久しきに旦り。田畑の作物皆無は勿論床上浸水一尺三寸に至りたるを以て沿河九ケ村の名主長百姓連署を以て、「本年七月の出水は前舌未曾有の人出水にて田畑は勿論、西高橋・蓬澤の両村は住家の軒端迄浸水したるが如き惨状を呈したるを以て、先年目論見の排水工事に付ては対岸東油川村に於て合流點を少々下げらるゝに於ては支障なき旨に付変更の上工事遂行」方奉行所に訴へたり。
 翌三庚千年《1690》六月六日及九月六、七日数度の出水ありたるを以て十月中前年八月同様沿河九ケ村名主長百姓より前願趣旨を継承し「排水口に落合村(山城村の内)用水先年落来りし。蛭澤堰落口又は荒川へなり何れへなり共決定、工事遂行せられ度旨」前同断訴へ出たり。
 同四辛来年《元禄四年》二月三日川除奉行臨検實地に就き排水路の測量をなしたり、
 同四月中「水路工事の義、着手に全らず荏再経過せられ数度の出水にて村民困難に陥りたるを以て工事遂行の件、轄地に於て難決幕府に上議せらるゝ」とせば村役人幕府に出頭すべきに付添翰を下付せられ度申立
 同《元禄四年》五月中「當春、川除奉行實地臨検の結果落合村(山城村の内)用水落口に九ケ村出願の排水路落口に見立られ右は何れも故障を生ぜざものに付右目論見の通工事遂行方」訴の上、
 同月十一日西甘高橋・蓬澤村の村役人八名江戸に出立排水路堀塞之義を幕府に申立たるも右落口は上曾根村の対岸に當れるを以て同村の意嚮を慮り差控られ詮議の運に至らざりしに、
 同年《元禄四年》六月四日又々出水あり。同間八月引績き落合村蛭澤堰落口に堀鑿すべく目論見たる排水工事遂行に至らざるを以て西高橋、蓬澤両村は排水の為困難を極め居住に難堪、他に移轄の己を行ざる場合に立至りたるに付荒川に排水せられ度旨訴べたり。
 翌五壬申年《1692》は五月三、四日及七月二十一日両度、 同六癸酉年《1693》は四月二十五日、七月二一・四・五日、九月十二一日、十八日数度の出水を重ね、
 翌七甲戊年《1694》富時櫻田殿甲府宰相松平綱豊(後の徳川家宣文明公)の領地たりしとき櫻井政能代官として任に むや同年も五月閏五月十九日、七月三日、八月二日数度の出水あり西高橋、蓬澤は最も卑地なるを以て田畑多く沼淵となり(此時に當り村民魚を捕へ四方に鬻き食に換へ蓬澤の鮒魚本州の名産たりし)降雨毎に釜を吊し床を重ね稲田は腐敗し収獲毎に十の二、三に及ばず前に水中に没したる者数十九戸、既に善光寺〈里垣村の内)の山下に移轉し、残余の者も居住に堪へさらむとするに至り、政能憂慮し屡々上聞に達したるも聴されず、
 同八乙亥年《1695》四月三十日實地踏査の上意を決し之を幕府の老臣に訴へ遂に許を得、
 同九丙千年《1696》(二百三十五年前)三月二十八日濁川の流域を西高橋より落合村に至り笛吹川に合流変更するの計画を致表し
 四月二日より川除奉行をして實地を調査せしめ増坪より落合迄延長二千六間(甲斐団志には二千一百有余間とあり)廣き四、五問より六、七間外に附工事たる蛭澤堰附替千四百五十七間にして千二百を請負に付し其の他は關係村に夫役を賦課し
 四月十五日より工事に着手し西油川村に於て民家拾軒の移轉を要し
 五月十六日悉皆竣工、其の夜の中に排水を了し田圃悉く舊に復し沼淵枯れ稼穡蕃茂し民窮患を免かるヽに至れり。
村民其の洪恩を感載し政能の生祀を建て(蓬澤庄塚)之を祀る爾来祭祀を懈ることなく元文三戊午年《1738》(百九十三年前)孟夏従子斎藤六左衛門正辰祇役して此に至り石を司に樹て地鎮の銘を勒せり《地鎮銘略》
 此役に要したる人夫一萬三千五百三十四人《延べ人数》
  内夫役 三千百四十九人
  請負金 二百二十両
  其の他 六一十両差分
  民家移轉 十七両貳分五百文
  総計 三百両三分銭五百文

 

 






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最終更新日  2021年11月13日 04時55分39秒
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