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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年11月18日
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カテゴリ:俳人ノート

河合曽良への一考察 波乱に満ちた曽良の生涯

 

   筆著 吉原永則氏著

   一部加筆 山口素堂資料室

 

一、蕉門十哲

 

 十哲・十大弟子の語の由来は、論語の孔門十哲、維摩経の十大弟子にある。

蕉門十哲は芭蕉が唱えたものでなく、また誰を十哲に数えるかも定まりがなく、諸説があったが、天保三年(一八三二)刊「続俳家奇人伝」の巻頭に据えられる蕪村の贅画に従って下記の十人を十哲とすることに定着した。

 

鳥帽于やはゑぼしきてみよけふの月  其角

立出てうしろあゆみや秋のくれ    嵐雪

片枝に脈やかよいて梅のはな     支考

欄干に登るや菊の影法し       去来     

木枯しの地にも落さぬしぐれ哉    許六

飛込んだままか都の時鳥       丈草

比頃の垣の結めやはつしぐれ     野坡     

散時の心安さよ罌粟の花       越人

ゆふ風に何ふきあげておぼろ月    北枝

海山に鳥啼たつる雪吹哉       杉風

 

 勿論、この十人が最も優れた弟子であったかは疑問の余地があるだろう。

江戸時代の請書に十哲として最も多く挙げられるのは、右の他に、荷兮・惟然・千那・凡兆・曲水・そして曽良などがいる。

 師に尽すことの厚い人柄、また知人の娘の病をその旅先にまで出向いて看護する情の深さ、「随行日記」により学識の高さや几帳面な性格が曽良から特に推察できる。

しかし蕉門十哲として定着しないのは、俳人としては詩才に恵まれなかったのか現存する句作は少なく百三十余句にとどまり、表現趣向の面では、理智的傾向が強く、蕉門の俊秀の間にあってはかなり見劣りがしたためであろう。

たしかに、東の其角・嵐雪、西の去来・丈草の四哲特に其角と嵐雪は高弟中の双璧であり、芭蕉自身も、

 「草庵に桃桜あり、門人に其角・嵐雪あり」として、「両の手に桃と桜や草の餅」の句をなぞらえて詠っていることから句作の面では及びもしなかろうとも、その人間性では蕉門随一であると私は確信している。

 

二、曽良の生涯

    一、曽良の墓所

 

河合曽良は宝永七年(一七一〇)五月二十二日、壱岐の勝本の中藤家で亡くなった。墓は能満寺の境内、中藤家墓地の入口の右側、南西に向け対馬が見望される高台に建てられている。墓碑を見ると、正面に「賢公宗臣居士」とあり、右側に宝永七庚刀天、左側に十二月二十二日とあり、また、右側面には「江戸之住人岩波庄右衛門尉塔」と彫られている。この墓

 

碑について調べてみると、「江戸之住人岩波庄右衛門尉塔」の刻文は松浦藩が曽良を公人として取り扱っていて、「尉」は我が国中世からの官名でこれは個人的に勝手につける事が出来ないものである。

 「賢翁宗臣居士」については、「賢」は優れた、「翁」はおきなで尊称、「宗」は直接幕府から職官を与えられていた役人の事をさす。また、芭蕉が曽良の事を宗悟と呼んでいたし、俳人としての足跡も残したので、それも兼ねているとも思われる。

 墓地について三氏は次のように述べている。

 岡田喜秋氏は、

『旅人曽良と芭蕉』で、「私の第一印象は曽良はじつにいい展望の地に墓所を得たということであった。この風景は見飽きない。そう思うと、曽良は永遠の旅人だったと思った。この漁港の絵画的な風景をすでに知っていて、ここを死に場所と決めたのではないか、とさえ思えたからである。」と。

 司馬遷太郎氏は、

『街道をゆく』のなかで、「墓石は海を背にしている。当時、一般に墓石は小さかった。曽良の墓も小さい。私の想像の中の曽良も小柄で痩せて手の指なども小枝のようであったかと思われる。若い頃から胃腸の悪かった入らしく顔色も冴えなかったに違いない。このため枯れ苔で覆われた墓石の前に立つと、曽良その人がそこにいるょよに思われた。」と。

 上野洋三氏は、

『芭蕉論』で、「背後に勝本の港を見下ろすこの急斜面地の墓地の一角で、曽良の墓標は少し寂しそうにも見える。ここには、『奥の細道』にみられたほどに神道者の曽良の面影もみえないし、また、あの法号の『宗悟』さえも含まれていない。

そして、それはまた『旅日記』の曽良からも一段と遠い。」と述べ三者三様の見方をしている。

 

さて、「河合曽良といえば、芭蕉と共に『奥の細道』の行脚をし、我が国の俳文学史上に大きな成果をもたらした人としか思われていないが、この墓碑を見る限り、俳人というよりも神道家として立派にその一生を送ったとみる考え方も成り立つのではないか。従って、芭蕉の門人となったのも、神道家としての使命を達成するための方法にしかすぎなかったのではないか。」と神道研究の野沢鍵治氏は推論している。

 

・ 曽良の諏訪時代

 

 河合曽良は信濃の国上諏訪に慶安二年(一六四九)高野七兵衛の長男として誕生する。兄弟に、姉利鏡(小平家に嫁ぐ)弟五左衛門(高野家を継ぐ)がいた。曽良は、幼くして母の実家河西家で養育された。高野家を相続しなかった背景には、諏訪地方に「末子相続」という習慣があったからといわれる。母の里は屋号を銭屋といい、姓は河西、金融業を営み、諏訪藩出入りの造り酒屋を経営していた時もあった。

この河西家は古くは河合姓を名乗り、武田信玄の信濃攻略に家臣として従軍し、武田氏滅亡後に河西と改姓して諏訪に住んだといわれる。

 

曽良はまもなく岩波家に養子としてもらわれる。万治三年(一六六〇)一二歳の時に養父母が相次いで他界したため、伊勢長島にいる伯父といわれる大智院の秀精住職に引きとられる。

 曽良の生まれた地方は、諏訪大社があり、諏訪湖の周囲に上社本宮・前官・下社秋宮・春宮と四つあり、諏訪大社が七年に一回行う「御柱」祭り等、神社の行事が盛んであるから、この地方の神社に関する知識は自然に覚えられたろうし、関心を持たざるを得なかったのではないかと思われる。

 

曽良の長島時代

 

曽良は伯父のもとで成人し、河合惣五郎と名乗って長島藩の松平亮直、忠充に仕えた。この藩での生活については資料が殆ど無いので様子を知ることはできない。しかし藩を辞めた理由は、曽良五十回忌の追悼文によって、その一端を知ることが出来る。

  勢州長島の古城主に宮使(仕)えせり。

壮年の頃故ありて牢浪の身となり

二君に仕えざるの操を守り……

とあり、長島城主に何か異変があったことを物語っている。即ち、殿様の亮直の次の殿様になる忠充の性格に異常がみられたので、仕える希望がもてなかったとの説である。事実、忠充は晩年性格上の破綻からか、かなりの家臣を殺害している。それは元禄十五年八月十五日の事でそのため八月二十一日には領地を没収されている。

 さて、青春時代を過ごした長島についてふれ、その地方の風土が曽良のその後の人生に与えた影響の一つであったことを考えてみる。

 曽良の住んでいた大智院は、長島輪中の中にあり長良川の堤防のすぐ下にあった。ここは東の木曽川と西の影砂川に挟まれ、江戸時代水害地帯として毎年台風の季節になると洪水に脅かされた。従ってその苦労も並大抵ではなかった。杉本苑子氏の「孤愁の岸」にも洪水になる様子が次のように書かれている。

 「厄介なことに三筋の大河は、三筋とも川底の高さが違う。西寄りの伊尾川がもっとも低く、続いて中央の長良川、東端の木曽川……と次第に高くなっている。もっとも是は川の罪ではなく、濃尾平野の地形そのものが東から西へ大きく傾斜している為であった。ところが皮肉といおうか、野分け、荒れ月の暴風雨は、きまって西から東へ移動してくる。したがって西端の低地を流れる伊尾川が先ず真先に増水してしまう。続いて長良川、最後に木曽川……’」

の順で三巨川は膨張してゆくわけだが、枝川によって互いに通じ合い、しかも河床の高さは

三いろに異なっているという面倒な川である。いったん増水し始めると伊尾の水かさは長良の膨らみを、長良の水かさはこれまた木曽川の圧力を受けて押せ押せに増し、容易に減水しないのみか、やがては耐えかねて堤防をやぶり、平野一面に奔流する結果となるのであった。」

と。この様な自然の災害に悩まされながらの生活は、苦労の連統であり、精神的にも肉体的にも大変鍛えられたようである。

 

俳句の知識については、元禄時代は武士の間で教養として身に付けていたようである。曽良も同様であり、延宝四年(一六七六)の歳旦吟

  狭から春は出たり松葉銭   曽良

が初句である。その後、貞享三年(一六八五)に芭蕉へ入門(三十七歳)談林調の作風から蕉風へと作風が変わるが詩人的才能に恵まれなかったものか現存する発句は少なく、やや観念的で理知的な傾向が強いるように思われる。

  

曽良の江戸時代

 

 長島藩に致仕した曽良は天和初年(一六八一)頃江戸へ下る。天和二年、吉川惟足に入門し、神道・和歌の教えを受けている。また同門の波河誠所、開祖衡らと交わり地理学の知識を得て一層実力をつけていったようである。

 

神道・和歌の師吉川惟足

は幕府神道方の初代で江戸の出身である。(一六六一~一六九五)、幼時に父と死別し江戸日本橋の魚商の養子となり、尼崎屋五郎左衛門と称した。養家の恩を感じて商売に徹しようとしたが、武家の血がうずき、結局はあまり身がはいらなかった。慶安四年(一六五一)三十六歳の時、相州鎌倉山に隠棲し、和歌を詠み、神書を中心に読書に励んだ。しかし、独学では意味が通ぜず、承応二年(一六五三)九月京都に上り、吉田神道の萩原兼頼(一五八八~一六八〇)を訪ねて入門した。明暦元年(一六五五)七月再度上京し勉学を続けた。当時、吉田家では当主の兼連が幼少のため道統が断絶しかけていた。そこで兼従は明暦二年三月、惟足に道統を授与し、惟足は天児屋命五十四代の道統の継承者となった。そして、祖父の佐々木氏が近江の国吉川村に住んでいた故事により、吉川惟足と改めた。

のち江戸に出て神道を諸大名に講説し、天和二年(一六八二)将軍綱吉から公儀神道方に任じられ、代々子孫が世襲したのである。

 曽良が惟足に入門した動機については、長島藩に惟足と関係のある曽良の先輩がいて、帰郷の際に入門を勧めたり、元禄四年伊勢参宮の帰りに泊った小寺氏(惟足門下で文筆をもって松平氏に仕えた人)や男山八幡の神主の阿部氏などが、吉川惟足に師事するように勧めたものと思われる。江戸の住まいは深川五間堀だといわれている。

三井孫兵衛より三狂庵桐羽宛書簡には、

 「曽良は五間堀と申す所に庵を結び罷在侯。私六つ七つの時随分逢神申候ことに御座侯」とあり、三井親和(書家)は同郷信州上諏訪の人で、彼の世話によるものではないかと推察出来る。

 神道に入門後、芭蕉の門下生となっているが、武士として一生を通したという立場からすると、全国を旅して各地の情勢を調査するには、俳諧師が一番安全であり、情報を人手するにもたやすかったし、彼の趣味が連句であった事等からも俳諧師を選んだのは当然の事と思われる。

 深川五間堀は、深川芭蕉庵にも近く芭蕉に近づくために曽良は一六八六年頃(貞享三年)、師のもとにしげく通って身辺の世話をしている。このことは、『雪まるけ』の句文に

曽良何某は此あたりちかくかりに居をしめて

朝なタなにとひつとはる我くひ物いとなむ時は

柴折くふるたすけとなり

ちゃをにる夜はきたりて氷をたゝく

性隠閑をこのむ人にて交金をたつ或る夜よ

雪をとはれて

   はせを

きみ火をたけよき物見せむ雪まるけ

 

これにより、曽良は親しく芭蕉と交遊し、その薪水の労を助けたことが知られる。この俳文を伝えた曽良の姪(母方の甥)周徳は、曽良の遺品を一書に編むに際して、これを巻頭に据え、書名を「ゆきまるけ」とし、巻尾に

   叔父曽良の反故のうちより

ひとつの雪まるけを得てこれに

まろめつきて見れ。

一冊となれり叔父身まかりしより

このかた二十八年の春秋をふれとも

この雪の消さること金玉にして

まことに貴くこそ覚ゆ

  

呵られたむかし恋しや雪まるけ

という祓文を記した。(岡山大学国文学資料叢書十)

 

  曽良 鹿島詣

 

貞享四年(一六八七)に曽良は、芭蕉と僧宗彼の三人で鹿島へ旅をしている。

鹿島紀行のなかで、曽良のことを浪客の士と書かれており、当然、武士として扱われていたのであろう。鹿島詣の目的は鹿島の月見・鹿島神宮の参詣・仏頂和尚訪問が目的であるが、曽良には別の目的があったのではないかとみる。

それは鹿島神宮・香取神宮・息栖神社の調査、利根川流域の農民の生活状況等を報告する任務を与えられていたのではないか。

さらに、帰路については何も書かれていないのは違った目的があったからとも考えられる。例えば、水戸に近いために水戸家に内々の文書を持参したとか、鹿島への道すがら下総地方の情勢を収集したとも推察されるのである。

 

曽良 おくのほそ道

 

「奥の細道」の旅に出たのは元禄二年(一六六九)三月二十七日である。芭蕉はこの旅の日的について、卓袋(推定)宛に送った書簡では、

  

去年の秋より心にかゝりておもふ事のみ多ゆへ、

却而御無さたに成行候。……略……

  元日は田毎の日こそ恋しけれ ばせを

 

弥生に至り、待佗候塩釜の桜、松島の朧月、

あさかのぬまのかつみふくころより北の国にめぐり、

秋の初、冬までには、みのをはりへ出候。

……略……、

猶ことしのたびはやつしやつして

こもをかぶるべき心がけにて御坐候。

其上能道づれ、堅固の修業、道の風雅の乞食尋出し、

隣庵に朝夕かたり候而、此僧にさそはれ、

ことしもわらぢにてとしをくらし可甲と、

うれしくたのもしく、あたゝかになるを待佗て居申候。

……略……。

 

と書きしたためている。(村松友次著「芭蕉の手紙」)と述べている。

 

にもかかわらず肝心の松島にはたった一泊の滞在であり、俳句にいたっては一句も作っていない。なお、書簡の末尾近くの

「其上能道づれ……」

の一節は、昨年(元禄元年)八月、芭蕉の帰庵を待って入門した路通の事と推察される。なぜ路通から曽良へと随行者の変更が急になされたのだろうか。しかも旅立ちの前に一週間も千住に滞在している。

松村友次氏の説では、

「元禄元年幕府と伊達藩は日光東照宮の改修問題をめぐって対立していたことが明らかになった。つまりこの歳の初め、大改修を命じられた伊達藩は財政難を理由に翌年春まで着工を渋った。結局受諾して幕内の大工や棟梁などを動員したのが翌年の初夏で、ちょうど芭蕉が仙台に着く頃であったので、幕府(特に水戸幕)は曽良に伊達藩の調査を依頼したものと思われる。」

と。

なお、昭和十七年八月、山本安三郎氏によって翻刻された「旅日記」をみると、これは延喜大神名帳抄録・名勝備忘録・随行日記・俳諧書留からなり、日記には旅の記録や俳諧の書留以外に神社仏閣のことが細々と書かれている。また、非常に距離や方角のことが良く記録されている。日記の他残された記録によって追ってゆくと時々所在不明になることがある、幕府の命令を受けていたものとみられる。

 曽良は「奥の細道」後、元禄四年(一六九一)に近畿地方の神社仏閣を視察し報告書を書いている。畿内では一揆が多発し、幕府はその動向を監視していた時である。

 幕府とのつながりがあることについては、その他旅費についても考えられる。

奥の細道 行程約二四〇〇キロメートル、日数一五六日、当時の文人墨客の旅行は次々に紹介状を書いてもらいながら宿をえていた。それでも不意の宿泊や食事代、心付け等をあわせれば常識的にみて今のお金で三〇〇万円程はかかった勘定になるから、これらの旅費は幕府から出ていたとしか考えられない。

十月二十六日曽良宛の素堂書簡には、「御無事に御務被成候哉」とあり

幕府に関係した仕事を終えたことを意味している。そのころ六代将軍家宜は諸国巡見の検察を全国七班に分けて大がかりにおこない、曽良も随員の一人に加えられている。

 元禄七年十月二十六日付曽良宛、山口素堂(芭蕉の友人、後に葛飾蕉門の祖と呼ばれる)の書簡の一部を左記する。

  

御無事ニ御務被成候哉。

其後便も不承候。野手鏡妻ニ離申候

  尚、当月ハ忌中ニ面引篭罷有候。

 

一 

桃青大坂ニテ死去之事、

定面御聞可被成候。

御同前ニ残念ニ存事ニ御座候。

嵐雪・桃隣廿五日二上り申され候。尤二奉仔候。

 ……略……

  曽良賀丈    素堂

 

村松友次氏は、「御務」の二字について、その務めはアルバイト的な働きロとか、少々の無理はきくとか言った種類のものでなく、強く管理されている務めのようであると推定されている。

なお、江戸の俳人仲間とも疎遠となるような(「其後便も不承…」)務めであったとされている。

 曽良が二十歳台はじめに伊勢長島藩松平佐渡守亮直公に仕えたことはわかっているが、その後どこかの藩に召抱えられたということはどの伝記書にもない。これらの諸点が、「務め」という事は、幕府筋のある機関ではなかろうかと推定する理由である。と記されている。

                (村松友次著「芭蕉の手紙」から)

  曽良 筑紫最後の旅

 

宝永七年(一七一〇)三月中旬、曽良は本姓名にかえって仕番小田切靭負直広のもとに随員としてくわえられ江戸を立つ。この随員の一行の旅程は、日々の検察予定割りがあってそれはかなり忙しい務めであった事が想像される。「文昭院御実記」中、巡検使の記録の中には

公私の領地において、江戸の御紋に異なることあらば尋問し、

帰府の後聞え上ぐ可しと仰付よ。

とあって、その為の検察事務は、相当に厳重なものであったとみることができる。

 彼らは約半歳の間に、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩、壱岐、対馬、五島列島の七ケ国と三島を巡検して廻るということは大変忙しい公務であったことが推測される。 

曽良が五月二十二日壱岐の勝本で病死するまでの間に巡り歩いた旅程は、地理的にみて筑前、筑後のニケ国であったと思われるが、江戸をでて六十七、八日目に亡くなっている。殊に社寺方面の検察は、表面的に見えている部分ではなくて、潜在的な人の気持ちを捉えて、それに誤りのない判断を下すのでなければいけないのだから、中々厄介な仕事であったと見ることが出来る。一国に要した日数は凡そ二十日前後とみてよいようである。

それから壱岐の島にわたっているとみられるが、この壱岐の島と対馬とは、支那(現中国)、朝鮮(現韓国)に渡る交通上の要衝にあたる島なので、古来からこの島については、政治上いつの時代も総てを重視してきている。それだけにこの時の巡検も相当厳重に行われたもの

と思われる。勝本に曽良がいた頃には、持病による心身の疲れが相当なもので、健康上からももはや職務に耐えられない状態になっていて、病状はかなり重かったのではないかとおもわれる。そして、江戸を出て六十八日目、勝本町の海産物問屋中藤家で亡くなった。六十二年の波乱に満ちた生涯である。松浦藩も曽良に対して出来るだけのことをしていたとみられる。壱岐には今も、中藤家に滞在中、京都生まれの女絵師を連れていたという流説がある。誠実で真面目な曽良の艶聞として、芭蕉における寿貞の如く興味と関心をもって今後の調査対象の一つとしたい。

 

曽良、壱岐について

 

壱岐の地勢は、玄海灘に浮かぶ孤島である。全島の姿がカレーライスの皿を伏せたように平たく多少の水流もあり、何処をとっても田畑が出来る広潤な穀倉地帯である。従って、北九州の大勢力がこれを併合しようとしてひしめいたのは当然といっていい。このため地場えの勢力が育たなかった。常に支配者は本土から来た。その系列はしばしば複数で、互いに争い最後に残ったのが旦高氏であった。日高氏は自立出来ず、壱岐を平戸の松浦氏に献じ、その系列下に入り、その家老になることによって勢力を保った。つまり壱岐は平戸の松浦藩の領地として、戦国末期から明治維新まで続く。行政府は郷の浦に置かれた。

壱岐は平戸島という農耕地として痩せた島が権力の中心になっているために壱岐農民は搾られるだけ搾られたのである。一例として、地割の制度というものがある。原則として、土地所有の主が法理的に藩であるというかたちである。江戸時代、土地を私有するものは農民、町民であったが、平戸藩には上代の律令制的な意味での土地公有の思想があった。土地は藩のものであり、かりに農民に貸してあるという形の思想である。このため壱岐では農民が自分で耕している田畑を売買することが出来なかった。この上にたって、土地の割替がおこなわれた。十年毎に、トランプを配り直すように、村内の土地が割り替えられた。十八世紀頃の壱岐島の米の穫れ高は六万一千石である。壱岐島がこの小藩の財政にどれほど重要であったかがわかる。

  

曽良の病死について

 

曽良の病死については諸説があり、今後一層の研究が必要である。

現在、病死以外の説としては、次の説などがある。

 O 

若し、曽良が幕府の隠密であったとすれば、ある藩の不正が幕 府に知られることを恐れて毒殺の方法で葬り、表向きは病死としたのではないかの説。神道研究家野沢鍛治氏はこの説の徹底した研究をされている。

 曽良は病死したのではなく、遁世したのではないか。この説については、昭和十三年四月、日天教授渡辺徹氏が、岩波書店の「文学」に「曽良伝存疑」と題して述べている。

 

曽根と神道

 河合曽良は、信濃の国上諏訪に生まれ、二十歳前後には長島藩主松平亮直に仕え、江戸に出てからは、吉川惟足に入門し神道の学問に専念する。吉川氏が幕府の公儀神遠方に任ぜられれば、曽良も当然幕府に関係を持っていたと考えられる。曽良の「旅日記」によれば惟足門下の田中式如・長岡為麿・鈴木主水等と交渉があり、晩年には曽良自身が惟足の嗣従長の許に奇寓していたらしい。(上野洋三著『芭蕉論』)

 宝永七年、西国へ向けて旅立つ前にのこした所持品のなかで、書物は「日本紀」・「旧事記」・「古事記」などの吉川神道の三部書といわれるものだけであったと伝えられている。「旅日記」の元禄四年(一六九一)七月十五日によれば、伊勢で「中臣祓」を講じているところをみれば、その神道との関係が、なみ一通りでなかったことが推測されるのである。

 

〈参考文献〉

○井本農一外四名 編集 「俳諧大辞典」 明治書院

○荻原井泉水著     「曽良の事」(「奥の細道評論」所収)

○山崎 喜好著     「細道の曽良」(国語国文、昭二四・一)

○久富 哲雄著     「曽良」(解釈と鑑賞、昭三〇・二)

○堀 信夫外二名校注・訳「松尾芭蕉集」小学館

○新開 淑郎著     「芭蕉への試み」白鳳社

 






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最終更新日  2021年11月18日 16時12分51秒
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