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明治日本の石油事情
H・リビーの書簡に見る明治の市場調査
『歴史読本』『のぞきみ日本以外史』1991-6 一部加筆 山梨県歴史文学館 中井一水氏著 作家
スタンダード・オイノレの調査によると 明治の日本は金持ちも貧乏人も石油を使う よいお得意さんだったとか……
洋各国の思惑など、まったくといっていほど慮る余裕などなかったであろう。 まして、日本からの輸出にしても、たかだか生糸や絹織物、茶ぐらいでしかなかった時代である。マーケッティング・リサーチ(市場調査)の思考など、あろうはずもなかった。 だが、文明開化をもたらした諸外国では、すでにこの時代、自国内のみか各国でのマーケット・リサーチを、積極的に実施していたのである。これから紹介する…H・リビーの書簡…なるものも、まさにそのひとつであった。 もっとも、″明治初期の市場調査″といっても、今日みられるごとき科学的分析をともなう調査でもなければ、高度なハイテク機器を駆使しておこなうものでもなかった。 ともあれ、H・リビーの書簡が、意図したところの日本における石油事情の調査・報告にとどまらず、前近代的状況下にあったわが国の世情の一端をも伝えている点で、きわめて興味深いものがあるので、以下に抄出しつつ当時の外国人の日本観を窺ってみたい。 H・リビー……正しくはW・H・リビ‐<Wmiam H.Libby〉……は、アメリカのスタンダード・オイル・カンパニーが、東洋での事業拡張をはかるために派遣し、石油の市場調査や交渉に当たらせていた人物である。 いまもって、メジャーとして世界に君臨するスタンダード石油は、和暦でいえば明治三年(一八七〇)、ロックフエラーらによって、アメリカ・オハイオ州に設立された石油会社であった。 同社は十年ほどの間に、アメリカの石油精製能力の約八○パーセント、パイプラインのほぼ九〇パーセントを支配下に収めると、やがて、精製・輸送・販売から原油生産の統合を図り、市場を独占化するにいたるが、H・リビーが日本へ派遣されたのは、そうした事業拡大の真っ最中、明治十二年五月から八月までの約三ヵ月半である。 当のH・リビーは、一八四五年生まれのイングランド系アメリカ人。日本にやってきたときは、少壮気鋭の三十四歳であった。
ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする
わが国が欧米風の生活様式を模倣し、とり入れるようになったのは、いうまでもないことだが、幕末維新のころからであった。明治維新が日本史上、まれにみる一大改革であったのと同様に、この時期の生活様式の西洋化、つまり、文明開化は激しい潮流となって、日本中に渦巻いていたといってよい。 H・リビーは日本(横浜)に上陸すると、各地で様々な情報を収集しては、スタンダード・オイル・カンパニー傘下の石油精製会社、チャールズ・ブラッド商会宛に書簡を発送した。 「石油は専ら灯火用として使われている。 薪炭が安いうえにストーブが高いことから、 石油が暖・厨房用として使われるに至っていないようだが、 そのため一般庶民は、冬の間、 きつい寒さに震えているという話だ。(略)
ガスエ場はほとんど見られず、あっても小さい規模だ。ガスは横浜と東京では幾分使われているものの、今のところ、まだ石油に対抗できる段階ではない」(五月十三日付) 文明開化は、とりわけ鉄道の開通、電信の設置が驚異の的であったが、灯火がもたらした威力もまた絶大であった。ランプをはじめとする西洋の灯火は、日本人のそれまでの生活を大きく変えたといってよい。 ガスは主にガス灯として、夜の街頭を照らした。 「灯光、陸離と輝き、忽不夜城となる。即是文明の余輝なり」 (『東京日日新聞』)と報じられた東京・銀座のガス灯は、明治七年十二月、八十五基が 設置されて明りがともった。 横浜でのガス灯設置は、東京よりはやい同年七月のこと。それでも一基、月額四円五十銭の点火料の支払いを市民が拒んだほどだから、広く普及するはずもなかった。 そうした状況下で、H・リビーが調査した日本の石油消費量はどのようなものであったか。 昨年より増えるのはほぼ確実だが、 一八七七年に対する七八年の伸び率と同程度になるかどうかは、 今の所、何ともいえない。 七八年の石油消費量として最も近い推定値は、
横浜周辺地域 五〇、〇〇〇ケース 兵庫周辺地域 二五、〇〇〇ケース 長崎周辺地域 八、五〇〇ケース
月平均である。(略) 一方、一八七九年の消費量は過去四ヵ月のデータを入手して調べた結果、阻害要因がない限り、次のように予測できる。
横浜周辺地域 六〇、〇〇〇ケース 兵庫周辺地域 三五、〇〇〇ケース 長崎周辺地域 一二、〇〇〇ケース
ー八七九年の月平均推定消費量=一〇七、○○○ケース
従って、手持ち品と現在船積中のもの、未通関品を合わせれば、 日本の一〇ヵ月分の需要は十分満たせるし、 恐らく一一~一二ヵ月は持つと考えられる。(同前)
つまり、日本での石油消費量は、一ケース約一八・九リットル缶二個入りだから、合計約四、〇〇〇キロリットル強と見積っているのだ。 そして、 「日本は成長率の商い重要な市場である。石油は新聞等を通じて広く紹介されつつあり、好意的に受け入れられている」
と書き送り、翌六月十四日付書簡では、 「東京の人口はニューヨークとほぼ同じだが、居住範囲はニューヨークよりはるかに広くなっている。(ガス灯の点灯している)一部の街頭とビルを除くと、すでに石油がローソクと菜種油にとって代ったような感じである。 東京は恐らく、世界最大の消費都市といえるだろう。」
と、いまに日本が世界一の石油消費国になると予測しているのは、いささか卑近的かつ短絡的観測とはいえ、正鵠を得た報告といえる。
また、H・リビーの着眼がおもしろい。このころ、日本では人力車の全盛期であった。 「人力車については、前の手紙で、乳母車を大きくしたもので国内旅行唯一の乗物、と 書いた。その総数は全国で約三〇万台と推定され、夜間は灯火の携行を法律で義務付 けられている」(六月十四日付) といい、これまでの人力車の灯火には、獣脂の安いローソクが使用されてきたが、これを石油の灯火に替えようと考えた者は誰もいない。もし、これを実現することができれば、年間に少なくとも三〇万ケースは需要が伸びるであろう。 ただし、現在の紙製のランタン(提灯のこと)では石油が使えないので、安全かつ廉価なランプの開発が必要だが……と述べているのだ。
幕末維新のころ、一般的な乗物は駕龍であった。が、明治とともに人力車が出現すると、瞬時にして駕能にとってかわった。人力車が官許されたのは明治三年。それからわずか二年後の明治三年には、東京だけでも約二万五〇〇〇台、明治八年には全国で一一万四〇〇〇台を数えることができた。だから、推定″三〇万台″は少々、オーバー過ぎよう。 H・リビーの着眼はよかったものの、この人力車も東京市内を鉄道馬車が走るようになり(明治十五年)、追々、鉄道路線が延伸されるにしたがい、伸びは鈍化、明治二十九年の二万台をピークに以降は、急速に姿を消していったから、残念ながらこの予測は見事にはずれた。 在日期間はわずかではあったが、H・リビーは先の人力車を駆って、横浜から兵庫へ調査旅行をしている。 「道中は主に、無理に屈み込んでやっと入れるくらいの人力車を使用したが、時々、駕能に″体を折り曲げて″乗り、(略)そんなこんなで三五〇マイルほど旅して、やっとの思いで兵庫に連絡している京都に着いた」(七月二日付)……ものの、この旅行は、旅館では天井のネズミや、蚊・ノミに悩まされたのであろう。 「至るところに住んでいる働き者のノミには、我々がまさに格好の〈献立〉に見立てられ るなど散々でした」(同前)
と、ユーモラスに苦情を述べている。このころ、鉄道は明治五年に新橋・横浜間、同七年に大阪・神戸間が開通。H・リビーが兵庫へ出向いた前々年(同十年)に、ようやく京都・大阪間が開通したところであったから、人力車と駕能を乗り継いでの横浜から関西への旅は、外国人にとって大変だったに違いない。
成り金日本の反面教師
H・リビーが散々苦労して兵庫へ赴いた目的は、もちろん、石油鉱区の視察と石油需要の調査であった。鉱区視察の結果については、
明治初期に流行したこの俗謡が示すように、文明開化の最も凄まじかったのは、明治政府が成立・発足してから十数年の間であった。 あらゆる欧米の制度や文化・文明を、無批判に移入・模倣するのに懸命であった日本人は、当然のことながら、これら文明をもたらす諸外国を理解することもなければ、輸出にやっきとなっていた「西日本の石油生産は恐れるに足らず」 と確信をもって報告しているし、事実、今日に至ってなおそのとおりなので、あえてふれない。来日以来、H・リビーが石油事情調査のために訪れた主な都市や町は、一ヵ月半ですでに四十近くにも及んでいたが、兵庫でも、 「昼はケースやランプの展示伏況、夜はその用途や普及具合を見て回っている」 といったもので、日本人と石油の関わりについては、
「(全般に日本人は)商人も貧乏人も、茶屋も寺も、聖人も罪人も、僧侶も皆それぞれ石油の消費に微力ながら貢献しているから、日本の人口と貧困状況を考えたとき、石油業の発展ぶりには日を見張らさせられる」(七月二日付)
と観察している。兵庫での視察・調査を終えたH・リビーは、そのまま長崎まで足をのばしたようだ。思わぬコレラの発生で十日ばかり足止めを食い、上陸を禁止されている蒸気船・名古屋丸の船上から書簡を認めている。
「真性コレラ発生のため、長崎港で検疫を受けているので、上海に着く前に手紙を出す機会が持てた」(七月七日付)
とあるから、長崎から上海へ渡航する予定だったのだろうか。この手紙が書かれて後の八月、横浜から発信(二回)された手紙の何れにも、上海での事柄は記されていない。 紙幅の都合で割愛せざるを得ないが、H・リビーの書簡にはほかにも、石油事情の調査活動をとおして当時の日本の民情を映し出しているところが多く、読んでいて興味の尽きることがない。なかには、 「お祭りとなると、小売商が街頭に屋台や売店をズラッとならべ、そこに人がワッと集ってくる」(六月十四日付)
のは今日でも散見できる風景だが、
「その祭りの夜はあらゆる場所で石油が使われているので、これ以上に灯油としての石油の安全性を立証するものは他に見当らない」
などと、へんな牽強付会のあるのもほほえましい。 H・リビーが日本から発信したこれらの書簡は、いまから百年余も以前のものである。そこにみられる諸々の現象や記されている多くの事情は、いまや、ほとんど見聞することはないといって間違いあるまい。 そればかりか、H・リビーが優越感をもってのぞんだであろうこと、さらにアメリカをさえ、日本は百年にしてきわめて広範な分野で、追いつき、追い越したのである。だが、それにはH・リビーたちのような先達があり、それを模倣することなくして今日の日本がなかったのも事実であろう。それは決して、マーケット・リサーチにとどまらない。 明治は遠くなったが、未だ日本および日本人にとって、捨て去ってはならない時代のようだ。即ち、明治日本は成り金目本の反面教師なのである。
(本文中の書簡内容は、モービル石油㈱広報部発行の『リビーの書簡』を使用しました)
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最終更新日
2021年11月21日 07時10分20秒
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