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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年11月25日
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カテゴリ:山口素堂資料室
山口素堂の研究 荻野清氏著

山口素堂は寛永十九年五月五日(一説に正月四日)甲斐北巨摩郡教來石字山口に、郷士山口市右衛門の長子として生まれた。名は信章、字は子晋また公商、通称は勘(官)兵衛といった。初め來雪と號し(延寶六年初見)、後素堂と改めたが、(同八年)それは堂號素仙堂の略で、隠棲後の呼名素道と音の通ずるところから俳號に用ゐたものといはれてゐる。別に信章斎、松子、蓮池翁とも號し、且つ茶道の庵號として今日庵、其日庵等があつた。享保元年八月十五日、武蔵葛飾に於て病歿。享年七十五歳、法名廣山院秋厳素堂居士、遺骸は上野谷中感応寺中瑞院に葬られたが、別に小石川指ケ谷厳淨院に山口黒露の建立の墓があり、元禄九年故郷甲斐濁河の治水に、代官櫻井孫兵衛政能の懇願によって助力したので、里人その恩に感じ、後年蓬澤に祠を營んで山口靈神と稱してゐるのである。
山口家は彼の少青年の頃、甲府に移り、魚町西側に居を構へ、酒造業を營む富商として、時の人から山口殿と稱せられゐた。
 彼はかゝる境遇に恵まれつつ好學の若き日を送つたが、寛文の初年頃であったらうか、遊學のため江戸へと志した。家督を弟に譲ったいふのもこの頃であったと推定される。 
 江戸では林羅山の第三子春斎より經學を授けられ、京へ赴いて和歌を清水谷家に(或は持明院家ともいふ)書道を持明院家に學んだといはれる。かくて延寶年間、何かの公職に就いてゐたらしいが、同七年の頃、職を辞して上野不忍池畔に退隠した。その剃髪も改號(素堂)も、この時にかかはりを持つものであったらしい。 
 ともあれ、ここに隠士素堂の生活が開始された。彼は更に閑居を葛飾の阿武(あたけ)に移した。不忍退隠後は、漢詩・和歌・俳諧・書道・茶道(宗旦流)・香道・猿樂(寶生流)・等に瓦つて廣く樂しみ、葛飾へ移住後は、葛飾隠子、又は江上隠士として悠々隠逸の境に徹し、庭池に蓮を植ゑ、菊園を造り、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」といつた、京都東山隠士木下長嘯子の言葉をあはれみ(芭蕉『嵯峨日記』)ひたすら簡素・静閑の世界に端然と起居したのであつた。
 けれど、至孝を捧げた母を失ひ、且つは小名木川を上下して親しく交渉したる芭蕉をも引續いて失つてからは、とかくこの閑居を出ることが多くなつた。即ち、元禄八年には父母の展墓のため甲府に歸り、身延に詣で、その翌年も甲府に赴いて濁河の治水に努め、爾後、東海道を西へ、京都を中心として、山城・近江・伊勢・尾張等への旅を屡々試みてゐるのである。而も千年の古都京の風光を酷愛し、その地に居を移さうとする心持さへ抱いてゐた。
 その老後には、瘧を煩つて危篤に瀕し(寶永七年か)、正徳三年の師走には火災にあつて翌年の新春を他郷で迎へ、また山口本家が零落するなどと、人生の不幸を味つたが、それやこれやでその生活は不如意であつた。だが彼は清貧のうちに身を高く持してゐたもののやうであつた。
 素堂の俳壇への登場は寛文七年(時に廿六歳)、加友撰の『伊勢踊』で「江戸山口信章」として五句入集してゐる。もとよりその句振りは          
   かへすこそ名残おしさは山々田  
といつて具合に、貞門風そのものであつた。かくて延宝二年十一月には上洛して季吟以下の歓迎百韻の席に臨んでゐる(『廿日會集』)。けれど翌年五月には、大阪より東下して談林風を鼓舞してゐた總師宗因を中心に、桃青(芭蕉)らと百韻興行に参加し、新風への關心と接近を示したのであつた。時に彼の周囲には桃青あり信徳あり幽山ありで、「江戸両吟集」(同四年)・「江戸三吟」(同六年)・「江戸八百韻」(同年)と、談林讃美の心から、談林風の俳諧をものし、甚だ熟情的に活躍した。
 當時の彼の俳句、「江戸新道」(同六年)所収。
  かまくらにて    目には青葉郭公はつ鰹   
 は諸書にも採録されて、彼の作品中最も有名であるが、古歌以来の初夏の風物として青葉と郭公に更に鎌倉名物の初鰹を添へたものである。
 最初の「目には」・で、以下「耳には」・「口には」を類推させるあたり、談林作家としての彼の得意の程が思はれる。その軽快の調べと、江戸っ子の愛好した初鰹のあしらひとが、初夏の清新さを表現して、大衆の人気を獲得したのであつた。延宝に於て芭蕉と交渉を持った素堂は、天和に入ると愈々その親交の度を加へて行つた。當時は所謂虚栗(みなしぐり)調流行時代で、それは芭蕉の新風開發の劃期的まものであつたが、その漢詩や和歌を取り入れた佶屈な句作りは、漢學や古典の教養深き素堂の得意とするところで、ここに再び彼の制作熱が燃え上り、新調のよき支持者となつたのである。
荷興十唱(中一句)    浮葉巻葉此蓮風情過たらん (虚 栗)
 この句の「蓮」はレンと音讀せねば一句の趣きがないと芭蕉は評したが(『草刈笛』)、それはこの句全體の格調が破れてしまふからである。一句としてよりも生硬を免れ得ぬものの、彼一流の高致の気概が内在する。 貞享から元禄にかけて、その閑居葛飾が深川の芭蕉庵に程近い關係からか、芭蕉一門との交渉が益々繁くなつた。
 貞享度はもとより『冬の日』・『春の日』が公にされて蕉風の確立を見たが、これに續く其角編の『續虚栗』(同四年)の序に於て、素堂は、景情の融合を望み、更に『時の花』・『終の花』の論に及び、時の花は一時的興味的美であり、終の花は永遠的生命的詩情であると、蕉門の不易流行説の先驅説を述べてゐるが、當時の彼は自然を凝視し静観する制度に立って氣高き幾つかの作品をうたひ上げた。      
雨の蛙聲高になるも哀也 (貞享三年・『蛙合』)    
春もはや山吹しろく苣苦し (同四年・『續虚栗』)   
 かくて世の聲望を得つつ元禄期に入り、その三四年に至るまで、相當數の作品を制作したものの同五年の沾徳撰の『一字幽蘭集』の序文に於て、彼は、自己を絶對視して他の排撃することを避け、是非・新古は畢意鑑別しがたく、俳諧の風體は推移に任すべきであると、主義主張にかかはらぬ自由の態度を示すに至つた。これは、一門の總師として、この一筋に繁がり、ひたぶるに新味を追求し、新風を宣揚したやまぬ芭蕉の生命を賭しての俳諧態度とは全く對蹠的で、清閑の世界にその多趣味を樂しみつつある隠逸者の性格と生活の自づからなる歸結であつたのであらう。この態度はその命終に至るまで變る事が無かつたが(『とくとくの句會』自跋参照)、かくて彼自身の制作熱が微温的となり、而も俳諧の良友たる芭蕉を失つてからは、愈々それが低下の一路を辿つて行くのであつた。
 だが彼は寛文以来長きに瓦る作家であり、且つは高潔の人格と和漢の深き學識の故に、人々の尊信を得つつ、依然として俳壇の高き位置を占めてゐたのであつた。
 彼と芭蕉との交渉に就いては記すべき多くの事柄もあるであらうが、ともあれ彼は芭蕉より二歳の年長とはいへ、彼の及び難い芭蕉の俳諧的力倆を畏敬したことであつたし、芭蕉も素堂の學識と人格を尊重しつつ、彼の俳諧を推進するに當り、素堂の心からなる支持に多分の喜び力と得たことであつたに相違ない。
 真実二人はこよなき俳友であり心友であった。
 素堂の俳系は門下の長谷川馬光(素丸)に継承され、彼は葛飾正風の開祖と稱された。もとより彼はさうした意識はなかつたのだが、かく開祖と仰がれるところに彼の徳望の自づかからなる現はれであり、のみならず、葛飾蕉門がその後長く栄えて行つたことはまことに慶祝であつた。彼の句集には、
 荻野清氏の好著「元禄名家句集」中の素堂篇がある。 (大分大学教授)
   『枇杷園句集』…びわえんくしゅう。日本俳書大系 巻十四 巻之四  冬
 時 雨
はつ時雨野守が宵のことばかな   素堂 
鳴海にてしぐれそめけり草鞋の緒  素堂 
 竹葉軒
さゝ竹にさやさやと降すぐれ哉   素堂 
獨居や古人がやうの小夜しぐれ   素堂
 芭蕉忌
世にふるはさらにはせをのしぐれ哉 素堂
 素堂は芭蕉の善友なり。一日風のばせをの破れやすく、霜の荷葉のかゝるを悲しみ、世の形見草にもとて甲子吟行を評して曰、静なるおもむきは秋しべの花に似たり。その牡丹ならざるは隠士の句なればなりと。けふまた其静なる趣を弄して手向草とす。  
月時雨さりとては古きけしきかな  素堂 
一雲に夜はしぐれけり須磨明石   素堂 
山茶花の手をかけたれば時雨けり  素堂 
茶室迎友
窓ぶたになるやしぐれの松のかげ  素堂 
夜しぐれに小鮑焼なる匂ひかな   素堂
 
素堂句集    
 夫れ人に生有れば必ず・落する也。唯だ言語ありてここに文辞を紙上に載す。而して千歳之れ久し難し。猶、面に接するに於てその人奥ある也。隠逸山口素堂信章は、江城の北東浅草川両国橋の傍ら、下総の国葛飾の郡の内に於て廬を結び、歳月を経て久し。
 禀性野の志多く、固より貸財を以て世事を経ず。心偏らず雪月花の風流を弄ぶ。若冠より四方にあそび、名山勝水、或いは絶神社、或いは古跡の仏閣とあますことなく歴覧す、亦た數うるにかのうの師なり。
  詩歌を好み猿楽を嗜み、和文俳句および茶道に長けたるなり。その作『蓑虫記』は風俗文選に載す。俳句を載せここに俳諧糸屑して行く世なり。天質疎通彊記
 往く所の詩歌和文等の作は皆胸中に於て暗し、人が紙硯を具へて之を請へば則書き、而してここにその筆書を与へる也
 左の如き草稿は寫してここに貴顕これを召し、好事者は最も鐘愛す。招きに依り人の寓にとどまること或いは三、五日或いは十日、然れども阿邑諂諛の意も無く与人に非ず、対話し、則ち黙しては泥塑の如し。人に説く話は、固より言多からず也。
 その庵中に蔵する所の書は数巻、及び茶器に爨炊の鍋竈。而して己れ又一力助あり、薪水の労なり。予は幸い新灸の即に十有余年を得る。其の和文・詩歌・俳句等数十帋悉く匣底に蔵す。然るに其れ蠧害を患ふ。旦に好欲の者頗つた蒐輯は冤にして、以て冩し別け猪を積みて一帙を成す也。惜しむらくはその他の文詞は人の手に在りて得ず、矚者に亦た多くの許しをえん。
 害嗟嘆。此の人これ謂ゆる善き隠逸者なるべし。享年七十余にして嬰病享保元年丙申歳八月十五夜、遂に世を謝す也。武江城の北東の隅、谷中感応寺中瑞院内に於て□ず。 □-エイ
  號して廣山院秋厳素堂居士と爲す。
享保六年辛巳年氷壮中旬  子光 誌
 
一 門云、曠野集(ひろのしゅう)に、
  蓮の實の抜け盡したか蓮の實か 越人
 此句、ある人の説に、越人、素堂亭へ行に、例の蓮池より蓮の實を取りてもてなすに、皆くひ盡して、ぬけ盡したる蓮の實がもうないかと、馳走を忝くするの挨拶也。物を残すは不敬にあたれば、かくは興ぜし句作也といへり。いかゞ。
 一荅、さにはあらざるべし。越人が素堂の所へ行て蓮の實の馳走にあひたるにもせよ、皆喰ひ盡して、ぬけ盡したる蓮の實がもうないかと、馳走を忝くするの挨拶也とはおかしからず。愚案にては蓮は花の清香なるもの也とも云て、佛家その清香を愛して、専ら蓮花を玩びて佛座とも成し、又浄土の池中、其花の大サ車輪の如し とも説り。唐土には美人の顔(かんばせ)にもたとへたり。芙蓉モ不∨及美人ノ粧といふも、其蓮花の清香の、かたちよりはまたまさりて美人なりといふ事也。芙蓉といふは即ち蓮花の事也。今いふ芙蓉は木芙蓉といふもの也。
 素堂は山口氏の隠遁したる也。かの謝靈運か癖を傳へて蓮を愛せり。蓮庵と云、素堂といふ。
 尤白蓮を愛せしと見えたり。其氣性清潔たる、推して見るべし。
 その素堂に對して、越人亦其向上の趣意を句作れり。其ゆへは、此清香淨潔の蓮に實の多くみのる事こそ本意なけれ。されば蓮の實の本意であるかといふ句作にして、尤蓮の實情えお尋出し見附出したる向上の趣向也。唯ひと通りの挨拶・洒落の句にてはあるまじ。
  朝顔や此花にして實の多き
 といふ句をもつて解すべし。此句、作者忘れたり。おのづから句意明か也。





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最終更新日  2021年11月25日 07時16分27秒
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