カテゴリ:俳人ノート
山梨の俳人 石原八束
【略歴】
山梨県錦村二之宮(現・笛吹市御坂町二之宮)に生まれる。 本名は「登」、病弱であったため生後すぐに「八束」に改名。 ●1937年(昭和12年) 父の師である飯田蛇笏に師事する。 飯田蛇笏の俳誌「雲母」八束も「雲母」に投句を始める。 ●1943年(昭和18年) 中央大学法学部を卒業する。 ●1947年(昭和22年) 蛇笏の子息・飯田龍太とともに「雲母」の編集。。 ●1949年(昭和24年) 三好達治に師事 ●1956年(昭和31年) 「馬酔木」に「内観造型への試論」を発表。 ●1960年(昭和35年) 三好を囲む「一、二句文章会」を自宅にて毎月開く。 ●1961年(昭和36年) 俳誌「秋」を松澤昭と共同で創刊、のち主宰。 ●1976年(昭和51年) 第六句集『黒凍みの道』で芸術選奨文部大臣賞受賞。 1997年 現代俳句協会大賞受賞 同年『飯田蛇笏』で俳人協会評論賞受賞。 現代俳句協会および俳人協会顧問。 1998年 7月16日、呼吸不全のため死去。
風信帖……石原八束……
無垢の星背負ひし妻の墓洗ふ 何思ふなんばんぎせる炎(ほ)の羞屈 蝶翔(た)つて草の泉を傷つげる 螢火や曼陀羅闇の谷の音 夜明け前の螢は空にのぼりけり 蛇の目の光る一閃の秋螢 高杉の漆黒に点(つ)く高螢 螢川夜明げに間ある波明り 灼(や)けたつて光り渦巻く白砂丘 風紋を刻みて砂丘燃え動く 木苺を摘むとき乳房肌刺され 薄ものに肌くねらせて女身仏 夜濯ぎのことには触れず抱かれをり 思草苦悶の炎色ひそめゐし 黙したる泉に映る空の刻 凌霄花ややの産声宵におこる (凌霄花 のうぜんか) 蝶が来てとまればぬむる含羞草 (含羞草 おじぎそう) 白い道は雨に汚れゆく薄暮 紅濃くて夏痩せ妻の疸ばしる 目には目をあとは蝮の牙抜け (蝮 まむし) 赤潮の骸(むくら)を襲ふ大鴉 闇の奥噴水あをく燃えてけり 大波の闇うねりくる野分かな 海も空も逆さに駆くる野分かな 凌霄花二毬(まり)垂れて天龍峡 駒ケ岳霧韻に草の咲きにけり ケルン積めば影立つてすぐ霧に消ゆ 小岩鏡咲きみだれてぱ彩(いろ)燃えず 岩鏡霧がかるとき細(ささ)め哭く 声のなき氷河の裾の岩鏡 霧の石を賽(さい)の河原の稚児に積行 白ら右ほど銀河流るるはねつるべ バンの灯が新涼の翳(かげ)つくる河岸 木天蓼に猫唐辛子わが孤愁 (木天蓼 またたび) 辣韮の花のさざなみ空にたつ (辣韮 らっきょう) うそ寒し腐蝕の命地に還れ うそ寒の宿世のえにし背にまとふ (宿世 すぐせ) うそ寒むの浮べてゐたり世辞笑ひ 木枯になぶられてゐる胸の傷 むきあへどけむりのはれぬちりれんげ 雪に落ちて焼炭の艶まさりけり 白刃の風をそびらに氷下魚釣り (白刃 はくじん) 浅蜊買ひ笊にうつせば筑かたし (浅蜊 あさり) 軍勢の響のとまる花の闇 六兵衛も二代目鮨の達治の忌 晴れきつてしまへばむなし春闘裡 千輪の花勢みなぎり牡丹咲く 咲きしづみゐてたわわなる白牡丹 ひらくほど紅さしてくる大牡丹 金の置に微光のこもる黒牡丹
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最終更新日
2021年11月26日 06時01分45秒
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