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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年11月26日
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   浅草寺 せんそうじ

 

   『日本仏教総覧』 別冊歴史読本

   一部加筆 山梨県歴史文学館

 

① 開祖 土師真中知(はじのまつち)檜前浜成 檜前竹成

② 現貫首 壬生台舜(みぶたいしゅん)

③ 宗派・寺格 聖観音宗(昭和25年独立)・総本山

④ 本尊 聖観世音菩薩

⑤ 沿革

聖観世音菩薩は、椎古天皇三十六年(六二八)宮戸川(現隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成兄弟の投網にかかり示現(じげん)されたという。

それを土師真中知(一説に土師真人中知・土師直中知)が自宅を寺堂として安置し、自ら剃髪出家してまつったのが浅草寺の草創である。

一方、これに対し十人の草刈り童子が藜(アカギ)をもって草堂を建てて祀ったという伝承もある。

のちにこの人たちは権現思想により三社権現(現浅草神社)及び十社権現(現廃社)として祀られ、浅草鎮守の神となった。平安時代天安元年(八五七)慈覚大師が来山し「御前立本尊」を刻まれ、中興開山となった。

天慶五年(九四二)平公雅が当寺への祈願によって武蔵守に任ぜられた報酬として、諸堂を建立し、荘園を寄贈した。

 浅草寺の寺名は、史実の上では『吾妻鏡』の建久三年(一一九二)五月八日の条が初見であるが、戦災により昭和二十年三月に焼失した観音堂趾の発掘による古瓦などの出土品から、堂塔の建立年代は平安時代初期まで遡れることが確認された。

 鎌倉時代には源家将軍の帰依あつく、また北条氏・足利氏らの外護を受けた。

くだって天正十八年(一五九〇)徳川家康の江戸入りの際、天海大僧正の進言もあり、祈願所となり、寺領五百石を受け寺門は興隆した。

元和二年(一六一六)家康が死去、その二年後に境内に東照宮が造営されたのは、徳川家と浅草寺の緊密な関係を示すものである。

その頃の塔頭(たっちゆう)は衆徒十二坊7寺僧二十二坊(現二十四支院・末寺一)

 貞享二年(一六八五)住職忠運が将軍綱吉の忌避に触れ、以後、上野輪王寺門跡の支配を受け、明治になって延暦寺の直轄となった。

寛永寺への寺務報告の「日並記」は、百二十三年間の記録となって現存する。

江戸が大江戸に発展するにともない浅草寺の境内は、盛り場ごとして人気を呼び、また百余の末社が江戸庶民の現実的な願望をかなえるなど、

「都下香火の地、浅草寺を以て第一となす」

といわれるに至った。

明治・大正の文明開化のさきがけをにない、そして昭和から現在に至るまで庶民的な伝統を守り、観音霊場として日々群参を迎えている。戦災によって失った堂塔伽藍は現在そのすべて新たに「影向堂」が建てられた

 ⑥見どころ 

浅草寺界隈は一年中人出が絶えず、庶民の町として見どころも多いが、朝草寺内にも見のがせないものがある。

寛永年間に小堀遠州の作庭と伝える伝法院の庭園、都重宝の茶室「天佑庵」(寺の許可があれば鑑賞及び使用できる)、

国宝「法華経」、重文「大蔵経」それに「大絵馬」などである。

特に百二十余枚に及ぶ絵馬は他に類を見ない。

 






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最終更新日  2021年11月26日 07時22分39秒
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