カテゴリ:古代史料
☆聖武天皇 在位(724~749) ○神亀1年(724)4月14日【『続日本記』】 騎兵、坂東の九カ国の兵士三万人に乗馬、射術をさせ、布陣の仕方を訓練させた。 ○天平3年(731)12月2日【『続日本記』】 甲斐…甲斐国が神馬を献上した。体は黒でたてがみと尾が白かった。 ○天平3年(731)12月21日【『続日本記』】 甲斐国主…田辺広足 ★詔★ …朕は君主として全国に臨み、すべての人々をはぐくみ、日が傾くまで食事をとることも忘れ、夜は寝るのに床をのべるのを忘れるほどである。ここに治部卿で従四位上の門部王らが奏上していうのに「甲斐国守で外従五位下の田辺史広足らが進上した陣馬は、体は黒色で白いたてがみと尾があります。謹んで符瑞図を調べてみると『神馬は河の精である』とあり、また援神契(孝経)には『徳が山や岡の高きに達する時、神馬が現れる』とあります。これはまことに大瑞というべきです」と。しかしこれは朕の徳によるものではない。祖先や国の守り神の賜ったものである。不徳の朕がどうして一人でこれを受けるべきであろうか。天下の人々と共に悦べば、天意にかなうであろう。そこで天下に大赦して、孝子・順孫・高齢者・男女のやもめ・みなし子・独居の老人で自活のできない者に恵みを与えよう。馬を獲た人には位を三階昇進させ、甲斐国の今年の庸と調を免ずる。甲斐国の国司および史生以上の者と、瑞を獲た者に、地位に応じて物を賜った。 《筆註》 …甲斐から献上された神馬(じんめ)は当時の吉祥の一つとして進上された。甲斐国以外にも進上した国があり、それは年譜の中に掲載してある。また新羅国からの献上された貢ぎ物の中に馬も見える。 ◎甲斐国司の確認 ○天平10年(738)4月22日【『正倉院文書』】 『正倉院文書』「天平十年駿河国正税帳」 ◆甲斐国司 丹比乙万呂。補任。 ………………………………………………………上一口…………… 従甲斐国進上御馬部領使山梨郡参事小長谷部麻佐 六郡別一日 ………………………………………………………従一口…………… …………………上六口 食為単壱拾弐日 …………………従六口 ……………………………上一口……………………上六口 山梨郡散事小長谷部練麻呂 六郡別一日食為單壹貳日 ……………………………下一口……………………下六口 《筆註》 …甲斐国より進上の御馬の部領使である山梨郡散事小長谷部麻佐とその従者は、一日一郡の行程で、その路次にあたる駿河六郡から糧秣の官給を受けて、平城京を目指して御馬を牽き挙がっていった。この時の御馬の様子や頭数は明らかではないが、甲斐の貢馬の実態を知る資料となる。小長谷部は御馬部領使で山梨郡散事であり、三御牧を想定する巨摩郡ではない。巨摩の地名の最初の登場は天平勝宝四年(752)の巨麻郡青沼郷で、天平宝宇五年(762)の記事中の巨麻郡栗原郷の人と続く。 ○天平13年(741)12月10日【『続日本記』】 ◆甲斐守、馬史比奈麻呂 従五位下。補任。
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最終更新日
2021年11月28日 09時14分45秒
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