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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年11月29日
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カテゴリ:甲斐駒ケ岳資料室

●特集 石仏探訪 甲斐駒嶽信仰にみる石仏建立願

    

田中英雄氏著

    一部加筆 白州ふるさと文庫

 

甲斐駒ヶ岳へ登るたびに気になっていた石仏が一つあった。

黒戸尾根中腹の大きなブナの根本に立てかけてある馬頭観音で、「嘉永三年庚成年 三十三番願主山田嘉三郎」(嘉永三年=1850)と刻まれていた。それから何度かこの尾根を登ったが、石仏の前で必ず休むことにしていたのは、嘉三郎の名が気にかかったためだった。

その人物を捜しに、山麓の山梨県白州町横手を訪ねたのは平成十年、初めてこの石仏を見てから三〇年以上も過ぎていた。嘉三郎の在所を横手に絞った理由は特になく、登山口の集落を歩けば何かに当たるだろうという、実に単純な発想だった。(写真①)

 横手は黒戸尾根の取り付きにある戸数は一八O戸ほどの大きな集落(文化元年の戸数一〇四戸)で、山田嘉三郎の生家を一軒々々尋ね歩くつもりで出かけたが、宰運にも三軒目で見つかった。山田家は駒ケ岳神社の参道が始まる山門の近く、江戸時代から続く古い家屋で、裏庭には駒ヶ岳から流れ出る小川がよぎる大きな屋敷だった。

現当主は嘉三郎から数えて四代目の瑞穂氏。長年白州町のために働いてきた人で「白州町史」の駒ケ岳神社に関する部分を担当するなど、瑞穂氏こそ駒ケ岳開山から駒嶽信仰について語ることができる、唯一の人物であったことも幸運だった。

   

山岳開山と駒ヶ岳

 

横手から甲斐駒ヶ岳に信仰の道を開いたのは、諏訪上古田(茅野市)の行者・小尾権三郎、江戸時代末期の文化十三年(1816)のことである。

権三郎加開いた黒戸尾根は岩場が続く厳しいルート、梯子や鎖揚が連続する道はいまも二百年前とさほど変わっていない。道を間くことは想像を絶する事業であったはずだ。それを支えたのが横手の名主・山田家の当主だった。それともうひとつ見逸がすことができないのは、当時庶民の心を捉えたさまざまな民間信仰を主導する回国修行者たちの、山岳開山を目指す大きなうねりである。まずその動きを取り上げたい。

 

当時、中部山岳一帯の山々は信仰の道を切り開く、いわゆる中岳開山を目指す行者によって次々に登られていた。

木曽の御法は天明五年(一七八五)尾張の覚明が黒沢□から、

また寛政四年(一七九二)には秩父の普寛加古滝口から登っている。

享和年間(一八○一~〇三)には八ヶ岳の赤岳が諏訪の行者・作明により、

文化五年(一八〇八)には木曽駒ケ岳が諏訪の行皆・寂本により開山されている。

その後も乗鞍岳は、

文政二年(一八一九)江戸の永昌、

文政六年(一八二二)には笠万岳が越中生まれの播隆、

文政十一年(一八二八)には槍ケ岳がまたも播隆と続く。

いずれも諸国を行脚し、山岳霊場を巡って修行を重ねた行者たちである。

修行には年月を要し、必然的に山岳開山を果たす年齢は高くなる。覚明か目的を果たしたのは六七歳、普寛は七一歳、寂本は七五歳、播隆は四一歳で笠万岳、四六歳で槍ヶ岳を開山したとされている。

 

ところで小尾権三郎が駒ヶ岳を開いたのは二二歳のとき、山岳開山の行者にしてはあまりにも若すぎる年齢であった。

 山岳開山で一番難しいのは、山麓住民の理解をいかに取り付けるかにある。人跡未踏と思われがちな山岳だが、各地の山岳開山伝承が伝えるとおり、古く奈良時代以前から修行の地として登られ、そこには修行者と山麓住民が交流した形跡がいろいろな形で語られている。

例えば出羽の羽黒山を開いた蜂子皇子は烏に導かれ、

越中の立山を開いた佐伯有頼は白鷹と熊を追って山へ分け入っている。

また日光の男体山を開いた勝道は深沙大王の助けで川を渡り、

高野山を開いた空海は狩場明神に案内されて山へ入っている。

これは山を支配する者が存在し、山を開く者はその協力を得て目的を達成していることを示していると解釈されている。

 近世になると、山は所有する藩により厳しく管理されるようになる。例をあげると、文化年間の松本藩なら山方役所の下、奉行・手代・目付・足軽・斧頭などの組織があり、化政期の会津藩では山役所の元、奉行・山役所勤・山役人・漆本役人・山改役などが置かれ、木材や鉱山のほか地場産業資源の管理に当たっていた。

 

甲斐駒ケ岳のふもと横手を領した甲府藩では御山奉行を置いた。享保年間に天領となり、幕府直属の甲府勤番支配下での横手は甲府代官所支配であった。これら監視の下で、山麓住民は狩猟や薬草採取、あるいは生活物資の調達地として、住民以外者の入山を禁止、自らの入山も規制して山の資源管理と荒廃防止に努め、同時に山麓や山中に神社を置き信仰対象として崇めてもきた。

 近世に中部山岳で展開された山岳開山の目的の一つは、講組織による集団登山のための道造り。しかしこのような状況下に、山岳開山を目指す他国の行者たちが立ち入る余地は

ったくなかったといってよい。

行者たちは、山に挑む前にまず地元住民の説得から始めなければならなかった。その状況を木曽の御嶽でみてみよう。

 そもそも御嶽は木曽谷一円に住む道者と呼ばれた行者、それも長期の精進潔斎をした者だけに登ることが許された山。

ここに軽精進による開山を願い出たのが尾張春日井郡の行者・覚明、天明二年(一七八二)のことであった。しかし当然のことながらこの願いは却下された。

ところが三年後、覚明は信者を引き連れて無許可のまま山へ登ってしまう。この顛末は登った者や協力者が処罰され落着したが、寛明はこれにひるむことなく、翌年からも鎧許可の登山を続け、登山道の整備を積極的に行った。この行動はやがて山麓住民にも理解されるところとなり、覚明は思い半ば御嶽山中で病死するが、その意思は弟子と山麓住民に引き継がれ、富士山や出羽三山の山麓が、他国から押し寄せる信仰安山岩により、経済的に潤っている状況もあって、やがて願いがかなうのである。(写真②)

 

 小尾横三郎が甲斐駒ヶ岳を開くべく山麓の横手を訪れたのは一七臓のとき、あまりにも若すぎた。当時横手で名主を務めていたのは山田嘉三郎の父・孫四郎だった。この申し出を孫四郎は断っている。名主として当然の判断である。三年後、権三郎は再び山田家を訪ねる。このいきさつから開山、そして駒轍信仰に発展していく過程については、拙稿『山と谷』扇号「甲斐駒ケ岳開山と山田家当主たち」にまとめたで詳細はしないが、権三郎が二度目に訪れたとき、山田家は入山を認めている。

 当時の山岳開山を目指す行者の執念は、いまでは理解しがたいものがある。甲斐駒ヶ岳に挑戦した小尾家の場合もその一つで、黒戸尾根の開削は権三郎の父・小尾今右衛門により安永年間から行われていたのである(このときの山田家当主は嘉三郎の祖父・七兵エ。甲斐の秀峰駒ケ岳開山は小尾家にとって親子二代に渡る長年の悲願であった。これを支援していたのが山田家だったのである。

しかし今右衛門は、黒戸尾根五合目の屏風岩がどうしても越えられず、断念したとされている。挫折した父の意思をついだのが権三郎たった。駒ヶ岳は小尾親子の執念と、山田家当主たちの理解があって開かれたといえるだろう。

 しかし権三郎は二五歳で亡くなってしまう。前轍信仰を布教する矢先の死であった。この意思を引き継いだのが、山田家当主孫四郎の二男。嘉三郎と三男・孫四郎の兄弟(長男が七兵ヱ。山田家の当主は代々、孫四郎と七兵ヱを交互に名乗っていた)、なかでも嘉三郎は病弱ながら熱心に布教や登山道の整備にあたった。その一つが山田家を基点に安置された三十三観音である。

 私がいつも気になっていた馬頭観音はそのなかの三十三番目の石仏だった。ちなみに一番は如意輪観音でいまも山田家の先、巨麻神社の脇の路傍に黒戸尾根を背にして立っている。

そしてこの石仏には「一番弘化二年八月 山田嘉三郎」と刻まれている。一番から三十三番まで、五年越しの事業であった。(写真③)

  

駒嶽信仰の石仏勧請願書

 

運よく横手で山田家が見つかってから、私の駒嶽信仰調べは大きく開けていった。特に山田瑞穂氏からの聞き書きは、非常に重要なポイントを占めた。さらに山田家には貴重な資料が残されていた。それは駒証信仰を伝える法具や刀などの遺品、あるいは信仰組織を確立するための関係文書であり、その一つが石仏勧請願いであった。近伊山岳信仰の特徴の一つ石造物奉納は、甲斐駒ヶ岳でも盛んに行われた。

奉納に先立つものが文書で提出する神仏勧請願いである。駒ケ岳信仰関係の願い書はすべて山田家を通して役所に出されていた。山田家がこのような役目を拒うようになった確がな理由は分からないが、駒ヶ岳登山口・横手の名主であり、開山の経緯、信仰の布教実績などから必然的にそうなったものと思われる。

願い書の届先はすべて「甲州横手村 御役場」。願い書はまず山田家に差し出される。駒ケ岳信仰の奉納願いは甲府代官に代わり山田家が取り扱っていた。山田家の資料によると、文久の三年間に十件、慶應の三年間に十二件もの願い書が出されている。これは駒ケ岳信仰の布教が順調に運んだ証である。

數が多いので、山田家ではこれを別紙にまとめて御役場、つまり甲府代官所に提出したようである。したがっていま山田家に残るものは、原本ともいえる願い書そのものである。

 しかし山田家にすべての願い告示残っているわけではない。願い書の多くは二百年の間に四散したものが多い。それを補うのが山田家資料の一つ。代々の当主が書き残してきた奉納石造物のメモ書きである。これを整理した瑞穂氏の「石仏手帳」文久・慶応年間の願いで数はこの手帳から集計した。駒ケ岳信仰石仏勧請の実体と推移を垣間見る事ができる。

 

    差出申一札之事

 

一私共此度心願ニ付駒ケ嶽山

   大権現再建願い多し度様

   奉願上候処御間済成被下

   難有仕合ニ奉存候依之講中

   惣代ニ而連印差出申處如件

    天保十三年寅八月日

     信州諏訪郡/間下村/宗治

     同筑摩郡/小曽部村/千代吉/政蔵/定吉

甲州巨摩郡/横手村/御役場

    (原文は/の個所で改行されている。以下同じ)

   

願一札之事

 

払共儀心願ニ付其御村分山内

駒ケ嶽江八幡太菩薩大六天子安太明神.’

肋請仕度候間御聞届ヶ可被下候様奉願上候

依而私共一同連印一札差出し申処乃如件

    文久三亥年八月日

   甲州巨摩郡谷戸村/願主 良右衛門姉せい/(略)

   信州伊那郡山室村/同 刃太郎/同州同郡野口村

   仙人購大先達 蟹澤■清元院

  甲州巨摩郡/横手村/御役場






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最終更新日  2021年11月29日 07時12分28秒
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