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2021年11月29日
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カテゴリ:甲斐駒ケ岳資料室

 ●特集 石仏探訪 甲斐駒嶽信仰にみる石仏建立願(2)

    

田中英雄氏著

    一部加筆 白州ふるさと文庫

 

山田家文書と駒ケ岳の石仏

 

 山田瑞穂氏の「石仏控帳」には四六もの神仏名が並び、その総数一一七。少なくともこの数だけの石仏が駒ケ岳山中に建立されたことになる。このなかで、駒嶽大権現、馬頭観音、摩利支天、刀利大権現、刀利天狗、不動明王・威力不動明王、猿田彦などの神仏名が多い。

位力不動明王は威力とも表記し、権三郎の駒ケ岳開山の栄誉を称えた称号である。後に

駒嶽講では、行者に不動の称号を与えられることが最高の名誉と位置付けられたことは『目本の石仏』第53号「不動になった人たち」(松村雄介署)に詳細されている。

 次に山田家文書に当てはまる石仏を駒ケ居山中から拾い出して報告したい。

 

 摩利支天と孔雀明王頼一札之事

 

一私共儀心願ニ付其御村方山内駒ケ岳山江

摩利支天金物尊□勧請仕度候間

御聞届テ可被下様奉願上候依

講中惣代連印ヲ以一札差上申度候而如件

    文久元酉年 千村平右衛門様御■ケ所

信州中■■郡野目付

講元先達 清右衛門(以上賂)

 

 猪に乗る摩利支天は駒ケ岳神社および、駒嶽信仰圈の諏訪一円で建立されてきた。その象徴は甲斐駒ヶ岳の南にそそり立つ同名の岩峰で、二三もの摩利支天が祀られている。この仏がどのような願いの元に信仰されたか、今のところ分からないが、同名の岩峰が木曽御嶽や乗鞍嶽、八ヶ岳など近匪末期に開山されたほとんどの山にもあることから、このルーツは木曽御岳、あるいは富士信仰にあるのかもしれない。いずれにしろ、山中に多くの行場を設け、さまざまな神仏を祀り、それを巡るのが山岳信仰の特徴である。なかでも近匪末期の山岳信仰で摩利視支天が特別扱いされたことは、この仏が先に挙げたどの山でも、大きな甲斐駒嶽信仰と下総の文害にみる石仏廸立願いピークに命名されていることからも指摘できる。

昭和四十七年の時点で甲斐駒ヶ岳の摩利支天に青銅摩利支天があった。しかしこれはそう古いものではなく、この文書の像は確認できなかった。

 摩利支天にはもう一つ異色の石仏・孔雀明王がある。

 

   摩利支天・孔雀明王 願一札之事           

 

私共儀心順ニ付御村方山内駒ケ嶽之峰江、

孔雀明玉石之御尊像勧請仕度存候間

此段御聞届ケ被下度

奉願上候依之講中一同以連印申上置度以上

慶應元年乙丑五年七月

諏訪鮎沢村、白滝講/惣代千金二郎右衛門

甲州横手村 御役場

 

同峰には「摩利支天 孔雀明王 駄根尾天」の文字塔もある。

先の願い書にも「八幡大菩薩 大天 子安大明神」とあるが、

駒ケ岳信仰圈には

「駒嶽大己貴命 刀利権現 刀利天狗」(韮崎市穂坂坂町)、

「湯殿山 駒岳山 御岳山大権現」(岡谷市今井)

 

など三神名を荊んだ名号塔が数多く現存する。

 あまたの神仏から三尊を祀り上げるのも近世山岳信仰ではよく見られる形式だ。これは仏教の三尊形式や山岳の三山を重要視する傾向など、古来から連綿と続く山岳信仰の歴史の中で醸成されてきたものなのだろう。

なかでも、中世に成立し近世に広まった皇室・公家・武家、あるいは神道・仏教・儒教を代表する神、つまり天照皇大神宮・春日大明神・八幡大菩薩の神名や託宣を記した三社託宣、近世の国学者が強調した造化二神、いわゆる「古事記」の始めに記された大之御巾主神・高御座巣日神・押座東口神の三神などに少なからず影響を受けている。この傾向は近世末期に組織され、いま数派神道と位置づけられているもの、例えば確たる神社を持たない講という組織、教祖やこれを支持する者が布教活動を展開した教団に顕著に見られる。御岳三産神の御岳山蔵王権現・八海山大頭羅神正・三笠山刀利天宮などもこの流れから誕生した神だ。

 

 屏風岩の不動明王頼書の事

 

此度私心願ニ付御村付山内

駒嶽御鉢出御巣高山之内

屏岩と申場所江不動尊勧請仕度存候間

此段御聞届披下度奉願上願依之

一札差上置申候以上

文久三年八月

信州諏方宿友之町 菊右ヱ門

甲府横手村 御役場様

 

 不動明王 黒戸尾根屏風岩

 

屏岩はいまの屏風岩、黒戸尾根五合目の岩峰を指している。

この山を開いた小尾親子はこの岩に行く手を阻まれた。それを突破しようとした痕跡が屏風岩に残る梵字で、権三郎が錫杖の頭で刻んだものだという。この伝えはかつて岩場の下にあった屏風岩の主・中山国重氏による。中山氏によると、黒戸尾根周辺にはいくつもの行揚があり、駒嶽信仰の行者はこれを訪ね歩いて修行としたという。屏風岩も行場の一つで、多くの石仏が祀られている。

(不動明王 11、地蔵菩薩 4、行者 1、不動三十六童子文字塔 21

 

 駒ケ岳山頂の馬頭観音 勧請控

 

一馬頭観音銅體 

壱/右者私共心願ニ付

駒嶽山頂上右銅體勧請仕候間

永世御保護被成下度候也

    明治参拾六年九月三十日

諏訪郡下諏訪町 両山海講社

先達 柳洋介平 両角馬犬 柿重子

 

山梨懸北巨摩郡駒城村

駒嶽神社信徒惣代 山田紋治郎殿

  外■中

 

当初から形式化された願いだったものが、明治末のこの文書はさらに進んで形骸化された感がある。先に石仏建立の厳しい状況を千葉県の例からみたが、駒嶽信仰に関してはそのような形跡は認められない。

勧請願いの手続きから認可まで名主まかせ、出された願いはすぐ許可されている印象が強い。勧請願い書をまとめて役場へ提出するなど、信仰の山ゆえの特別な計らいがあったのかもしれない。

写真⑨は山頂にある祠の横に野ざらしになっていた馬頭観音。同様の馬頭が祠内にも祀られているので、いずれかが願い書にあるものに違いない。

山頂に祀られこの山の本尊のように見える馬頭観音だが、この山にある石仏全体からするとその教はさほど多くはない。つまり駒嶽信仰は馬の信仰ではないといえる。

 石仏奉納の數も増して順調に布教が浸透してきた駒嶽信仰。

 

しかし明治雄新政府の宗教政策で事態が一変する。

「石仏控帳」に明治五年七件、同六年四件あったが、七年以降ゼロとなる。神仏分離令に始まる明治政府の宗教政策は山岳信仰にもおよび、修験道廃止令が出だのは明治五年。神社と神職は国家が管理するところとなり、これに漏れた神道系宗教の多くは神社を持たない宗教や全国行脚の行者で、これらの活動は禁止に近い状態になった。

近世に組織された山岳信仰もこれに含まれ、駒ケ岳信仰も諸組織解体の危機に直面して、石仏勧請が途絶えてしまったのである。

国家神道確立のため宗教政策がめまぐるしく変わった明治維新のこの時期、やがて政府の方針変更で、宗教は国家管理ながら信仰の自由がある程度容認され、教祖を中心とした教派神道が認められることになった。

これを機に嘉三郎の弟・孫四郎はさっそく皇祖駒嶽教を設立した。これが認められたのか明治十六年、十七年には四件の石仏勧請願いがだされた。しかしその後すぐゼロとなり、以後勢いを取り戻すことはなかった。

 皇祖駒嶽教が弱小の神道糸宗数団体を統括した神道本局から認められたのは明治三十五年。これを待っていたかのようにこの山頂馬頭観音の願い書は出されたが、届け先は駒城村になり(横手付は明治七年の合併で駒城村、昭和三十年近隣町村と合併し白州町に)、駒組教の運営は孫四郎の子・紋治郎に代替わりしていた。

 

 駒ケ岳山中には「石仏控帳」の数をはるかに超えた石仏が祀られている。それは駒嶽信仰の修行地だった白州町竹宇駒ケ岳神社が独立して新たな登山口になり、信州側からの今山道の開削、また先に触れたように明治政府の宗教政策など、奉納石造物の管理が山田家から次々に離れていく状況の変化があったためである。竹宇は明治維新前後から登山□として発展した。昨年社殿を焼失したが、境内のおびただしい石仏は現存している。

 

信州側からの道は高遠町戸台からの道で、『岡谷史・上巻』(昭和四十八年・岡谷市)には

「(権三郎)の遺言によって父今右衛門、今井村、増沢左ヱ門らが東駒方位表出、白崩道の開山をとげ、伊那側からの参拝登山寺も多くなり、郡内村々にも駒万岳講として行者の集まり加たくさんできた」

とある。

今井村は「石仏控帳」に頻繁に記されている村だ。ただしこの道への石仏建立は少なかったようで、見出すことが出来なかった。

 山田家では小尾権三郎を初代開山と呼び、

一代目開山を嘉三郎、

三代目開山を孫四郎(嘉三郎の弟)、

四代目開山を紋治郎(嘉三郎の甥、瑞穂氏の祖父)としている。






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最終更新日  2021年11月29日 07時14分01秒
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