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八百屋お七 後日談
八百屋お七の放火事件ほど、江戸市民を驚かせたものはありません。 その処刑が終ってから、またお七に関連する興味が生じたのです。お七の恋人寺小姓の吉三か、お七の万感を弔うために、得度して僧に西運となり、目黒の明王院から浅草観音まで念仏の日参を始めた、ということです。 目黒の明王院は今日の国電目黒駅の付近にあったので、そこから浅草観音(金龍山浅草寺)までは片道二十キロはあり、往復四十キロ(十里)です。日参といっても毎日ではなく隔日で、隔日一万日という日参の発願を立てたのです。お七が処刑された翌年の貞享元年(1684)、西運十九歳のときから始まり、二十八年もかかって一万日の満願のときは四十七歳でした。 その頃の日参では美男で話題の男性ですから、通う道筋には女性の人垣を築いていたので、夜間の目参にかえました。夕方目黒を出て、夜どおし歩き通して暁方明王院へ帰るので「隔夜目参」と称したのです。これを四十歳頃まで続け、そのあとは、昼間の日参にしました。この一万日々参の行を終えた西運は、秩父その他の観音霊場へ詣で、お七の冥福を祈り。目黒にあっては、目黒川に太鼓橋をかけたり、念仏堂を建てたり、地元のためにも働らいています。 そして晩年は西運上人と尊敬されるようになり、そのある夜お七が地蔵尊の姿で夢枕に立ち、
尊師の回向で苦界を免かれて今浄土に安住して感謝にたえない。 尊師も老境に入り近く往生のきざしかある故一層の精進を祈ります。
と告げるのです。西運はその夢で見たお七の地蔵尊の姿をさっそく彫刻させて明王院内へ奉納し、これが「お七地蔵」です。これを起縁として方々にお七地蔵が建てられました。
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最終更新日
2021年11月29日 11時49分40秒
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