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油絵の元祖と島原の乱
『話のタネになる本』 編者 東堀一郎氏 昭和49年刊 発行 光文社 一部加筆 白州ふるさと文庫
わが国の油絵(洋画)は江戸時代末期頃の司馬紅漢字を元祖とするというのが定説ですか、実はそれより百五十年も前の島原の乱に関係していた山田与茂作が、油絵作家として最も古いことがわかりました。 山田与茂作は、島原半島の領主キリシタン大名の有馬直純(なおずみ)の家臣で、生来の絵の好きなことから、有馬セミナリヨ(宗教教育機関)で油絵の手ほどきを受けました。 有馬がキリスト教分捨て、日向へ所換えになったので、与茂作は浪人し、島原半島の南端の口之津に住んでいましたか、その画才は新領主となった松倉重政に認められて扶助されていました。この新領主松倉の圧政と重税に耐えかねてもとキリスト教を信じた領民たちが、原城にたてこもった一揆が島原の乱です。 山田与茂作はこの反乱に加盟し、八百人の部下を持つ指揮官でしたが、陣中でも絵筆は捨てなかった。 総大将天草四郎のために軍旗を提き、それか今日も伝わって、ローマカトリックでは、 ジャンヌダルクの軍旗、 コンスクンチヌス大帝の十字旗 と共に世界三大聖旗としています。図柄は聖杯をまん中にして左右に天使、上部に 「いとも尊き・秘跡賀仰せられよ」 とポルトガル語で書かれています。 この軍旗を描いたぐらいで与茂作の絵心は止みそうもなく、絵を描きたいために原城包囲軍へ内応して脱走を計りますが、事前に分かって城の牢へ入れられ、処刑の前日に原城は陥落します。反乱軍たった一人の生き残りとなった与茂作は、幕軍の総大将松平信綱に連れられて江戸へ行き、三代将軍家光の前で生き絵を描かされる、当時油絵は生き絵といわれていました。鮮やかな油絵具の効果をそういったものでしょうが、家光は絵かほんとうに生きて動くと思ったらしく、「生き絵を描かねば処刑する」といったのです。 そこで与茂作は「江戸の水では生き絵は描けない、故郷の口之津の水でなければだめ」といった。ご勘弁願えると思いきや、「それでは口之津の水を取寄せろ。」と将軍の命令ではるばる九州から水が運ばれ、与茂作は覚悟をきめてタカの絵を描きました。まるで生きているようですが、飛ばないので将軍は不興です。 与茂作は 「水が長い道中を運ばれたので腐ってしまったからです」 とすましていったので家光も苦笑して、与茂作の刑を免じました。
その後、与茂作は江戸に居を定め、古庵と号して油絵に専念します。そしてそのかたわら、キリシタン目明しとしての役目も仰せつかりました。島原半島の南端の口之津には、与茂作が江戸へ水を運ばせた[与茂作井]があり、今でもこんこんと泉が湧いています。
杉菜 すぎな
杉莱(すぎな)が繁殖するための胞子茎が土筆(つくし)で、早春のトップを切って地下茎から頭を出します。 山野海岸など、全国いたるところに野生するトクサ科のシダ植物でその土筆は[源氏物語]にも出ていますように、古くから食用にされていました。 それは胞子茎の開花以前がよい。 「黒胡麻でここをあへぬか土筆(つくづくし)」 と其角は料理法を詠んでいます。
おしゃれは禁止できず
イングランド王のヘンリー四世は節釣令を公布して、衣服に黄金と宝石を用いることを禁じましたが、さっぱり効果が上がりません。 そこで付則として、売春婦とスリはこの禁止から除外すると発表したら、たちまち効果が現われ、ロンドンから黄金も宝石も形をひそめました。 ところがヘンリー回世はフランスヘ亡命していたことがあるので、フランスから迎えた王妃が、ある日宝石と黄金で飾り立てた服装で宮廷に現われるや、その翌日から、さっそくこの法令は廃止となりました。
イギリスパンとフランスパン
わが国で普通に食パンといわれているものは英米式のパンです。これはサンドイッチやトーストにするパンで、型に入れて焼くイギリスパンはタテ長で上が山がになっており、アメリカパンは大体正方形です。イギリスパンは小麦粉に少量の食塩や砂糖を加えて、百八十度から二百度で時間をかけて焼き上げます。でき上がりは水分か多く柔らかい。アメリカパンも同様ですが、小麦粉に食塩、砂糖のほかに脱脂粉乳、油、卵などを混入するのがイギリスパンとちがいます。 大陸式はフランス、ドイツ、イタリアなどヨーロッパ大陸諸国のパンで、これは型に入れないで、塩味の他は混人物を入れず、二百四十度から二百五十度くらいの高温で、表面が堅くこげるように焼き上げます。この大陸式の味のよい代表がフランスパンで、そのこげ株と芳香か特徴です。 コーヒーに浸して食べる味は格別。 コッペパンは小型フランスパンのミッシュ・クーペのなまったものです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年11月29日 16時35分53秒
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