カテゴリ:北杜市歴史文学資料室
三人の北巨摩人 「生き甲斐」とは何であったか
保坂忠信氏著 『中央線』「郷土研究」第7号 1971 昭和46年刊 一部加筆 山梨県歴史文学館
【註】北巨摩=北杜市・韮崎市・旧双葉町(現甲斐市)
身辺に感じられる三人の北巨摩人の先達を思い浮べながら、明治、大正と生きてきた三人の足跡の中に、編集の方からいいつけられた「生き甲斐」を探ってみることにした。
北巨摩人という言葉があるかどうか知らないが、北巨摩の人の特質を私は抽象することが出来るように感じる。それは峡南の人々から感じた一種の物柔かさ、峡東で感じる剛気不屈が甲州人の特色を示すアクセントであるなら、北巨摩の人々は、千古の人間経験を蓄積した地殻のような皮膚の厚さを感じる。どしりとした重さを感じる。 私が身近の人(仕事の上からも、精神的にも)として取り上げようとしている三人の方はその謦咳(せいがい)には接してはいないが併しその書き残した言葉と業績絹に、この北巨摩人を感じる。三人は教育者=文化人であった。北巨摩が邦土に生涯をかける教師、公務員の産地であるといわれるが、これは学問を愛する大衆の多いことを意味する。 韮崎市、北巨摩郡が中学から高校への進学率で県下で最高地域の一つであることはこれを示している。
永峰秀樹
保坂忠信氏著 『中央線』「郷土研究」第7号 1971 昭和46年刊 一部加筆 山梨県歴史文学館
『三人の北巨摩人』「生き甲斐」とは何であったか
❖ 生 嘉承元年(一八四八・六・一) 歿 昭和二年(一九二七・一二・三)
明野村浅尾新田(現北杜市明野町)の蘭方医小野通仙の四男(末子)として生れた。 長男、泉は県立病院創設者、 次男、実も蘭方医戸塚文海の弟子、実の孫娘に小野勇二氏(甲府市小野病院長)を迎えている。 三男、民也は京都の有名な広瀬元恭の弟子、 この四人兄弟の叔父には日本画家の三枝雲岱がいる。 故、柳田泉先生は『永峰秀樹伝』(「明治初期翻訳文学の研究」春秋社発行)で昭和二年(1927)九月、秀樹(七十九才)より直聞の話しを克明に伝えておられる。 それによると、 秀樹は茅か嶽の麓の兄の家で子守をしながら、勉強していたが、甲府で開業した父に呼びよせられ、お城の中にある微典館に入り、四書五経を学び詩文にも上達した。(後に彼が翻訳した「智氏家訓」の序には当世流に彼自ら漢文で「査斯徳費耳土公(チェストルフイールド公)小伝)と書いている) 十五、六歳の時、「二十歳になったら独立せよ」と父に言われる。 少年志士気取りで武芸に励み、行学相伴った。京都から江戸へ。 その頃永峰という武士の家の株が空いていたのでそこに入り、長峰姓を名乗り士族となる。その頃から洋行を考えていた。幕末志士として飛び廻ったが王政維新となり、徳川家の武士と共に静岡へ。沼津の兵学校に入り英数を勉強し始めた。地理やパーレーの万国史(当時流行の本)を通し国際事情が分かると、海軍に入り、日本を護らねばならぬと思った。明治四年(1871)に築地の海軍兵学校へ。 そこへは生徒になる積りで入ったが、数学の教師が不足していて、教師となる。明治三十五年(1902)退官迄三十年間、数学理科の教師であった。 彼の人生は、世界の様子を知らせて「日本人の島国的独尊心をくじくこと」のために、翻訳に捧げられたのである。彼が明治八年(1875)十月十九日に甲府常盤町四番地内藤傳右衛門(蔵版)から発行した「物理問答」「二冊を甲府の古本屋で発見した時の嬉しさを私は忘れられないこれは篠尾村(現、北杜市小淵沢町)今井某氏の使用されたものである。 「物及ヒ物性論」「重力論」「運動論」「光論」「天文論」などがある。 「アメリカのウエル及びクェツケンボスの物理書中より抄訳、物理ノ学タルヤ人家ノ日用ニシテ各人知ラザル可ラザル者トス」とある。 「智氏家訓」(三冊)明治十一年(1878)八月十九日、静岡県士族永峯秀樹訳述兼発行となっているがイギリスのチェスターフイールドが子供に与えた日常生活の規範で、一種の修身書である。(明治四年には微典館の教頭をしたことのある中村敬宇の「西国立志篇」が出て、明治初期のベストセラーになっていた。) 私が見つけた本は東山梨郡小佐手村某氏のものである、当時県下に広く愛読された様子が分かる。‐ ギゾオの「欧州文明史」 アラビアンナイトの日本の最初の訳本である「暴夜物語」(二冊)(静岡県立葵文庫ですぐ借り出すことができる) ミルの「代議政体」から農業の本にいたる迄、彼は日本人の眼を世界に見開かせる努力を続けた。柳田先生が、「明治の初期文化功労者」として高く評価しておられるのも当然である。 小野家の跡地は浅尾新田の明野線の大榎のあるバス停から南へ少しいった処にある。その空地を南へ上った小高い丘に小野家の墓石が並んでいた。併し秀樹の墓があるとは思われなかった。彼の生き甲斐は、文明開化の先峰になることであった。
『三人の北巨摩人』 津金馨(かおる)氏
保坂忠信氏著 『中央線』「郷土研究」第7号 1971 昭和46年刊 一部加筆 山梨県歴史文学館
『三人の北巨摩人』「生き甲斐」とは何であったか
❖ 生 明治二〇年(一八八七、一〇・一九) ❖ 歿 昭和四〇年(一九六五、三・二〇)
津金馨は須玉町大津金で生れ、 高根町安都高等小学校を経て、 山梨県立第一中学校、 金沢第四高等学校、 東京帝人英文学科を明治四十四年に卒業、 直に土浦中学校に奉職したが一年で辞め、 大正二年(1913)から昭和二十年(1945)で退職故郷に帰る迄、実業之日本社に勤め, 神学博士ジエイ・アー、ミラーの「日々之基督」 (大正元年 1912、七三二ページ、内外出版協会発行) 同じ著者の「青年の問題」(二九六ページ)の訳書がある。 ペンネームは、澗村(自分の家が谷間のような処にあるから)」といった。これらの書は「日本の基督信徒及び未だ基督教を信ぜざる人々の需要に適したる基督教文学の著作及弘布にあり。日本にある基背教ミッションの同盟を代表せるが故に公同的精神を以て立てるものなり。」 と、この協会も著者が必ずしもキリスト教の信者でないことを断っている。澗村が望んだものは、人生に如何に生きるべきかの解決にあった。故郷に帰って、農耕と読書の生活に入り、自費パンフレット「山林生活」(昭和二九年(1954)十月から三五年(1960)十月迄、十三集続き眼疾のため止めた。)を出した。 例えば、その一冊の「自然の真と自由」では「リバティー」と「フリーダム」の違いについて論じ、パトリック・ヘンリイが「自由を与えよ、然らずんば、死を与えよ。」といったのは、外部から与えられる自由で、つまり、リバティーであった。私が望んでいるのは、真の自由、フリーダムである。心の修錬によって、自分の心の中に、自由の天国を建設することに外ならない。悟りの境地、雲水を友とし、自然に帰する自由、西行法師やイギリスの詩人ワ-ズワ-スが求めた自由、蚤(のみ)を労わった一茶、虱(しらみ)にまで愛情を法いだ良寛和尚、豪華な邸宅を藩士から貰ったその日に勿然と姿を消した元禄の名書家北島雪山、「春風や碁盤の上の置き手紙」の名吟を残し、一所不住の生活を送った俳人井月、みな真の自由を求めた人々で、ピケや座り込みのデモ戦術で外部からもぎ取ってくる自由と全然異質のものである。 と、だいたいこのように論じている。 澗村の求めた究極の生き方であった。この「無代進呈」の質素な冊子の中で、政治、経済、文芸に広い視野と深い洞察をもって、軽妙遊動な筆を駆使したのである。正に、名コメンテイター(時事評論家)、でありエセイスト(随筆家)であった。山梨のジャーナリズムにこの年老いたけれども、円熟して、無慾で精悍な文人を迎えたいものであった。 澗村を私が知ったのは、古本屋で畏友猪股松太郎氏が彼の「英和対訳/欧米近代文豪美文抄」(明治四十五年、実業之目本社発行)を探し出してきてくれたからである。 ゴルキー、 トルストイ、 ドーデ、 チェホフ、 ドストイェフスキイ、 ツルゲネーフ、 メーテルリンク、 ビョルンソン、 イプセン、 ゾラ、 フローベル、 ハーデイー、 ワィルド、 等々と大陸及びイギリス文学の粋が百花紛乱と咲き乱れているのは単なる英文解釈書でなくて、英語文学鑑賞の入門書といってよい。彼の文学趣味の巾の広さも示しているばかりでなく、英文の読み方の確かさも示した優れた書であると思う。 そればかりでなく文語、口語、修辞法、美文体の乱立していた明治末期に彼は既に次のような口語体でオスカー・ワイルドの「深遠から」(ド・プロファンディス)を訳しているのは特に注目に価する。「かのゴーチェーが言ったように、私は爾来常に『世界は吾が為に現存するものだ』と考える者の一人であった。けれども私は一個の自覚を持っている。花の美しい事だけで満足出来ないことはないかも知れぬ。けれどもこれら美しいものの奥に何らの精霊(たましい)が隠れている。と私は自覚しているのである。」 (仮名遣いは私が直す)彼は既に現代文を確立していたのである。彫心催骨の文体を生んだのである。翻訳と文章道への精進と、自然への帰一……優れた文人がもつ生き甲斐を、古年時代は市井において、退隠しては故郷の自然に求めたのである。 主客去って灰皿煙り春用談 花菖の放下に水湧いており(山林雑詠十二より)
『三人の北巨摩人』 中山正俊
保坂忠信氏著 『中央線』「郷土研究」第7号 1971 昭和46年刊 一部加筆 山梨県歴史文学館
『三人の北巨摩人』「生き甲斐」とは何であったか
中山正俊 ❖ 生 安政二年(一八五五・九・二五) 歿 大正六年(一九一七・八・二六)
駒峰と号した漢学言、教育家である。 駒城村(現、白州町横手)駒城村横手の現、中山夏雄白州町教育長(後、町長)の家で生れた。幼時から論語を暗誦し、漢文の作文に長じた。徽典館に入り、藤原多摩樹、竹内忠に漢学を習い、上京して岡鹿についた。 明治十六年(1883)微典館助教諭、 明治二十年(1887)尋常師範、 明治三十一年(1898)尋常中学校(現甲府工員)の教諭となり、 退職迄三十年間、漢文倫理を教えた。
帝国教育会は教育功牌を以て是を讃えた。 正悛の住居は横近習町二丁目(現中央二丁目)で私の家の近くである、富士川小学校裏手で門構えの武家屋敷風の家であった。私は正悛をみたことはないが、正俊の弟循夫(よしお)は伯父に当るので、伯父に似た正俊の写真から自ずと容ぼうが察しられる。目がぎょろりとして、子供にはとっつきにくかった村長さんであったが、優しい言葉で話しかけてくれたのを覚えている。「辱交/楓園/名取忠愛漫撰」の「中山駒峰先生碑」によると、 人となりが温厚寡黙で君子の風、頗る古君子の風がある」 と、あるから、これは、私のいった北巨摩人的特質のように感じられる。 彼が仕えた校長は黒川雲登、幣原坦(後に、広島高師校長、台湾帝大総長)、大嶋正健など甲府中学を人材の府たらしめた偉大な教育者達であった。 哲学者としては香南香川小次郎と並び文章に長じ、弟子「雲の如く」正俊会を作ったと、名敗翁は書かれている。甲中校友会誌第一号は明治三十年十月発刊してあるが、発刊を祝して、彼は朋友の道をといて、校友会のあるべき姿を示唆した。 今生徒会は「団結」の力といて、ここに七十五年の時間の経過がある。質実剛毅と勤勉を以って、列強に追いつこうとした時代であった、併し単なる儒者ではなかった。 マルコポーロ見聞記を、「瑪氏著東洋記」と漢文で書き、 「欧米に遊ぶ人を送りて」 「巴里の道羅馬の丘をたどるとも よるは御国の杖にそありける」 と歌って日本の心を強調した。 石橋滋雨、小林長勲、内藤多仲、小尾範治、浅尾新甫、林譟、みな当時の生徒であった。野尻抱影先生とも教員室を共にしたことがあった筈である。 教育者としての旺盛な気力はこの生き甲斐の自覚にあったのである。 (昭和四六年二月二七日、記)(日本英文学史会員)
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最終更新日
2021年12月01日 07時14分56秒
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