カテゴリ:山梨の歴史資料室
● 和算家 土橋照明 弦間耕一氏著 『文学と歴史』第七号 甲州の和算家 一部加筆 山梨県歴史文学館
和算家土橋照明は、文致十二年(1829)九月十四日に、八代郡古関村に生まれた。 八代郡古関村というのは、現在の西八代郡上九一色村古関である。古関村について『甲斐国志』は次のように 「村里部」で記述している。 古関封 大野 平河 飯田 葉草 山口 本郷 一 高 九十四石七斗七升八合 戸二百十八口 八百八十九 男四五二 女四二六 鑑札百七五枚 馬八 東北八鴬宿封ヘー里許り 南ハ阿難坂超へ精進封ヘ一里 半口留番所アリ 古跡部テ記ス
芦川に沿って散在する山村で、甲駿中道往還が村内を貫通し、口留関所も置かれ交通の要衝であった。二十五関の一つがあったことに、古関の封名は由来している。 神童とよばれた秀才の照明は、立身出世を夢みて江戸に出る。陸軍奉行並支配になった松下専之丞が、たどったように旗本の奉公人になり、できれば、家禄を買って侍になることを願った。 「お前が侍になってしまえば、この家は潰れてしまう、だから甲州に帰えってきてくれ……」 と親に泣きつかれ、仕方なしに古開に戻ったという口碑が伝えられている。照明の初志は、両親の説得で実現できなかったが、維新後に初代村長として、地域行政に貢献している。 照明が、和算を誰について学んだかについては、明らかにされていない。推定であるが、江戸での旗本奉公の中で、基礎的なものを習い、帰国後、宿場商人の一人 として働くなかで、学問を深めたように思われる。 古関・本栖・精進などは、九一色郷とよばれ、諸商売駄賃稼ぎのさかんな所であった。 百姓渡世ニ而者相続相成兼候ニ行、 四五百人程者年中他国汪諸商ひニ羅出、 残居候もの其者山稼ヽ炭薪材木等商売仕り、 馬持ハ駄賃徐行他国附通シ渡世いたし
上は天保七年(1836)の精進区有文書によるが、村の半数位いは、諸商売が駄賃稼であった。『甲斐国志』の「村里部」に出てくる、鑑札百七十五枚は、古関封の商人の特権を示す手形であった。 九一色郷の人達の活躍に比例するが如く、係争も多く、その関係の文書も残されている。諸商売や駄賃稼、さらに係争に勝訴するためには、数理の知識を必要としたから、照明の場合も実務の中で、和算の造詣が深められたものと思われる。 九一色郷の詣商売免許の鑑札は、武田の恩恵に始まり、武田滅亡後も家康入国の際の功績が認められ、その特権は明治三年(1929)まで続いたとされてきた。 しかし、笹本正治氏は「九一色郷特権の成立について」の論文の中で、
「九一色郷の特権は……武田氏に与えられてはじめて成立したようなものではなかった。むしろ武田氏としては、九一色郷民を懐柔し、自己の支配に組み込むかめにどうしても諸商売免許・論役免許として彼らの活動を認めねばならなかったのである。」
と卓見を発表されている。 九一色郷の人達は、武田の支配の頃から、特権が認められ諸商売の中で、算勘を必要とし、数理に対する感覚を発達させてきた。そうした土壌が生んだ人物に照明がいたといえよう。
次に関沢算学門人之証を紹介してみよう。
関流数学 山梨県第弐拾壱区 九一色村 土橋彦八 当家門人可被差加 異法之儀無之様 丹精可善広弟子嘩 数学師 明治九年十月九目 渡辺吉治 □□
門人之証に、土橋彦八とあるが、照明はかなりの年まで彦八を名乗ってきた(関沢算学門人之証の横に土橋百八、今照明と註を付けている) この門人之証を出しだのは、関沢の渡辺吉治であるが、この渡辺は、現在のところ、どういう人物かはっきりしないが後で触れてみたい。 門人之証の中では 「関沢の門人に差し加えるが、異法(他流)を学ぶようなことは許さない。 一生懸命に丹精して、広く弟子を養成しなさい」 と示めされている。 この中で広く弟子を養成しなさいと表現されている点から、考えられることは、百八(照明)の力量が、渡辺吉治のみならず、関沢の本流から高く評価されたことが伺える。しかし、古関村の近隣において、彦八が弟子を育成したかどうかについては、明らかでない。 しかし、口碑に「照明は、天元・点竄の高等数学がよくできた」と今も語られる。当然弟子もいたであろうと思われる。 渡辺吉治について不明と書いたが、『日本数学史研究便覧』荻野公剛著に出てくる渡辺姓の中に、渡辺義治という和算家が出てくる。江戸時代は名前の字も、義治を吉治とかくこともあるので『明治前日本数学史』岩波書店発行にみえる渡辺義治は、この門人之証の渡辺吉治と同一人物である可能性も多分にある。今後、渡辺について詳細に調査したい。 - 照明の子孫は、上九一色村古関三二八二番地に住む。現当主は土橋天氏である。天氏は上元丁己村の助役を勤めたこともあるが、今は晴耕雨読の生活を送っている。 次に土橋照明の家系図をあげておきたい。
新兵衛…初代彦八(昭明)…二代彦八…海寿計…天
照明には、志摩(安政五年生)と重(明治元年生)の二人の女の子しかなかったので、二代目彦八を、同村古関の長主前右衛門の次男を養子にして、志摩と夫婦にさせている。 長主助右衛門は(現上九一色村古関三三四二番地)元九一色村郵便局の郵便取扱役(局長)を拝命した人で、『甲斐の伝説』などの著書を出された土橋里本先生の皆祖父に当たる人である。 照明の養子になった二代目彦八も実父の助右衛門が明治十四年(1881)任官中に死去した後を継ぎ、郵便事業に従事している。局長として明治二十年まで勤めた。 照明は門人之証からみて、相当の和算家であったことは、推察できるが、和算関係の書物などは残されていない。 明治四十三年(1910)歿で八十一歳、墓は真言宗、古関山吉祥寺にある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年12月19日 07時20分10秒
コメント(0) | コメントを書く
[山梨の歴史資料室] カテゴリの最新記事
|
|