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2021年12月19日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

山梨の和参家 山本一正

 

弦間耕一氏著

『文学と歴史』第七号 甲州の和算家

   一部加筆 山梨県歴史文学館

 

一正は弘化元年(1844)正月、八代郡大窪村に生まれる。

大正元年(1912)に発行された『甲陽俳人名鑑』によると

「通称正一、吟月庵ト号ス、

嘉永三年(1850)八月二十三日生、

農事ヲ専業トス、数学(和算)教授ノ認許ヲ得、

風雅ノ道ニ志保ク殊ニ俳句及絵画ヲ嗜メリ、

測量製図等ノ事業ヲ研修ス」

とある。

 『甲陽俳人名鑑』は、甲府徽典館に勤め、後英和女学校で教鞭をとった山田弘道が発行したものであるが、通称を正一としたり、生年を嘉永三年にしているのは誤り

である。

 この一正は、和算教授の資格を持ち、測量製図等の事業を研修したというが、その師匠は明らかでない。一正の孫に当たる山本佐男さん(元小学校長 東八代郡境川

村中寺尾三元三九)によると

  「一正は草鞋ばきで、信州へそろばんを教えに行った」という。

測量製図に関しては、明治の地租改正以後、今村々の分検図が作製されている。寺尾村など、現境川村のものは一正によって製図がなされた。一正の測量している姿を彷彿させる自作の句に

「測量の旗の白さや冬の月」がある。

 

 江戸時代から明治時代にかげての測量は、主に和算家が手掛げている。和算家の知識・技術の中に、測量用具の作製も含まれていた。

 一正の自製の潮足器も山本家に大切に所蔵されている。こんな精巧なものをよくつくったものだと感心させられる。明治二十五年(1892)春製作とある。この測量器と同じものに、富士吉田市郷土資料館に展示されている渡辺俊明の測量方位器がある。俊明は現在の富士吉田市新紙に居を構えた和算家で、明治二十年に潮足器を自作した。

 測量器の製作の手引になったのは、秋田十七郎編の『算渋地方大成』巻の五である。

 

針盤(俗云磁石)の周を三百六十に割、

其一を一度とす。三十度を一方位とし十二支を配当す。

針盤を外輪いは印へ捻止にて繋ぎ、又外輪を半輪ろに

印へ捻止にて繋ぎて、外輪及半輪自在に割る様にす。

突立たるとき自然と盤面水平をなす。

本縄八蚕の生糸にて太さ琴糸程に三ツ繰に椅て用ふ。

鷹の経絡と同じ

間竿八六寸を一分とす。十分を一間とす。即六尺なり。

割り四寸程の直成竹を長さ二間に伐り、

節を削去て本末を銅にて包 半ヘ一間の刻を付、

叉一分但一分八六寸なり目を盛るなり、於右図の卸し。

地方八一分、但し六寸に満ざる端ハ棄る故

間竿に寸尺を印さざるなり。

渾発ハ縮図を画くとき用ふ。

測器ハ都て真鍮を以て制す。

仮標ハ廻り三寸程の直成竹を壱丈三四尺くらゐに伐り

末へ紅染あるひハ白の布を、

長さ壱尺四五寸、幅一寸程に截て、

常の塵払のやうに付るなり。右図の如し。

 

こゝでは「小方儀」「大方儀」「間竿」「仮標」などの図を示すことはしないが、『算法地方大成』では図解したものを提示し、手引としている。特に材質なども、すべて真鎗を以て判すとか、水縄は蚕の生糸にて大さ琴糸程にすると具体的に教示している。

 

『算法地方大成』は、関沢の嫡統である長谷川善左衛門寛の校閲で先に述べた秋田十七郎編といわれる書であるが、実際は長谷川寛が天保八年(1837)に著述したとみられている書である。

 地税改正後の上地丈量作業は、労力・費用ともすべて農民たちの負担で進められ、字名・地番・面積・所有者を記載した地引帳、が村ごとにつくられた。一筆ごとの土

地の位置、が地引絵図によって表示され、それが公図・公簿となった。そして、公簿をもとに所有者に地券が渡された。この時につくられた公図一公簿が登記所の登記簿

・地籍図の原型になっているのである。

 

境川村寺尾の一正の孫である山本佳男先生は、これが一正がつくったものだといって、『一筆限反別地価取調帳』を見せてくれた。それには達筆で、東八代郡寺尾尾村山本一正と署名がしてあった。

 さて、この一正は一華と号し、昭和二十五年に発行された『峡中芸術家大鑑』によると、俳人、土佐派画家、書道家として紹介されている。それによると、

「幼少より書画、俳句にすぐれ其名東西に知られしといふ。

其の生涯の作品は相当多数に達し、

大部分は境川村中村家、山城村田中京に愛蔵せらる。

その五才の時に、描きたる生け(き)るが如き『猫』は

当時専門家より激賞せられしも、

今はその行方を知らずという」

とある。

 俳句の方での活躍もよく知られている。六十歳の時に日本国民雑誌社が主催した全国俳句大会に出詠した

「昇る日にころり落ちげり露の玉」

が見事に一等賞に人選している。目露戦争というきびしい戦況の中において、一正の句が評価されたものである。

  よきふりを数ふる門の柳かな

  雪に手を突いたあとあり神の庭

  不二詣こゝろに曇りなき様子

 

一正の作風は、教訓的なおもいが込められたものが多いように思える。

 昭和二年(1927)、八三歳で歿している。

墓は境川村寺尾、至福寺。戒名は、彩雲院一華寿正居士である。






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最終更新日  2021年12月19日 18時25分30秒
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