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2021年12月22日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

  武田家滅亡 天正甲斐之國由来傳

兜嵩雑記(とんがざっき)乾 

 

  地蔵菩薩利生之事並日輪山法廸寺山来之事

 

そもそも我朝未三拾三ヶ国にて、五畿七道の別知も定まらさりし時は、

此甲斐国も四岳八峯建圍、

その中満々たる湖水湛て人民魚別かうりゆうの害を受て、

農業高貴の活業を故事不能、

爰に人皇四十三代の帝元明天皇の御宇、

和則五年壬子に當て行基菩薩遙かに此國の飛地ならん事を察し給ひ、

国家を鎮め人民を安堵させん事を、

則チ日天子に祈り給へは、六道能化地蔵菩薩の誓願叶ひけるにや、

應化の身を現し大神通の佛力を以南山を開て、

満々たる湖水を駿河國に流し、

此國を沙々たる平地として人民の患を散し、

農業を激し佛法を敬る爾地と故給へり、

誠に唐土の聖人犬馬の、洪水を治め賜ひし威功も猶これに過ぎんや。

去るは彼の地蔵菩薩の三社の霊神と跡を垂れ給い、

末世澆季に至る迄。此の国を守護し給うとかや、

その外蹴削明神は南山に立ち、天津乙女の音楽を奏し、

笛吹川を擁護し、笛に音とりしと云う手有り、

此の川の子の方より、西の方に流れる故に、此の川の名とするなり、

さて又三保の明神は流れに随い駿陽に至り、

源を清くしその流末に住みて末代まで清らかん事を、

三保が崎に留まり給う、次に各々要の所に立ち賜う、

依之本地は何れも大悲地蔵菩薩に御座、

されば一二三の明神は末世の今に至るまで、

年々両度御川除難有る事どもなり、

彼の行基菩薩右の次第一ニ奏聞在ければ、

帝叡聞く御座にて、則、日輪山法城寺と新たに勅額下し賜いけり。

評に曰く、

行基菩薩地蔵尊を相見みて持ち賜うる御杖に

其の儘地蔵菩薩の尊像を作り給へり、

今東光寺の地蔵尊の御首に彫り入り給ふとなり。

 

甲斐源氏由来の事並び武田家代々興廃の事

 

  『兜嵩雑記(とんがざっき)乾

 

人皇五十六代清和天皇

第六の皇子貞純親王の御息、六孫王経基公始めて源氏の姓を賜ふ、

その御嫡多田左馬頭満仲公、

その御息摂津守頼光公御息なくして御舎弟頼信公を養子として、

河内守と號す、

その御子伊豫守頼義公各鎮守府将軍に叙任仕り給い、国土を治め給う、然るに人皇七十代後冷泉院の御宇、

天喜二年陸奥国の侍安倍貞任、宗任の二人の兄弟謀叛に依りて、

伊豫守頼義勅を蒙り奥州に下向ある、

康平六年二月十六日彼の朝敵を悉く討ち罪有りて都に帰りしが、

此の度の軍功に依りて、帝より御旗鎧を下し給ふ、

彼の鎧と申すは、胴丸にして、大袖金具に割菱を附けられたり、

伊豫守頼義朝臣に御男子多数御座しけるなり、

御嫡男八幡太郎義家公、

御次男加茂次郎義綱、

御三男新羅三郎義光と申し奉る、

則義光公従五位下に叙任御座候、形部の丞と成り賜い、

甲斐国に任ぜられ、

古しへ後冷泉院より賜わりし御旗・鎧を持たせ給ふ。

御代々御家に傳わる重宝として世に是を崇めて武田菱と申しける。

刑部之丞義光公御子繁昌して甲斐源氏と唱ける。

逸見・板垣・一條・錦織・平賀・南部・小笠原などの太祖なり、

義光公御嫡男武田刑部之丞義清公、武田家の元祖なり。

御舎弟四郎の盛義、是平賀の元祖也。

さて又武田刑部之三郎義清公の御嫡、黒源太清光、

その息子武田太郎信義。

 同逸見上総介光長、

 同加賀美次郎遠光、

 同安田三郎義定、

 同安井四郎清隆、

 同河内五郎義長、

 同田井五郎光義、

 同曽根禅師坊玄尊、

 同名護蔵人義行、

 同浅利與市義包、

 同譽三郎信清と號ける、

これより逸見、加賀美、安田以下に渡り別れけり。

 加々美次郎遠光公御嫡男、

  秋山太郎光義、

  次男信濃守長清、是小笠原の元祖なり、

  三男三郎光行、是南部家の元祖也、

  四男四郎経光これ於曽家の祖なり、

時に武田太郎信義、豪勇の大将にして、

鎌倉の大将頼朝卿義兵を揚げ給う時、

武田太郎一族を語らい駿河国浮島ケ原に出張して、

謀略を以て平家の大軍を追い退く勝利を得られけるを、

右大将頼義朝御感不斜、掌として壱番に駿河国を下し給ふ、

其の息一條次郎忠頼、

元暦元年一の谷合戦の砌陰謀の聞こえあるによって。

天野藤内遠影に命じて、鎌倉の殿中に於いて諜せられける、

 依りて次男板垣三郎謙信、

 三男兵衛有義、

 四男石和五郎信光、是一條の祖也、

信政の曾孫伊豆守信宗、甲斐、安芸両国を給わりて守護職に任す、

伊豆守信武は足利尊氏公に仕えて武名尤も隠れなし、

 その息信成父の家督を続き甲斐国に住居す。

 舎弟直信は安芸国を賜りて彼の国の守護職となる、

信成三代の孫伊豆守信重は足利家に仕え軍功成りしかば、

公方其忠貞を賞して朱の采幣を賜るに依りて、

武勇剛敷武田家の中興なり。

 信重の御孫刑部太輔信昌は三歳にして父信守逝去せられしかば、

十五歳まで家臣跡部上野介後見として万事大小となく取行、

此れ故に伝来の御旗楯無の鎧みな跡部が横領せしを、

刑部大輔信昌十九歳の時執権上野介と不快にして、

石和宿の郷に於いて合戦を挑み、此の時跡部は彼の楯無の鎧を着せり、然るに太守信昌公心中に祈念を給ふ、

御代々御家に傳へ侍る重賞として、世に是を崇て武田菱とそ申ける。

 

形部之丞義光公御子孫繁昌して甲斐源氏とぞ唱ける。

逸見、板垣、一條、錦織、平賀、南部、小笠原等の大祖也、

義光公御嫡武田形部之丞義清公武田家の元祖也、

 さてまた

武田形部之三郎義清公の御嫡黒源太清光、

 其息武田太郎信義、

 同逸見上總介光民、

 同加賀美次郎遠光、

 同安田三隅義定、

 同安井四郎清隆、

 同河内五郎義長、

 同田井五郎光義

、同曾根禅師坊玄尊、

 同名護蔵人義行、

 同浅利與市義包、

 同與三郎信清と號ける、

是より逸見、賀々美、安田以下に渡り別れけり、

加々美次郎遠光公御嫡秋山太郎光朝、

 次男信濃守長清、是小笠原之元祖也、

 三男三郎光行是南部家の元祖也、

 四男四郎経光これ於曾家の祖也、

時に武田太郎信義強男の大将にして、

鎌倉の右大将頼朝卿義兵を揚げ給ふ時、

武田太郎一族を語らい駿河国浮島ケ原に出張して、

謀略を以て平家の大軍を追い退けて勝利を得られけるを、

右大将頼朝御感不斜、掌として壹番に駿河国を下し給ふ、

 其息一條次郎忠頼、

 元暦元年一之谷合戦之砌陰謀の聞え有によって、

 天野藤内達影に命して、鎌倉の於殿中に誄せられける、

依て次男板垣三郎謙信、

 三男兵衛有義、

 四男石和五郎信光是一條の組也、

信政の曾孫伊豆守信宗、甲斐・安芸両国を給りて守護職に任す、

伊豆守信武は足利尊氏公に仕て武銘尤隠れなし、

 其息信成父の家督を績ぎ甲斐國に住居する、

 舎弟直信は安芸国を隔て彼國の守護職と成り、

信成三代之孫伊豆守信重は、足利家に仕て軍功甚成りしかは、

公方其忠貞を賞して朱の釆幣を賜るに依て、武勇剛敷武田家の中興なり、信重の御孫刑部太輔信昌十九歳の時、執権上野介と不快にして、

石和宿の郷に於いて合戦を挑み、

この時跡部彼の「楯無の鎧」を着せり、

然るに太守信昌公心中に祈念を凝、上野介を只一矢に射殺し給ひける、「楯無の鎧」に此矢の跡明らかに残りしは、此合戦の故なり、

斯て合戦経りて御帰館ましまし太守宜ひけるは

「楯無の鎧」の事は富家の元祖新羅形部之丞義光公より

富家重代の家宝なり、

然るに此度の弔一矢に射通しぬる事、

偏に末世に成下り楯無の威力も衰へぬる事残念なり、

我思に子細有れは一命を捨楯無の鎧の威力有無を試んと、

自身彼の鎧を着し勢兵の射手を選び、

 武藤五郎七郎、

 小田小重郎、

 三枝兵部など近國に名を顕る弦弓の名人也、

彼三士を前後に立別、主入信昌を射たりけるに、

其矢一筋も立事不能悉く矢飛帰てるこそ不思議なれ、

扨て楯無の霊験あらた也、彌家運長久琥へしと難りなし、

 

其子息伊豆守信縄、其嫡子左京太夫信虎と號しける、

さて左京太夫信虎は、父信綱の家督を継ぎて、

元祖新羅三郎義光朝臣より十六代に相當り、

代々傳りし 

「御旗・楯無の鎧・諏訪法性の兜」「義弘の太刀」「左文字の刀」「

 左文字の短刀」を始め、様々な家宝皆この城に傳わり、

 是を「甲州の屋形」と號して、其の威を遠近に振ひ給ふ。

一族には安田・浅利・逸見・一條・南部・下山・板垣・秋山・加々美・勝沼・櫻井・小佐手・曾根・於曾・数野などの士なり、

 中にも下山、その次は穴山と号しゞなり、

この穴山殿の息女を太守信虎公の家宝と成り賜いて、

穴山左衛門信行と申せしは御臺所の御舎弟なり、

且つ又当家の家臣には、

 山縣河内守虎清、

 馬場伊豆守虎貞、

 工藤下総守虎豊、

 内藤相模守虎資を四老臣として、

原能登守虎森、小山田備中守杯と云える

一騎当千の勇士等員ふるにいとまあらず。

然るに信虎公検法に於いては他に異成ると雖も、

あくまで短慮に御座て世を世共思い給はず、

人を人とも思わず、

一族安田・浅利・逸見・勝沼・櫻井・小佐手を始め、

大方攻め滅ぼす、

 その所の領地を奪い取り、威勢遠近に振いければ、

明日は誰かの身の上にわざわい有りけんと、

一門の人々安すき心はなかりける、

 そのうちに智有老臣などは、如何なる天魔の御心に入れ替わり、

骨肉の好身を忘れ、斯門葉を亡ぼし給うらん、

積悪の家には必ず災い有りといえり、

如何有りべしと悲しまざるはなかりけり、

 






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最終更新日  2021年12月22日 08時06分42秒
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