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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年12月23日
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大地揺がす諏訪の御柱(おんばしら)


      所収記事
 

 

古代日本の謎を秘める諏訪の地に永々と

続く七年に一度の奇祭御柱祭とは何か?

 

建御柱

 

咋夜来の雨も何時しかあがり、敵前大社下社秋宮の境内に詰めかけた群衆のどよめきが鬱蒼たる新緑の繁みに阪い込まれていった。

秋宮一ノ柱の建御柱の神事は、まさに始まろうとしていた。雲間を刺し貫いた陽光が木漏れ陽となって、神事に携わる氏子達の頼を赤く照らした。  

 

長さ五丈五尺(「八・五メートル」、重量三千貫(約一一トン)の巨大な御社の上に立ちはだかった若い衆が、ニメートルの大御幣を振りながら声をふり絞って歌う。

  さあさ皆様

  心そろえて

  お頼みだ

  挺子方本気で

  頼むぞえ   

  よいさこらさで

  お願いだ

    やれよいとこしょ

    やれよいとこしょ  

 

掛け声と同時に一斉に綱が引かれ、歓呼のどよめきの中に、神木は天空に向って徐々に頭を挙げた。七年に一度、数カ月に亘って繰り広げられた豪壮な神事のそれはフイナーレであった。

 

御柱祭 みはしらさい の由来

 

この諏訪大社の御柱祭は、申、寅の歳、七年目ごとに行なわれる祭典で、その規模の大きさ、珍奇なこと他に類が無く、天下の奇祭といわれている。

行事は、山から伐り出した樅の大樹を、大勢の氏子達が町まで曳いて来て、神社の四隅に建立するという言ってみれば単純なものだが、その単純で豪壮な男らしさがこの行事の特徴でもある。

 

では、この四本の社は何を意味するのであろうか。この行事は何時、どのようにして起ったものなのであろうか。私達は神威な社殿の四隅に天に向って屹立する巨大な御社を仰ぎ見るとき、或る種の霊感を伴った荘厳な感情を持つ。それが持つであろう大きな意義が我々の祖先の思想の底流の一部を解明してくれるであろうことを期待する。

だが、時代の変遷、研究者の観察の角度によっておのずからその意見は異なり、今日なおその意義は決定づけられていない。

ここでは、それら各説をこれから紹介するに止めるが、読者諸氏もまたそ

れぞれ考察されたい。

 

 諏訪の御社に関する最古の所見は、鎌倉時代の文献「諏訪効験」に見られ、その中には

 [四の御社片柏も内証四無量四抄]とある。

 すなわち仏説による慈、悲、喜、捨の四つの心に四本の陶枕をかたどったもので、仏教思想に よる強い影響が見られる。

その後室町時代の「諏訪神道書」もまた『四元御社四無景観』として前述の説を受け継いでいるが、同じ室 町期の「諏訪大明神縁起絵詞」では説が異ってくる。

 

四維の御柱は四王擁護のしるし、

  九隠の薙鎌衆米産催伏の利剣なり。

爰に知す、

  神明慈悲の畋猟は群類斉度ノ方便ナリ……

 

 というもので、四王すなわち持国天(東方)、広目天(西方)、増長天(南方)、多聞天(北方)の各守護神が四方国家の鎮護を意味するとしている。さらに鎌倉、室町期にはこのほか『四菩薩』説や『独古』説まで現出するが、いずれも国家的宗教として強大な力を有してきた仏教思旭による本地垂迹(ほんちすいじゃく)説がその根源をなしており、一時代における御社の意義の、一つの歴史的経過を見るに過ぎない。

 

次いで江戸時代に入ると、儒教の伝来に伴う国学の勃興と共に、復古神道興隆、国粋主義的倫理観が御柱説をも支配した。

「信濃国費姿」にみる青竜、朱雀、白虎、玄武の四神による東西南北固堅

め説などは、その典型であり、根本的には四玉説と変りはなく、仏教的解釈より一歩進んだ儒教思想による中国的神の影響にほかならない。

 一方、『雨風鎮祭』説、神明妙体説のごとき、御社そのものに何か霊的な価値、あるいは役割りを与える説や、土地限界説が現われ、御社の意義は混沌としてくる。そして江戸後期の「上諏方宮御柱神事口訳」等による宮殿表

示説が、古来社家方を初め多くの学者によって支持されてきた。

 現在ではさらに多くの学説が乱立し、入り

乱れているが、二股的には社殿の造営を省略した形が遺されたのであろうとされている。

かつて土地の古老より採集された伝承によると、

 

昔、桓武帝の頃、坂上由村麿が奥州征伐に際し、諏訪湖畔を通った折に

諏訪神社に参詣、戦捷の祈願をし、戦に勝たぱ七年目ごとに御社を御津

替え申し上げると約した。

見事大勝を得た後は奉寞として七年一度の社殿の造営が行なわれ、以後 

も引き継がれてきた。

その後七年では汚損しないので四隅の柱を入れ替えるにとどめたが、戦

国時代に至り、四隅に柱を建てるだけになった。

 

ということであり、社殿の造営説を裏付けてはいる。

 

では、単に柱を建てるという形式が古代人の原始信仰の形態を考察するにあたって、どの程度の意味合いを持つのであろうか。

次に折口信夫の御柱に関する民俗学的な考察を参考に供したい。

 柱の「ハシ」ということについて考えて見た場合、ハシといえば我々は直ぐに川の両岸をつなぐ水平的橋を考える。だが古くは垂直に縦に天と地をつなぐハシがあると考えられていた。しかしこれは際限なく長いものになるか

ら、ただ高いものを建てておけば、天の神がそこから降りてこられるものと考えられていた。

そこで柱は神の降臨に必要なハシと同様なものと考えられた。それを区別するため川に懸っているものは橋、御殿へ昇る処はキザハシ、神の天から降りて来るものはハシラと呼ばれるようになった。

 すなわち、柱は神が天から降りて来る際の目印であり道筋であるというものだが、それでは、四本という数字は何を意味するのだろうか。折口信夫はさらに、神の降りて来る場所、侵してはならない神聖な場所を区画する意味、及び土地の精霊を鎮めるためなどの理由をあげて四本の意味を説明してはいる。

 では四本がそれぞれに長さが違うのは何故か、七年目は何を意味しているのか、すべてが謎という他はない。それはきわめて難解な錯綜した現象としてしか残っていない。

 ただ判っていることは、いまでも七年目ごとに、諏語部市数万の人を集めて盛大に祭が行なわれているという事実であり、今年も祭は行なわれたということである。

   

謎の古代諏訪と御柱祭

 

 信濃一ノ宮諏訪大社。上社本宮(ほんぐう)、前宮、下社春宮、秋宮、この上下同社が諏訪湖を中心として、南北に特殊な祭祀形態を保って鎮座している。祭神は上社建御名方命(たてみなかたのみこと)と、下社はその妃、八坂万売命(やさかとめのみこと)である。

 この建御名方命(大国主命の長男)の『古事記』に見える国譲り神話は、語ると長くなるのでここでは省くが、これとても多くの謎に包まれている。全固に数千の分社を持ち、摂社末社合わせて一万に余るという強大な勢力を持ちえた諏訪の神とはどういう神であるのか、氏子の奉仕が堅く結束したのはなぜか、そうした神の王国がなぜ、中央高地の寒冷な湖の盆地に育ったのであろうか。

 出雲族を中心とした古代国家の成立にも深い関連を持つこれらの事柄が明かにされるとき、日本古代史、日水民族化関する謎の一部が解明されると共に、御札祭の実体もまたある程度明かにされるであろう。ここでは残さ

れた研究課題として、今後の調査に待つこととする。

 

  万代やよきこと諏訪の御柱

 

昔から七年に一度信濃一国をあげての大祭典に参集する人々の群は、街道に沿って延々里余に及び、上は武家から下は庶民に至るまで相当な賑いを見せた。

 天明三年(一七八三)瓢然と信濃路の旅に立った菅江真澄もまた、この奇祭に遭遇する幸運に恵まれた。

 静かに神の御前に入 ると、おし立てた柱の高さは五丈七尺あまり、大綱、小綱を四力所につけ、その綱を高い木の梢に引きかけて、引き上げる用意がしてある。

まずこの木を伐ろうときめると、七年前の年から「願いがね」といって、釘、かすがいといったものを打って置き、恩柱の料と定めて、本樵(きこり)も斧をふるわず残しておいたものを、このたび、伐って山からひきだすのである。

こうして神前にそなえ奉ると、大工が一人出て、手斧をところどころに折ちあて、清めをして引き下がる。あちらの木のまたには、足場を高く建て結んで、男二、三人が紅色の手拭で鉢巻をし、采配を振り、拍子をとって、

この声を合図に、大鼓にあわせ、四本の網を大勢で引く。

……(『菅江真澄遊覧記』東洋文庫) 

 

ではここで、現在の御柱祭の諸行事について日程順に述べてみたい。記者の取材 したのは下社における御柱祭であるが、読者の便宜を計るため上・下社を混乱の起こらぬよう類別して記すこととする。

    深山に響く斧音

 まず最初に御社にする樹を決める行事・御柱見立が行なめれる。

上社は遥か二〇キロを隔てた八ケ岳中腹の御小屋山(おこやさん)で、前年の五月に見立てを行ない、薙鎌と呼ばれる鉄釘を御柱本に打ち込む。この薙鎌は開拓神であり暴風雨鎮護の神である諏訪神の表徴とされ、これを打ち込まれることによってその生木は神意を奉斉し、将来拓植となるべき資格を有する。前述菅江真澄による「願いがねを打つ」という記述も同様である。

 

一方下社においては、二年前の十月、およそコ一三キロ離れた霧ヶ峰中腹の東俣で、神社関係者・古老等により御社木八本の見立が行なわれる。この場合薙鎌を打つ神事は行なわれず、見立てたそれぞれの八本に注連縄を張 り、「春宮一ノ御社」 あるいは「秋宮一之御 柱」というように墨書した標示板を打ちつけて神用であることを明かにする。

 次に祭年の二月、関 係各市町村によって、奉曳する御柱の分担が抽籤によって決定される。各社に建立される四本の御社は、先にも少しふれたが、  

 

一ノ御柱……五丈五尺(約一八・五メートル)

ニノ御柱……五丈(約一五メートル)

三ノ御柱……四丈文五尺(約一三・五メール)

四ノ御柱……四丈(約一三メートル)

 

というように、古来よりのしきたりで決められている。

斎庭に参集し、見じろぎもせずに注視している各市町村の氏子達は、なるべく大きな御社に当る事を願って固唾を呑む。鬮(くじ)を抽く各代表者の顔は益々真剣味を帯び、蒼白にすらなる。かすかにふるえる手で、瞑自一瞬、引き抜かれた鬮は立会人に示されたのち、神職によって参集の氏子達へと伝えられる。その度 に上る興奮したどよめきと歓声は、まさに大祭の前奏曲にふさわしい。

 もっとも現在下社においては、事実上の抽籤は行なわれず、各市町村の曳行力量による協定によって各細枝の割当てが決定せられている。

二月中句、下社関係市町村氏子総代が秋宮社務所に集合して、あらかじめ決定してある組合せを協議確認の上、秋宮大前においてその奉告祭を執行し、抽籤式に代える。

 各市町村氏子の受持の御柱が決まれば、それぞれ各部落(旧)の旧慣によって曳網を打つ。材料は主として藁であるが、庭訓などには藤蔓・針金などが混用され、太い物は直径一尺(約三〇センチ)にも及ぶ。長さは各部落ごとにおよそ二〇メートル内外で、これを一村ごとにつなぎ合せ一〇〇メートル近いものとする。

 三月に至って、上社ではいよいよ神木の伐採・山作りの神事が行なわれ、祭りの実質的な第一歩を踏み出す。日程はその年によってまちまちで、神社側と山作りとで、あらかじめ御小屋山の積雪の状況その他を見て協議の上決定される。

神木の伐採に当っては、山作り一名にその補助者二、三名がこれに加わり、

根切りを終えて横倒しになった神木の枝を払い、皮を剥ぎ、曳網を通すメド穴を掘り、古式によってその丈尺に切断して、すっかり御社に仕立てる。

 下社では、上社と違って

前年三月五日 東俣御株ノ内、字宝殿ニ於テ

長五丈五尺ノ円木八本ヲ伐リ、

ということで、前年にこれを伐採する。特定の山作りの制度はなく、あらか

じめ定められた伐採奉仕員が、これにあたる。

だが方法において上・下社間にそれほどの差異はない。未だ言の消え残る原生林に斧音が高く響き中天に広がる枝参の手を払って、八本の御社が次々に倒れて行く。

木霊(こだま)する轟音、打ち震える大地、ここ東俣の深山の峡谷にその瞬間、神が甦える。

 

   神事のクライマックス

 

 里から山麓へ春が忍び寄り、山々が息吹き始める四月、この祭の最も豪快なクライマックスを含む山出しの行事が開始される。

 上社は初旬、申寅いずれかの日から始め、御小屋山より茅野市御柱置場の間を、諏訪市の一部と茅野市、富士見町、原村の各氏子が御柱を曳行する。下社は上社より六日後、東俣から注連掛までを諏訪市、岡谷市、下諏訪町の氏子が曳く。

 この日、両社とも御社を崖から落とす「木落し」の壮観があり、また上社では宮川を渡る川越の壮観を見ることが出来る。

期間は普通三日間(今年は上社七~八日、下社十三~十五日)だが、予定の期間中に終らず延びることもしばしばである。ではここで今年の下社木落しの模様をみてみよう。

 

山出しの最終日、東俣の原始林より大平まで仮搬出された秋宮一の御柱は、萩倉部落を経て水落しの断崖上まで曳き下された。五〇メートル以上も有る峻嶮の上に、巨大な御柱の頭は空に向かって不気味に突出す。下で曳く二本の曳綱に連れてゆらりと揺れるその先端に、ハッピ鉢巻姿の若者が御幣(オンベ)を振って立ち登る。大勢の血気溢れる若い衆が後に続く。

 先頭の若者の、喊声を突き通す高く鋭い木遣の一声が響くと同時に、曳網はピーンと張られ、みる聞に機首を覆した御柱は崖下に向って急降下を開始した。轟然たる地響きと共に深々と土煙が立ち昇り一瞬若者たちの生死が頭

をよぎる。そして、土埃りの中から躍り出た若衆達の無事な姿を見出した山谷を埋める数千の観衆は、思わず驚嘆の歓呼と感激の拍手にしばし時を忘れた。

 下社御社祭随一の豪壮な景観である木落しは、こうして終った。

 山出しの終えた七日後、今まで各社に建ててあった古い御柱を倒す行事、古御社休めが行なわれる。倒された御社は関係部落に払い下げられる。その際残った部分は打ち砕かれその破片は無病息災、家内安全その他もろもろの効能があるとかで、祭り見物の衆があらそって家へ持ち帰る。

 そして五月、御社祭中の圧巻、里曳き(本曳き)が始まる。この期日も年によって多少のずれがあるが、今年は上社が五月三日から三日間、下社、同十一日より三日間の日程で取り行なわれた。

 この期間、全郡市の老若男女を挙げての奉仕は、見物客の耕と一緒に諏訪の町々を埋めつくす。老若ひとしく七年に一度の大祭に、直接自分の労力による奉仕を無上の光栄とするという、我国祭例史上特筆すべき形態が、い

ま目の前で行なわれている。そこに我々は、長い期間に培われて来た、独特な信仰形態である諏訪神の根強さを見るのである。

 その代表的な例が、結婚、造作、加冠等の禁止という徹底した習慣であろう。現在でも御往年には、家風の新築や、婚礼をやらない風習が根強く残っており、貧富の差にかかわらず、たとえ食べるものを食べずとも、とにかく祭に参加しなければならない。

 なおかつ、この年に死んだ者は葬儀さえも許されないという、徹底した祭中心の信仰がある。

 各町内から出されたたくさんの長持を、扮装をこらした若者が担ぎ、曳々と響く長持歌に合わせて市内、町内を練り歩く。同様に、お騎馬行列、笠踊り、諏訪湖竜神、獅子舞等数々の出しものが、それぞれ趣向をこらして町を埋めつくす。その間にも置場を発した御柱は、木遺脱と共に数千人の人々に曳かれ大社へと向う。

 そして、境内に到着した御柱はいま、数カ月あるいは数年に亘った長い祭事のフィナーレを迎えたのである。












 






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最終更新日  2021年12月23日 20時27分38秒
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