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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年12月27日
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美豆御牧は『甲斐国志』の言うような、「美豆ノ牧トハ穂阪、小笠原、逸見三所ヲ差シテ云ナルヘシ。」ではない。美豆は京都市伏見区淀美豆、久世郡久御山町美豆野であり、『千載集』の頼政の歌に「山城の美豆野の里に妹をおきていくたび淀に舟呼ばふらん」とあり、「山城の美豆のみくさにつながれて駒ものうげに見ゆる旅かな」・「比ぶべき駒も菖蒲の草も皆みつ( )の御牧にへけるなりけり」なの他にも「美豆の御牧」や「美豆野」を詠み入れた歌は数多くある。『甲斐国志』の混乱は『夫木集』に「みつ」を「へみ」に変えた事にもよる。また甲斐国志の編者の「美豆御牧」の認識不足にもよる。また紀貫之の「みやこまでなつけてひくは小笠原へみの御牧の駒にや有らん」も京都府の久御山町では「みやこまでなつけてひくは小笠原美豆の御牧の駒にや有らん」と紹介している。「逸見の御牧」は歌の世界のことで歴史文献には見えないのである。

 「美豆ノ牧トハ穂阪、小笠原、逸見三所ヲ差シ」の記載は間違いである。なお『甲斐国志』の眞衣野の項の歌も信濃御牧ケ原を詠ったもので眞衣野牧とは関係ないものである。

 昨年明野村永井原で発掘された遺跡が「小笠原牧」であるとのような発表があったが、この遺跡を小笠原牧と決定する説明はなく、ただ一度古書文献( )に見えるだけの「小笠原牧」と決定するには慎重な調査が必要で、「小笠原地名」の発祥地の南アルプス市小笠原の地名もあり、またこの地域は勅旨牧三牧や中世牧と係わる可能性もあり焦って結論を出す必要は認められない。

 残念ながら『甲斐国志』からは甲斐御牧の存在は解明できない。また歌に詠まれた地域名にしても諸説はあっても確定はできない。 1995年に発屈された甲府市塩部遺跡から馬の歯の一部が出土し、研究者が甲斐の馬の生産の起源が四世紀後半に遡ることを指摘された。また研究論文によると馬の体長は125 程度で働き盛りの「良馬」が犠牲として殺された可能性が強い。と言及されている。また東日本における四世紀の属する馬の出土は東日本でも数例しか認められていないとして、その四件の内山梨県の塩部遺跡から二件、中道町の東山北遺跡が一件で長野更科の遺跡がそれに続いている。

 甲斐と馬の関係は『日本書紀』や『続日本記』を始め多くの書に掲載されている。ある面ではこうした文献の内容の裏づけともなる。 こうした研究者の弛まざる努力がその解明に大きな力となるが、研究者の過大な推論は今後の研究の足枷にもなることもあるので注意が必要と思われる。日本でも最大級と称される『甲斐国志』をもってしても何の解明もない状況で、その後に著された諸本も歌や『甲斐国志』から脱却できずに混迷を深めている。所在地の確定は難しい状況であるが、数多くの文献から甲斐の御牧の規模や当時の牧の様子などには近づくことはできるのである。

 ここで『甲斐国志』に先だって刊行された『甲斐名勝志』について見てみることにする。

 

 古代御牧(勅旨牧)〔眞衣郷〕古蹟部第十一 巨摩郡武河筋

 

  倭名鈔ニ巨摩郡ノ郷名萬木乃、国用 眞木野字トアリ、

餘戸郷ノ北貳拾餘村ミナ此郷ニ属ス。

牧ノ原村即チ其遺名ナリト云  

延喜式国史諸記ニ所レ載本州ノ御牧三所

穂坂、眞衣野、柏前ナリ。

年貢ノ御馬六十匹ノ内眞衣野、柏前ニテ三十匹以

八月七日 毎年牽進ストアリ。

牧ノ原ハ駒ヶ岳、鳳凰山ノ東麓廣遼ノ地、

今ハ盡ク耕田トナル。

駒ヶ岳ハ奇絶幽蹤神仙ノ所聚古ヨリ

人躡其地事ヲ不レ許若攀ヂントスル者アレハ

必ス風雨怪異ヲ現スト云。

頂に駒形権現ヲ祭ル。

厩戸王ノ驪駒ハ此山ニ産畜セルト云、

事俚談ニ傳ヘタリ。

釜無河、尾白河、大武河等此ニ発源ス。

甲陽茗話ニ「釜無ノ水源ニ神馬ノ精アリ。  

因テ飲 此水 畜ノ馬子必靈ナリト云々。

東鑑に載セタル武河ノ牧ハ竹河ナリ萬力筋ニ記ス。

和歌ニ御眞衣野原( )ト詠  メル是ナリ。

 

みまきのはら(夫木集未考、御牧原カ或云甲斐) よみ人しらす

    名に高き木曾のかけはし引わたし

み牧の原やこひしかるらん

 

まきの里(夫木集に云う山城) よみ人しらす

   布さらすまきの里ともみゆるかな

卯の花さけるかきねくは

 

 参考資料『甲斐名勝志』〔天明三年(1783)刊。萩原元克編〕

 

○延喜式所載 甲斐三御牧

 

    柏前牧 

甲斐御牧考曰、柏前殊に不可考然式所載之牧都テ

三處而穂坂眞衣野既在巨摩郡ニ因テ思フニ

之逸見又有樫山村北與信界土極テ勁寒曠邃

而多ク産于今州民皆取給ヲ焉其稱

樫山者亦安知其非柏前轉訛乎外是

而八代郡有柏山而黒駒山値其南駒飼村在

其東ニ皆遠盖前ト與峡同訓而皆縁山水ニ之稱ナレバ

則此具一帯之地域為古之牧亦不可知ル也云々。

依之按スルニ柏尾・樫山両説難分と雖も、

恐らくは柏尾ならんか。

 

眞衣野牧

  甲斐御牧考ニ曰、

武川之地有牧原村與驛路屬ス。

倭名鈔有巨摩郡眞衣則此其為違名亦可知矣。

東鑑曰、

建久元年三月十三日、

甲斐国武河御牧駒八疋参着被レシ經御覽可被進京都 。云々

 

 穂坂牧 

甲斐御牧考曰、

逸見之地見有小笠原村而講有繁穂坂之號者

且村落之通稱有坂上・坂下

意者(オモフニ)穂坂者大名而所謂小笠原是特稱者

和歌所詠如互擧其名者然恐不復為兩牧也。云々

 

 この後述には駒牽行事への参加状況が記載してあるが重複するので省く。

 この時代にすでに「甲斐の御牧」の所在地は不詳であり、従って『甲斐国志』においても同様な記載となったことが理解できる。以後諸説はあっても研究や史料の読み込みも不足していて未だに進捗してない状況である。今後は遺蹟調査に頼ることになるが、当該地域墳墓や遺蹟などの調査結果からもその所在地を確定できない。実証するには盗掘や破壊された遺蹟や遺構が多すぎる。

 特にその時代背景から地名「小笠原」は旧中巨摩郡櫛形町小笠原周辺地域の方が先行する条件がある。後に開発されたのが明野村小笠原であると思われる。人や動物が住む適地条件を鑑みて見れば理解できることである。増穂町・旧甲西町、櫛形町、白根町、八田村なども十分に牧地としての条件を満たしていると考えられる。

 






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最終更新日  2021年12月27日 13時46分44秒
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