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2021年12月27日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室
甲州財閥の勃興
 甲斐国は東山道養蚕地帯に属している。この養蚕地帯は幕末の開港によって、急激な変貌をとげていった。幕末維新期の甲府盆地は、おおまかにみて東部は養蚕地帯(東山梨・東八代郡)、中西部は綿作地帯(中巨摩・南巨摩郡北部)、北西部は米作地帯(北巨摩郡)と三つの経済的性格の果なる地域に分けられ、これに甲斐絹や郡内織物の東部の地域が接続している。
 安政6年(1859)の日米通商条約の締結にはじまる横浜の開港は、甲州商人に大きな影響を与えることになった。それは甲斐が横浜に割合に近いということもひとつの理由であるが、なんといっても貿易の中心が、外国商人の需要が多かった生糸や蚕種にあったことが、投機的冒険的な商人たちの動きをいっそう活発化していった。甲斐の山を越えて生糸を運ぶ甲州商人たちは、新しい時代への移り変わりを感じながら、草木がなびくように横浜へと向かったのである。
 ところで明治20年代末になると甲州財閥の名が浮かび上がってくる。これは甲州(山梨県)出身の一群の事業家を総称したものであり、三井・三菱・住友財閥などとはちがい、系統や系列はまったくない。甲斐はまさに一国天領であり、藩主のような中心的存在がなかったために、政治上の藩閥もつくられず、型破りの野武士のような経済的集団がつくりあげられていった。こうした郷党意識で結ばれた甲州財閥は、やがて明治から昭和にかけて財界で一大勢力を占めるような実業家を輩出した。その代表的な人物には若尾逸平や雨宮敬次郎、根津嘉一郎らがあげられる。





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最終更新日  2021年12月27日 14時28分54秒
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