カテゴリ:山梨の歴史資料室
「清和源氏の全家系」
…清和天皇-陽成天皇-元平親王-経基-満仲-頼信-頼義-義光-
『定本甲斐源氏系図』
…清和天皇-貞純天皇-源経基-満中-頼信-頼義-義光-
山梨ではこの『定本甲斐源氏系図』が多く用いられている。陽成天皇を祖とすることを嫌う理由は以下述べる理由があるからである。
二、清和源氏の祖 陽成天皇
陽成天皇は清和天皇の第一子である。元慶元年(877)正月三日、九歳で即位。藤原基経が摂政に就任した。陽成天皇が十六才の時、宮中で嵯峨源氏の源益が殴り殺されるという殺人事件が起きた。史料を検証してみると犯人は自ずと浮かび上がってくる。摂政基経はその責任を取ることを天皇に強要して退位に追い込む。当時の史料では陽成天皇が「乱国の主」、「悪君の極み」などと呼ばれていることがわかる。これが陽成天皇ではなく一代繰り上げて清和源氏と呼ぶことなる。
三、元平親王陽成天皇が不名誉なかたちで退位したので、その系統から皇位を嗣ぐことはなかった。しかし経済的には裕福で生涯弾正尹・式部卿などを歴任(親王任官)位階も三品を与えられた。元平親王の子経基も王号をあたられた。
四、清和源氏の初代事実は陽成源氏であったにもかかわらず、これを清和天皇と偽称したため、いくつかの疑問が生じた。清和天皇の第六皇子貞純新王がこの系統の中に含まれたため、生没年があわなくなったのはその一例である。 そして事実に於いて基平親王の子であった経基王を貞純親王の子であると系図を偽造したため、経基王の没年も不明確になり、ひいてはその生涯もまた矛盾に満ちたものとなった。承平八年(938)経基王は武蔵介に任じられた。武蔵国の国司の次官である。遙任ではなく赴任した。経基王は多くの財産を築き上げるために激しいばかりの徴税・収奪を実施した。その結果安達郡司武蔵武芝らの徴税される側から痛烈に反抗されたのである。 この時、下総国豊田荘の豪族平将門が調停にたった。やがて和解が成立。小心ものの経基王は自分が襲われると思い、京都に逃げ帰り「将門、謀叛の企、必定なり」と報告してしまった。取り調べの結果将門の謀叛は無実と知れた。経基王の臆病ぶりは一度に世間にひろがった。直後本当に将門が叛乱した。《天慶の乱》である。とたんに、経基王の評価が逆転した。やがて将門追討軍が編成されたとき、副将の地位を与えられたが、直接戦うことはなく、すでに田原藤太と平貞盛との連合軍が将門を討ち取っていた。それでも経基王の武勇は世上に喧伝され《天性、弓馬に達し、武略に長ず》ということになった。 こうして清和源氏は部門の家柄ということになった。この時期には清和源氏は存在しない。基経王が皇族を去り、晩年臣籍の降下し、源姓を賜る。清和源氏の成立である。
五、源満仲摂関政治を布いて財務の人権を掌握していた藤原氏北家は本来武力を持たない公卿であった。政権維持のために一定の武力を必要としていた。この役を引き受けたのは、清和源氏であり、経基王の跡を嗣いだ満仲であった。 満仲は数多くの受領を歴任して巨富を得た。満仲は《摂津国河辺郡大神郷多田を本拠として、《多田源氏》となった。五弟満快の系統は、多く信濃国に繁栄した。
六、源頼光三代の天皇の外戚として権勢をふるった藤原道長に仕え、道長の新築祝いのときに、家具調度の一切を献上して世人を驚かせた。
七、源頼信多田満仲の三男で頼信が清和源氏の系統を継承した。宮廷武家で早くから東国に目を向けていた。長元元年(1028)に起こった平忠常の乱を平定した。
八、源頼義すでにして頼義は東国の棟梁であった。さらに東国の覇権を奥羽両国に及ぼそうと図った。かくして《前九年の役》が始まった。苦戦でようやく勝利を収めたものの、奥羽に於ける覇権は得られず、野望は宿題として子孫に残された。頼義の弟頼清は信濃源氏になった。
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最終更新日
2022年01月02日 15時30分05秒
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