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2022年01月02日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

  源義光(残忍酷薄の心なきもの)

 

 頼信の三男義光は、長兄義家の八幡太郎、次兄の加茂次郎という例に従って新羅三郎と名乗った。けだし、大津園城寺の新羅大明神の社壇で元服したからである。母は二人の兄と同じ上野介平直方の娘であった。

 永保三年(1083)頃、ようやく左兵衛尉になっていた。時に三十九歳である。この時後三年役が起こった。長兄義家が陸奥国で苦戦清原一族と戦い苦戦を重ねていた。このことを京都にいて知った義光は、すぐ上奉して身暇を乞うた。しかしこの戦いは義家の私闘であると見做されていたので、義光は暇を与えられなかったが、義光には暇は与えられず、出京の許可なく義家の軍陣に馳せ参じた。兄義家は感涙して喜んだ。また、義光は豊原時元に師事して笙曲を学んだ。『奥州後三年記』には前述の他に、この時元の子時秋に義光が足柄山で秘曲の伝授をしたという挿話がある。

(この寛治元年には時秋は生まれていない…『源氏と平氏』渡辺保氏著)

 後三年役終了後、義光は京都に戻った。身暇の件については不問に付された。その後義光は、まず左衛門尉に返り咲き、続いて右馬允、さらに兵庫助と歴任してやがて刑部丞に昇進した。

 その時一つの事件が起こった。六条修理大夫藤原顕季との間に訴論が持ち上がった。顕季の修理大夫は従四位下で義光の刑部丞は六位である。藤原顕季は院政を敷いた白河法皇の近臣であった。義光はこの訴訟で勝訴した。

 その内容は陸奥国菊田荘が義光の領地であるとの主張であった。押領を図ったのである。白河法皇の裁決内容は

「このたびの訴訟のこと、汝(顕季)に理あることは明白なり、汝の申すところ、まことにいわれあり。されど我思うに、その荘を去りて義光に取らせよかし」

というものである。法皇は

「義光は夷のような心なき者なり」

として義光に顕季の土地を与えることを諭した。顕季は法皇の言に従い、義光に譲状を与えた。義光は「義光」と書いて差し出した。これで主従関係は成立したが、義光は主顕季に従うことはなかった。その後、顕季の身辺を義光の随兵が確認された。

この時、義光は「館の刑部卿殿」あるいは「館の三郎」と呼ばれていた。

 五十台の後半になったころ、受領の職にありつき、常陸介(国司次官)に任じられた。遙任せずに現地に赴任した義光は、その地の大豪族大掾家と手を結んだ。大掾家の娘を嫡男義業の妻に迎え、佐竹郷に館を構えた。この間義光は勢力を伸ばし、常陸北東部一帯に定着する。佐竹郷、大田郷、岡田郷、武田郷(勝田市武田)などがそれである。常陸介の任期が終わると嫡男義業を残した。これが常陸源氏として繁栄する。

 嘉承元年(1106)六月頃、常陸国内で合戦があり、相手は義家の三男、義国だった。義光は息子義業の嫁の実家である常陸大掾家と結んで、義国に立ち向かった。合戦 の内容は不詳である。

 常陸を去った義光は、京都に立ち戻り除目を待つ間、近江円城寺に住む。

 やがて義光が補任されたのは甲斐守であった。当時多くの貴族が補任されても任地に赴任することなく、遙任と称して目代を差遣していたのがこの甲斐国である。義光は遙任することなく甲斐国司としての職務を果たしたであろう。果然甲斐国内にいくつもの義光の私領が成立し、一条郷、上条郷、下条郷、板垣郷、吉田郷、青木郷、岩崎郷、加々美郷、長坂郷、大蔵郷、田中郷、泉郷、等等がそれである。それらの諸郷のうちのあるものは立荘されて荘園になっていった。加々美荘、逸見荘、甘利荘、塩部荘、石和御厨、原小笠原荘、一宮荘、八代荘、奈胡荘等がそれである。

 (この部分は史料が見えない)

 

十、武田義清 (二宮系図…甲斐国の目代、青島下司)

 甲斐国における義光系の所領を伝領したのは義光の三男武田冠者義清だった。かれは市河荘を根拠とした。町内平塩の岡は彼の館址だと伝えられている。

 義光の子は常陸に嫡男義業、近江国に次男義定を配置する。甲斐に対する三男義清の配置は結果的そうなっただけで、義光がたてた計画ではなかった。もともとは義清は常陸武田郷を配分されて武田冠者と名乗っていた。

 ところが大治五年(1130)、その武田郷付近で濫行事件をおこし、甲斐市河荘に配流されたのである。まさに偶然的であった。このとき義清は武田郷にちなむ武田姓をひっさげて、甲斐に移り住んだのである。

 

 なお、義清が甲斐国で有名になった《武田》の名を常陸から持っていったように、後に信濃国で有名になる《小笠原》の名を甲斐国から持ち去ったのは、義清の子清光の三男遠光である。《小笠原》のちいう名は、本来甲斐原小笠原荘(櫛形町小笠原)に由来していたのである。

 甲斐国の任期を終えて再び近江円城寺に帰り住んだ頃、義光はすでに六十歳を越えていた。朝廷では義光に刑部少輔の破格の職を与えられた。しかし義光はとんでもない野望を抱いていたのである。それは源家の惣領の地位を要望したのである。すでに嘉承元年(1106)八幡太郎義家はこの世を去っていた。その嫡男義宗は死去、次男義親は西国で暴れ回って泰和の乱を起こし、朝廷の追討を受ける身になっていた。こうして源家の惣領になったのは義家の四男義忠である。

 『尊卑分脈』には義光が「甥判官義忠の嫡家相承、天下栄名を嫉んだ」としており、『系図纂要』は「叔父義光、欝憤を含み」としている。そして後代に成立した『続本町通鑑』は「叔父、義光(義忠)の声価を忌む」と解釈している。 天仁二年(1109)二月三日の夜、義忠が郎党の刃傷に遭った、義忠は二日の後の五日に絶命している。

ところが『尊卑分脈』には(義光が)「郎党鹿島冠者を相語らい、義忠を討たしめおわんぬ」とあり、『続本町鑑』には(義光が)「密かに力士鹿島三郎をして、義忠を刺殺せしむ」としている。自分の郎党を義忠の朗從とし、油断を見すまして暗殺させたのである。そして義忠を暗殺させた鹿島冠者を義光は極めて残忍な方法で殺したのである。

 義忠暗殺の任を果たした鹿島冠者は、その夜のうちに三井寺に馳せ帰り、ことの由を義光に報告した。義光は一通の書状を冠者に書き与えて、弟の僧西蓮房阿闍梨快誉のもとに行かせた。快誉に送った症状には、冠者を殺すように書かれていたらしい。兄からの書状を読んで、快誉はこれに従い宿坊の裏手に深い穴を掘っておき、冠者を捕えて、これに入れ、上から土を被せて埋殺したのである。(『尊卑分脈』)

 奸謀を尽くしたものの、ついに源氏の惣領にはなれなかった義光は大治二年(1127)十月二十日に死んだ。時に八十二歳。大往生の人だったと伝えられる。つまりは悪い奴ほどよく眠るということであろうか。

 

11、源清光

 『長秋記』(権中納言源師時の日記)大治五年(1130)十二月三十日条に、この日朝廷で裁決された案件の一つとして 常陸国司申す。住人清光濫行のこと

 

 (【濫行】らんこう。…妄りな行ない。不都合な行ない。) 

 

 大治二年、新羅三郎義光はついに死んだ。この前後の頃、常陸武田郷に本拠を構えていた孫黒玄太清光は、叔父佐竹義業らの援助もあって周辺に勢力を張り、吉田神社・鹿島神社などの社領まで掠領するようになり、周辺の豪族にも恐れられ存在になっていた。『尊卑分脈』の清光の項にはたしかに、甲斐国市河荘の配流とある。やがて義清・清光父子は、やがて甲斐国岳田の地に居を卜した。甲斐に移り住んだ義清は相変わらず常陸武田郷に縁由する武田冠者の名乗りを続けたらしい。

《【配流】はいりゅう、はいる。…流罪に処すこと。罰せられて、遠い土地に追いやられること。》






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最終更新日  2022年01月02日 15時33分18秒
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