2292572 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2022年01月02日
XML
カテゴリ:山梨の歴史資料室

武田義清 (二宮系図…甲斐国の目代、青島下司)

 甲斐国における義光系の所領を伝領したのは義光の三男武田冠者義清だった。かれは市河荘を根拠とした。町内平塩の岡は彼の館址だと伝えられている。

 義光の子は常陸に嫡男義業、近江国に次男義定を配置する。甲斐に対する三男義清の配置は結果的そうなっただけで、義光がたてた計画ではなかった。もともとは義清は常陸武田郷を配分されて武田冠者と名乗っていた。

 ところが大治五年(1130)、その武田郷付近で濫行事件をおこし、甲斐市河荘に配流されたのである。まさに偶然的であった。このとき義清は武田郷にちなむ武田姓をひっさげて、甲斐に移り住んだのである。

 

 なお、義清が甲斐国で有名になった《武田》の名を常陸から持っていったように、後に信濃国で有名になる《小笠原》の名を甲斐国から持ち去ったのは、義清の子清光の三男遠光である。《小笠原》のちいう名は、本来甲斐原小笠原荘(櫛形町小笠原)に由来していたのである。

 甲斐国の任期を終えて再び近江円城寺に帰り住んだ頃、義光はすでに六十歳を越えていた。朝廷では義光に刑部少輔の破格の職を与えられた。しかし義光はとんでもない野望を抱いていたのである。それは源家の惣領の地位を要望したのである。すでに嘉承元年(1106)八幡太郎義家はこの世を去っていた。その嫡男義宗は死去、次男義親は西国で暴れ回って泰和の乱を起こし、朝廷の追討を受ける身になっていた。こうして源家の惣領になったのは義家の四男義忠である。

 『尊卑分脈』には義光が「甥判官義忠の嫡家相承、天下栄名を嫉んだ」としており、『系図纂要』は「叔父義光、欝憤を含み」としている。そして後代に成立した『続本町通鑑』は「叔父、義光(義忠)の声価を忌む」と解釈している。 天仁二年(1109)二月三日の夜、義忠が郎党の刃傷に遭った、義忠は二日の後の五日に絶命している。

ところが『尊卑分脈』には(義光が)「郎党鹿島冠者を相語らい、義忠を討たしめおわんぬ」とあり、『続本町鑑』には(義光が)「密かに力士鹿島三郎をして、義忠を刺殺せしむ」としている。自分の郎党を義忠の朗從とし、油断を見すまして暗殺させたのである。そして義忠を暗殺させた鹿島冠者を義光は極めて残忍な方法で殺したのである。

 義忠暗殺の任を果たした鹿島冠者は、その夜のうちに三井寺に馳せ帰り、ことの由を義光に報告した。義光は一通の書状を冠者に書き与えて、弟の僧西蓮房阿闍梨快誉のもとに行かせた。快誉に送った症状には、冠者を殺すように書かれていたらしい。兄からの書状を読んで、快誉はこれに従い宿坊の裏手に深い穴を掘っておき、冠者を捕えて、これに入れ、上から土を被せて埋殺したのである。(『尊卑分脈』)

 奸謀を尽くしたものの、ついに源氏の惣領にはなれなかった義光は大治二年(1127)十月二十日に死んだ。時に八十二歳。大往生の人だったと伝えられる。つまりは悪い奴ほどよく眠るということであろうか。

 

11、源清光

 『長秋記』(権中納言源師時の日記)大治五年(1130)十二月三十日条に、この日朝廷で裁決された案件の一つとして 常陸国司申す。住人清光濫行のこと

 

 (【濫行】らんこう。…妄りな行ない。不都合な行ない。) 

 

 大治二年、新羅三郎義光はついに死んだ。この前後の頃、常陸武田郷に本拠を構えていた孫黒玄太清光は、叔父佐竹義業らの援助もあって周辺に勢力を張り、吉田神社・鹿島神社などの社領まで掠領するようになり、周辺の豪族にも恐れられ存在になっていた。『尊卑分脈』の清光の項にはたしかに、甲斐国市河荘の配流とある。やがて義清・清光父子は、やがて甲斐国岳田の地に居を卜した。甲斐に移り住んだ義清は相変わらず常陸武田郷に縁由する武田冠者の名乗りを続けたらしい。

《【配流】はいりゅう、はいる。…流罪に処すこと。罰せられて、遠い土地に追いやられること。》

 

 伝説によると清光は光長・信義の二児を伴っていたという。

家督を嗣いだのは信義で、本拠武田の地を領して武田太郎信義と名乗った。

光長は逸見荘の領主となり、逸見太郎光長と称した。

 信義の長男有義は家督を嗣ぐべきものと期待されたらしく、武田太郎と名乗って甲斐武田の地にあった。

次男忠頼は一条郷(甲府市蓬沢?)を分給されて、一条次郎と称した。

三男兼信は板垣三郎と名乗り板垣郷(甲府市善光寺町)の領主、そして末子の石和五郎信光は石禾(石和)を領した。

信光は北条時政から側面援助を受け、安田を凌いで甲斐武田党の棟梁になる。

平家全盛の二十年間武田党では信義の嫡男有義や信義の弟加賀美遠光の子秋山光朝などは平家に臣従して厚い信頼を得ていた者もいた。

 

 治承四年(1180)に武田党は以仁王の令旨を受けた。以後四カ月間武田党は沈黙を守る。伊豆では源頼朝が挙兵した。緒戦の山木攻めでは勝利したが、続く石橋山の合戦では散々な敗北を喫する。

 甲斐武田党の安田義定が与党の甲斐工藤氏や市河氏などと富士北麓を移動中に平家方の大庭景親の弟俣野五郎景久らの軍勢と衝突した。これは『吾妻鏡』にあるような頼朝救出を目的にしていたとは思われない。

 九月十日甲斐武田党は挙兵した。頼朝の救出を目的としたが、すでに頼朝は逃れていた。武田党は最初駿河国進撃を変更して信濃平氏の討伐に方向を転換して、伊那谷の大田切城に殺到、城主菅冠者は自刃して果てる。その後も進撃は続き信濃半国を勢力下に置き、甲斐逸見山の谷戸城に帰り着いたのは同十五日であった。谷戸城にすでに北条時政・義時父子が参着していた。頼朝の本軍に合流させるためである。同二十四日には土屋宗達が第二の使者として石和信光の本領石和御厨に来着した。この時点では頼朝軍より武田党の勢力の方が上だった推察できる。

筆註

 《【御厨】……みくりや。古代・中世の神領。主として供膳・供祭の魚介などを献納する非農業民を支配する過程で、成立した。元来、供物を調進する屋舎をさしたが、のちその神領を意味するようになった。内容的には荘園と等しく、史料的には伊勢神宮と賀茂社に限られているが、特に前者は伊勢を中心に全国的に分布し、その数は数百ケ所に及んだ。…『角川日本史辞典』

  …… 神饌を調進する屋舎。御供所。

  …… 古代・中世、皇室の供御(くご)や神社の神饌の料を献納した、皇室・神領所属の領地。古代末には荘園の一種となる。》…『広辞苑』

 十月十三日、武田党は行動を開始、同十八日武田党は頼朝軍と合流した。富士西麓や黄瀬河の戦いでの源氏は大勝利する、これは武田党の力によるところが大きい。その翌日の論功行賞で、武田太郎信義は駿河守護に、弟の安田三郎義定は遠江守護に任じられる。頼朝の勢力圏の最先端の地である。富士河合戦の総大将は頼朝ではなく武田党であった。(『玉葉』武田党四万余)

 これより先、『玉葉』の十月八日の条には、高倉宮(以仁王)必定現存、去んぬる七月に伊豆国に下着す。当時(今)甲斐国に御座という風評を記している。宇治河で死んだはずの以仁王は生きていて今は甲斐国武田党のもとにいるというのである。

 指揮権を確立したい頼朝は上総介広常を寿永二年(1183)十二月に誅殺する。

 武田党の勢力削減を目的にした頼朝の陰謀が開始される。治承五年(1181)京都の下級貴族三善康信が《世情のうわさ》として、先月七日、武田信義が頼朝の追討使に任じられることになったと、頼朝に伝える。頼朝は直ちに信義を召還して、厳しい取り調べを行なった。信義は起請文を書いて事なきを得たが、頼朝の疑念と策謀は静かに進行していた。

 






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2022年01月02日 15時58分38秒
コメント(0) | コメントを書く
[山梨の歴史資料室] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X