カテゴリ:山梨の歴史資料室
一条忠頼謀殺元暦元年(1184)六月十六日、信義の後嗣ぎの一条次郎忠頼が幕府営中の頼朝の面前に於て誅殺する。直後、忠頼の家人であった甲斐小四郎大中臣秋家は、歌舞音曲の才を愛でられ、頼朝の側近に取り立てられた。 忠頼の長男、飯室禅師をすでに僧籍にいたため縁座を免れたが、次男、甘利行忠は鎌倉で召し籠められ、僧籍に入って甘利禅師と称したけれども、日立国に配流され、翌年配所において誅殺される。 元暦元年五月一日、頼朝が下知を下す。「故清水冠者議高の残党、甲斐・信濃において、反幕の陰謀あり、ただちに討滅すべし』。甲斐には小笠原長時、足利義兼の両将に、多数の御家人が付けられた。武田党への残党討滅軍の下知はなかった。そして六月前述の一条忠頼の謀殺である。この事件から二カ月後の八月八日、三河守範頼を将とした平氏追討軍が鎌倉を出発、主だった諸将のうちには忠頼の弟武田兵衛尉有義らの姿があった。元暦二年(1185)正月六日の頼朝の下文、
石和信光
甲斐の殿原のうちは、いさわ殿(石和信光)、かがみ殿(加賀美遠光)、ことにいとをしく申させたまふべく候。かかみ太郎(秋山光朝)は二郎殿(小笠原長清)の兄にて御座候へども、平家に付き、また木曾に付きて、心ふぜん(不善)につかひたりし人にて候へば、所知など奉るべきには及ばぬ人にて候。ただ二郎殿いとをしくて、これをはぐくみて候ふべきなり。
武田信義没。
この間武田信義は哀れであった。文治二年(1186)三月九日、信義は死んだ。年五十九。
板垣兼信
武田党の棟梁は三男、板垣三郎兼信のはずであったが、頼朝は兼信を好まず、「お前なんか死んでしまってもよい」とまで言い放っている。兼信は頼朝の真意には気づかず、頼朝により所職没収された。建久元年(1190)八月、後白河法皇の願所だった円勝寺領遠江国質侶荘において不当を働き、つきに「遺勅以下の積悪」ということで、所職没収の上に隠岐島に配流されることとなった。兼信はこれまで質侶荘(金谷町志登り呂)の地頭であった。兼信は武田党と頼朝軍は同盟関係にあるとの認識があり、頼朝は武田党は配下であると考えていた。
武田太郎有義
彼の場合は、平氏全盛の頃、平清盛の嫡男重盛の御剣役を勤めた前科があった。頼朝は残酷にもその任を満座において頼朝に対して勤めるように強要したのである。文治四年(1188)三月十五日、すでに平氏は滅亡していた。この日鶴岡八幡宮において、梶原景時宿願の大般若経の供養の儀式が挙行された。頼朝は武田有義を面前に呼んで御剣役を命じた。有義はすこぶる渋った。すると頼朝は御剣役を頼朝の側近結城朝光に命じた。居たたまれなくなった有義は遂電したと伝えられる。その後有義は一般御家人の処遇となる。武田党の棟梁は有義の叔父安田義定が台頭していた。
安田義定、安田義資
建久四年(1193)十一月二十三日、鎌倉永福寺の薬師堂供養の儀式に参列した義資は、女官に艶書を投げ与えた。これを伝え聞いた景時が頼朝に告げた、武田党の衰退を推し進める頼朝は、この日の夕方、義資は頼朝の下知により加藤次景廉の手により首を切られ、獄門台に梟られた。直後義資の父義定も頼朝の叱責を受けた。
建久四年の十二月五日、頼朝は義定の所領をことごとく没収、遠江国の浅羽荘はの地頭職は加藤次景廉に与えられた。建久五年(1194)八月十九日安田義定は梟首された。年六十一歳。
武田有義
頼朝の厚い信任を受けていたと思われていた梶原一族の全滅される。すでに正治元年(1199)頼朝は死んだ。二代将軍は頼家となる。武田党の棟梁有義の名が最後に現れるのは正治二年正月二十八日である。甲斐に末弟石和信光が鎌倉に馳せ参じて、兄武田兵衛有義、梶原景時が約諾を請け、密かに上洛せんと欲するの由、その告げを聞くによって、子細を尋ねんが為に、かの館発向するのところ、先立って中言あるかの間、かねてもって逃亡し、行方知らず。室屋においては、あえて人なし。ただ一封の書あり。披見するの所、景時が状なり。同意の条もちろんと云々。 書状は景時が武田党の棟梁武田有義を次代の将軍に擁立するというものであった。有義は行方不明とされているが、『系図纂要』では正治二年(1200)八月二十五日に有義は死んだという。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年01月02日 16時01分12秒
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