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2022年01月02日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

清和源氏の甲斐入国(頼信が甲斐守となる)

 

(『武川村誌』第三章中世 第一節 甲斐源氏の発祥)《一部加筆》

 

清和天皇の皇子貞純親王の男経基王が応和元年(九六一)六月、姓源朝臣を賜って臣籍に列した。源経基の子満仲は武略に富み、多くの家の子、郎党を養って清和源氏の基礎を固めた。満仲の子が頼信である。頼信は人となり剛果明決、兵法に達し、藤原道長に仕えて信任を得た。長元二年(一〇二九)、甲斐守に任ぜられ、嫡男煩義をはじめ、多くの家の子、郎党を従えて入部し、甲斐の民庶から貴種と仰がれたが、施政公平、恩威(などが)並び行われ民は悦服した。公務の暇、郎党を督して逸見郷の広大な無主地を開墾し、私領とした。

後年、頼信の四世(曽孫)源義清が甲斐に配流され、やがて逸見郷の祖先開拓の故地に土着するのは、偶然ではなかったのである。

 

《筆註、不確かな記載》

 この村誌の記載事項は一考を要する。確かな資料を持たない記載事項も多くみられる。

 

頼信が忠常の乱を平定する(『武川村誌』第三章中世 第一節 甲斐源氏の発祥)《一部加筆》

平安朝中期、十~十一世紀のころ、東国では武士たちが互いに抗争をくりかえしていた。承平~天慶(九三五-九四〇)にまたがる平将門の乱からおよそ一世紀後の長元元年(一〇二八)、当時上総介・下総権介として二総の間に雄視していた平忠常は、勢いに乗じて朝命を重んぜず、あるいは朝貢を停め、あるいは徭役を供しなかったが、同年六月に至り、ついに兵を挙げて上総の国府を陥れ、さらに安房の国府を襲って国守惟忠を焼き殺し、房総半島に幡据して反国家の閾争を巻き起こした。

朝廷では、はじめ検非違使平直方を追討使に任命した。直方は東海・東山二道の兵を率いて討伐に当たったが、容易に平定することが出来ず、翌年は北陸道の兵をも加えたが二カ年を費やしてなお平定出来なかったので、長元三年(一〇三〇)に至って終に召喚され、忠常の軍は完全に房総半島を占領してしまった。そこで朝廷は同年九月、甲斐守頼信に追討使を命じた。

長元四年(一〇三一)四月、頼信が準備を終えて発向しようとしたとき、図らずも忠常が頼信の所に投降して来た。頼信の武威に屈したのである。降人忠常は頼信に伴われて上京の途中、重病を発して六月に死亡したので、頼信は忠常の首級を捧げて凱旋復命した。

頼信は一兵を動かさずして忠常を降し、久しい争乱が頼信の武威によって終息したので、これが東国の在地領主層に与えた影響は大きく、頼信の声望はいよいよ高まった。この時を境に、従来桓武平氏が握っていた東国の指導権は、清和源氏の手に移ったのであった。

頼信は功により美濃守に任ぜられて甲斐を去るが、甲斐在任中の施政は領民を懐け、後年甲斐国が頼信の子孫、甲斐源氏により制圧される素地は、この時に築かれたといえよう。

 

源義光の東国下向

 

新羅三郎義光頼信の嫡男頼義は、少時より武略に富み将士を愛し、父に劣らぬ将帥の器と仰がれた。平直方は請うてその女を頼義に嫁がせた。直方の女の腹に三人の男子があった。太郎が義家、二郎が義綱、三郎が義光である。義家は源氏の総領として、氏神石清水八幡宮で元服して八幡太郎と名のり、義綱は賀茂明神で元服して賀茂二郎と名のり、義光は園城寺の鎮守、新羅明神で元服して新羅三郎と名のった。

義光の生年について、久しく天喜五年(一〇五七)とされていたが、最近の研究によって寛徳二年(一〇四五)の誕生と改められた(小学館の国語大辞典による)。  

義光は幼時より弓馬の道に励み、学問、音律に秀でていた。成人後、右馬允、左衛門尉を経て左兵衛尉の任にあったころ、後三年役が起こり、討伐に赴いた兄義家は苦戦に陥った。

寛治元年(一〇八七)八月、義光は兄を助けようと官を辞して戦場に赴き、義家とともに敵の金沢柵を陥れて乱を平定し、義家は従軍将兵への行賞を奏請した。しかし朝廷はこれを私戦として行賞の沙汰がなかったので、義家は私財を頒って将兵慰労し、感謝された。

 

義光が東国に所領を獲得する

 

義光は頼義の三男であったため、父の伝領も、兄たちに比べて極めてわずかであったらしい。後三年役ののち、刑部丞に進んだが、当時、この官は閑職であったので、義光は不満に堪えず、在職のまま東国に下り、所領の獲得に乗り出した。

最初に着目したのは、陸奥と常陸にまたがる菊田庄であった。この庄の所有権をめぐり、白河法皇の寵臣六条顕季と対立し、顕季は義光の非を法皇に訴えて裁決を願った。ところが法皇は顕季を諭して、「お前は数十の庄園を持って富裕であるが、義光にとっては菊田の一庄が懸命の地である。いま、理に従って義光から取り上げれば、えびすのような義光は、いかなる報復手段をとるかしれない、菊田庄は義光に与えるがよい」と。顕季は仕方なく義光に譲った。義光は喜んで自身の名簿(みようぶ)を顕季に奉り、臣従を誓った。

ある夜、顕季が数名の供を従えて外出したところ、しばらく行くと、数人の武者が現れて顕季の牛車を取り巻くようにしてつけて来る。あまりの恐ろしさに供の者に尋ねさせると、六条殿(顕季)が夜中警固もなく外出されるので、刑部丞殿の命令で護衛申している。との返事。顕季は法皇の叡慮の深さに感泣した(『十訓抄』)

それ以後、義光は菊田庄を拠点に常陸に居すわり、刑部省に出仕しない。堪りかねた朝廷では勅命をもって上京を促したが、義光は動かない。長治二年(一一〇五)二月八日、関白忠実は、その日記『殿暦』に次のように記した。

「源義光が、去る康和五年(一一〇三)、刑部丞の職にありながら地方に居住し、勅により上京を命ぜられたにかかわらず、今年になっても未だ上京せず、支障を申し立てて猶豫を請う返事を送っているように思う。」

と。さきに法皇が、義光は「夷のようなる心もなき者なり」と仰せられたように、常陸での義光は、日々刑部丞の官職とは裏腹の乱行を働いていたらしい。

藤原為兼の日記『永昌記』の嘉承元年(一一〇六)六月十日の条に、

「常陸国合戦の事、又東宮大夫に宣下す。義光並びに平重幹らの党は東国に仰せ、これを召し進めしむべし。義国は親父義家朝臣をしてこれを召し進めしむべし。」

とある。義国は、義光の兄義家の三男で、故あって母の生家下野足利基綱の邸に預けられているうち、不法にも常陸の義光の所領に攻め込んだので、義光も常陸大擦平重幹の援助を得て応戦した。これが『常陸国合戦』である。朝廷は両軍の首脳の逮捕を命じたのであるが、義光・重幹の逮捕は東国の国司らに命じ、義国の方はその父義家に命じた。この時、病床にあった義家は憂悶のあまり翌七月四日六十八歳で病死する。

義国の長子義重は上野に住んで新田氏を興し、次子義康は下野に住んで足利氏を興した。

 

義光が二子を常陸に土着させる

 

義光が常陸国に所領を獲得しようと考えたのはなぜであろうか。義光は若い時分から常陸国の豊かなことを聞かされ、あこがれていたと思われる。延長五年(九二七)に撰進された『延喜主税式』によれば、常陸国の正税・公廨は各五〇万束で、陸奥国の正税六〇万余束、公八○万余束に次ぐ数量である。しかし陸奥国は後世の磐城・陸前・陸中・陸奥を包含する超大国であるから、たんなる一国としては常陸が全国で第一の生産国とみられよう。

義光はここに注目し、まず菊田庄を手に入れ、次に常陸国へ進出しようと那珂郡の実力者吉田清幹への接近をはかったのであった。清幹は常陸大橡致幹の弟で、那珂川河岸一帯はもとより、常陸三之宮吉田神杜を支配する実力者であった。

義光は清幹の女を長男義業の妻にむかえて縁戚関係を結び、義業の嫡男昌義を久慈川流域の佐竹郷に拠らせ、佐竹冠者と名のらせた。

義光は、ついで三男義清のために清幹に強請し、那珂川の北岸、郡武田郷の荒野を取得した。ここにおいて義清は武田郷に土着し、冠者と名のることになったのである。

 

義清の常陸武田郷経営(茨城県)

 

義清の武田郷(常陸)経営

武田郷は、那珂川北岸の低平なはんらん原と、北方から延びてきた山地の末端が那珂川の側浸食によって急崖を彩造る台地とから成る。

武田の郷名は、台地々形によるものらしい。低平なはんらん原から見上げる崖上の耕地は、まさに高田(たけた)である。武田は高田の当て字である。JR常磐線が水戸駅から北進して那珂川鉄橋を渡れば勝田市である。市内の自衛隊施設に近く武田溜(ほり)があり、溜と常磐線をはさんでうっそうとした漱尾神杜の森がある。森の裏手は急崖をなし、この一帯が武田義清館跡である。

《清光誕生・義光死去》

武田郷に土着した義清は武田冠者と名のり、一族源兼宗の息女を娶って天永元年(一一一〇)六月、嫡男清光を儲けた。清光は武田源太と名のった。清光は幼にして器量あり、祖父義光も心から満足したが、義光は大治二年(一一二七)十月、八十三年の生涯を閉じた。義光は、常陸に所領を獲得し、子孫を土着させるために、多年謀略を弄した。 

元来、土着は在地の豪族らの勢力ヘの割り込みである。当時、那珂郡は吉田氏の勢力下にあったとはいえ、それは絶対的なものではなく、鹿島大官司の勢力も及んでいた。清幹が義光に屈して武田郷を譲った際もけん制を試みたらしい。このような事情のためか、義光は鹿島氏の一族とみられる鹿島三郎を郎党としている。

武田郷に入部土着した義清は、鋭意領内の施政に当たり、領民らも義清の施政に悦服した。義清の嫡男源太清光もようやく成長し、大治元年(一一二六)ころにはさる名族の息女を娶った。この年、父に代わって京に上り大番を勤仕し、翌二年任をおえて帰国の途次、駿河の東海道手越の宿で応対に当たった才色兼備の白拍子を伴い帰り、父義清の許しを得て側室とした。

《光長・信義誕生》

奇しくも、翌三年八月十五日、清光の正室は嫡男光長を、側室は次男信義を出産したのである。

《義光逝去》

功を遂げた義光は、晩年は近江国の天台宗園城寺の寺域に開基した金光院に住んで、欣求浄土の一念に燃えて、朝夕を念仏に精進した。大治二年(一二一七)十月二十日、義光は波乱に満ちた八十三年の生涯を終えた。『後拾遺往生伝』にその臨終の模様が記されている。

廿日ニ至リ病悩平復スルヤ、俄ニ以テ沐浴シ、新衣ヲ著シテ浄席ニ居ス、  漸ク未刻ニ及ブヤ本尊ニ対シ、手ニ定印ヲ結ビ口ニ念仏ヲ唱ヘ、五色繰ヲ引キ奄然トシテ気絶ユ

 

と。悟入した居士の面目が躍如としている。

 

義清父子が甲斐に流される

(『武川村誌』第三章中世 第一節 甲斐源氏の発祥)《一部加筆》

義光の死を機に、武田郷の周辺に反武田の空気が漂いはじめた。それは吉田氏をはじめとする常陸の豪族たちが、生前の義光を畏怖していたことの反動と見るべきものであろう。

反武田の巨頭は吉田清幹の嫡男、大按盛幹である。盛幹は国衙在庁官人中で国司(常陸介)をしのぐ権力を誇る実力者として、多年鬱積した武田氏への恨みを晴らすは今を措いてなし、と武田郷の回復策を謀議したのである。

大治五年(1130)冬のある日、武田源太清光は武田郷と隣郷の境界設定に立ち会い、相手方の計画的な挑発に乗ぜられて暴力さたを起こし、待ち構えた大橡方のために逮捕され、常陸国衙では清光を乱行のかどで太政官へ告発したことが、当時の皇后宮権大夫源師時の日記『長秋記』に次のように記されている。

大治五年十二月廿日、戊寅、晴、常陸国司、住人清光ガ濫行ノ事ヲ申ス

ナリ、子細ハ目録ニ見ユ

と、いう簡単な記事である。惜しいことに子細を記した目録が不明なために、清光濫行事件の詳細は明らかでないが、おそらく境界争いの暴行沙汰であろう。この事件の背後には常陸国司と鹿島大官司がいて、大橡側に有利な裁判が行われ、判決は翌天承元年(1131)に言い渡され、甲斐国市河庄配流と決した。

 

甲斐市河庄と義清父子 山城国法勝院領目録

 

 

甲斐国市河庄10世紀後期の安和二年(九六九)の「山城国法勝院領目録」によれば、甲斐国市河庄は巨麻、八代、山梨の三郡にわたり、計二二町九反三一〇歩の地積を有していた。精密な条里がしかれていて、条、里、山、川の地籍が明記されている。例えば「巨麻郡九条四市河里二町二反百七十四歩」のように記してある。

市河庄は『和名抄』の巨麻郡市川郷が、律令制の弛緩とともに変質して庄園化したものであることは、前記庄園目録の地籍からもうかがわれるが、後世この庄が八代郡に属するかの如く誤られた。

甲斐国志の見解

『甲斐国志』の如きも巨麻郡市川郷の注記に

市川、以知加波、今、八代郡ニ属ス、沼尾ノ西、河合ノ北ニ連続セリ、

本郡ヨリ河ヲ隔ツル地勢、宜シク八代郡ニ隷スベシ

として八代郡市川郷説に傾いている。

吉田東伍博士の見解

また吉田東伍博士は『大日本地名辞書』において、

疑うらくは中世、巨麻郡市川という郷庄名、南岸八代郡に及ぼし、遂に

此に市川の名を遺すか。此地もと平塩又は青島と云へるが、近世庄名を

転じて村名とし、又平塩寺の門前町を合併し、布川大門の称起る

と述べている。

筆者は次のように考える。巨麻郡市河庄の民が笛吹川の対岸、八代郡青島庄平塩岡付近に出作し、そこを市河庄の飛地としたが、地の利に恵まれていたため、水害などで衰えた市河本庄をしのぐに至り、遂に飛地の平塩岡の方が市河庄と誤称されるに至ったのであるまいか、と。

平塩寺と寺阿闇梨覚義

平塩寺は天平七年(七三五)に僧行基が開いた法相宗の寺で、その後衰えかけていたが、平安初期に天台宗延暦寺派とたり、次いで同宗園城寺派に属した大寺で、東郡の三枝氏開基の真言宗大善寺と肩を並べる名刹であった。

園城寺・新羅明神・義光

園城寺は、源頼信以来源家当主の帰依が厚く、頼信の子頼義は三男義光を当寺の鎮守、新羅明神で元服させ、新羅三郎と名のらせた。義光は寺内に子院金光院を開創して住居とし、その子覚義を園城寺学僧とした。覚義は天台宗の秘奥をきわめ、寺阿闇梨と崇敬された。

覚義

覚義について『尊卑分脈』の義光譜には、その七男(末子)としているが、『後拾遺往生伝』には

源義光、大治二年十月一日、病気アリト難モ念仏怠ラズ。十九日ニ至リ、

嫡子覚義並ビニ二男進士廷尉義業ニ相対シ、謂テ日ク吾明日ヲ過グベカ

ラズ、ト」

とあって、覚義を嫡男、義業を二男としている。これは、当時の貴族・武門の風として長男を出家させて家門に対する仏天の護持を祈らせたからで、系譜の上では末子に置く習わしだという。義光の父頼義も長男を出家させた。伊予阿閣梨快誉であるが、系譜上では末子となっている。

覚義は大治二年には園域寺にいて父の臨終に立ち会ったが、のち甲州市河庄平塩寺住持として一山の管理に当たっていたのである。

義清父子の蟄居

蟄居義清父子に対する太政官の判決は流刑で、流刑地は甲斐国市河庄であった。律令制の弛緩した一二世紀に「獄令」がどのように施行されたかは不明であるが、義清の実兄の寺阿闇梨覚義が住持する平塩寺の所在地、市河庄への配流は単なる偶然とは思われないのである。太政官の判官中に義清父子への同情者がいて、温情のある判決を下したのかもしれない。

市河庄の流人、義清父子の蟄居には、平塩寺主覚義の尽力で同寺の子院の一棟が充てられたことと思われる。覚義の指図により種々の便宜が与えられ、刑を終えた義清は、やがて市河庄司に任ぜられた。

「獄令」の

本犯、流スベカラザランヲ特ニ配流セシ者ハ、三載ノ後仕フルコトヲユ

ルセ

の条項の適用であった。

義清は源家の御曹司として育てられ、文武の道に達していた上、常陸武田郷での民政の経験を活かし、市河庄司としては寛義よろしきを得て、庄民の信頼と尊敬を得たのであった。義清が市河庄で詠んだと伝える歌がある。

 

いとどしく埴生の小屋のいぶせきにちどり鳴くなり市川の里

 

というもので、埴生の小屋とは土間にわらなど敷いて寝るような貧しい小屋をいう。当時の農民の生活を哀れんだ歌であろう。現在この歌碑が市川大門町の平塩岡と、昭和町西条の義清晩年の隠凄地といわれる義清神杜とに建てられ、甲斐源民の祖義清をしのばせている。

 

斐源氏逸見氏が興る 義清父子が逸見郷に移る

逸見郷とその風土

 

逸見郷は巨麻郡九郷の一で、『和名抄』には速見、のちには逸見と書いてヘミと読ませた。逸見郷の郷域は、現在の韮崎市東部、明野村、須玉町、長坂町、高根町、大泉村、小渕沢町の一帯にわたると考えられている。

逸見の語源について、古来多くの説があるが、牽強附会の説が多く、納得が得られない。筆者は、『地名語源辞典』を参考し、卑見を加えて記してみよう。

逸見は辺見とも書くように、ヘンミである。ヘンは、東京都桧原村の人里(ヘンボリ)のように、古代朝鮮語で人を意味する。逸見は人の群居する地という意味である。七世紀のころ巨麻郡に高麗人が住したことは『続日本紀』に、宝亀二年(七一六)に朝廷が甲斐ほか六カ国に居住する高麗人一七九九人を武蔵国に移した記事や、巨麻の郡名からも説明できるのである。

逸見郷の郷はサトと読む。はじめは逸見里であったが、条里の里と誤りやすいので、霊亀元年(七一五)に逸見郷と改めたといわれる。令制によれば五〇戸をもって一郷を立てる定めであった。当時の戸には郷戸と房戸があって、五〇戸一郷の場合の戸とは郷戸をいう。郷戸は房戸の幾つかの集合体で、五〇戸一郷の規定により郷を構成する各戸で

ある。家族数は平均二〇余人ほどの犬きい家族で、その内部に幾つかの房戸(家族数一〇人未満の小家族)を持っていた。したがって郷戸五〇戸を有する一郷の人口は、少なくとも一〇〇〇人はあったわけで、多少の出入りはあった。

《風土》

風土とは、土地の状態、すなわち気侯、地味など、その土地の自然環境をいう語である。『甲斐国志』に「逸見筋ハ即チ古ノ郷名ナリ、大八幡、熱那、多磨三庄トシ、坂上トモ称ス、八ツ岳ニ依リ、地高シ(中略)八ツ岳ノ南面ニ拠リ、山ニ出泉多シ。高キニ従ヒ田ニ灌クコト、自在ヲ得タリ、(以下略)」と記したのは、逸見郷の地の風土への適評であろう。

②逸見郷から逸見庄へ律令制のゆるみとともに、公地公民、班田収授の制は乱れ、郷の庄園化は急速に進んだ。『甲斐国志』は、逸見郷が崩れて藤井保、多麻、熱那、大八幡の三庄となったかのように記すが、逸見郷が崩れた跡に発生するのはまず逸見庄と藤井保で、逸見庄の内部が風土の相異により前記三庄に分裂したものであろう。

そこで史料により逸見庄について考えよう。建長五年(一一五三)の『近衛家所領目録』の中に「甲斐国逸見庄冷泉宮領内」とある。この目録に見える冷泉官というのは、三条天皇の皇太子を辞退した小一条院敦明親王とその妃、関白道長の女寛子の間に生まれた俣子内親王の宮号である。

冷泉宮領はこの間に次々と伝えられ、近衛家の庄園に戻っていたので、建長五年(一一五三)に『近衛家所領目録』が作られた際、「甲斐国逸見庄冷泉宮領」が収められたのである。

『甲斐国志』によれば、逸見郷ははじめ逸見庄と藤井保に分かれ、逸見庄は南北朝から室町・初にかけ、多麻、熱那、大八幡諸庄に分かれた。藤井の保域は穴山、小田川、駒井、坂井、中条、下条、河原部の諸村といわれる。多麻の庄域は、樫山、浅川、津金、穴平、若神子、小倉、東向、大蔵、藤田、大豆生田。熱那の庄域は村山、長沢、箕輪、小池、蔵原、黒沢、夏秋、五町田、西井山。大八幡の庄域は、塚川、渋沢、日野、長坂、白井沢、小荒問、大井森、中丸、松向、笹尾、小淵沢、片颪。

 

義清父子が逸見庄に土着する

 

市河庄司にぬきんでられ、精励その任をおえた義清に、この地に土着する気持はなかった。しかし平塩岡から北の空高くそびえる八ケ岳の山容を仰ぎ、一世紀の昔、曽祖父甲斐守頼信が荒野の開拓に力を注いだと聞く逸見庄に対する強いあこがれは、日に強くなっていった。嫡男清光の意見も義清と同じで、一日も早く逸見庄に移り、存分活躍してみたいという。

逸見庄は、摂関家所有の多くの庄園の内で、特に重要な冷泉宮領の内であったから、その在地管理に任ずる下司は、徳望と経営の才と武力を兼ね備えることが必要条件であったが、義清父子はすべての条件を満たす人物であったから、摂関家からも喜ばれに相違ない。

庄園の下司は、名義の上では庄園主(本家)の侍(さむらい)であるが、実際には庄園の現地支配の実権を握り、庄園収入の一部を庄園主に納め、大部分は下司の取得とするのが例であった。しがって数カ所の富裕な園の庄司を兼務した場合、その収入はおびただしいものがあった。逸見庄は、関白道長が最愛の孫娘儂子内親王に譲ったほどの豊かな庄園であったから、下司としても甚だ勤めがいのある任務であった。逸見庄下司として乗り込んだ義清父子は、庄の政治経済の中枢的位置にあった若神子に居館を構え、西方の七里岩片山の要害に域砦を築いて大城と名づけ、居館の要害城とした。

逸見庄に土着した義清は、さきに常陸武田郷を逐われて甲斐国市河庄

 

 

覚義は大治二年には園城寺にいて父の臨終に立ち会ったが、のち甲州市河庄平塩寺庄持として一山の管理に当たっていたのである。

義清父子の講居義清父子に対する太政官の判決は流刑で、流刑地は甲斐国市河庄であった。律令制の弛緩した一二世紀に「獄令」がどのように施行されたかは不明であるが、義清の実兄の寺阿閣梨覚義が住持する平塩寺の所在地、市河庄への配流は単なる偶然とは思われないのである。太政官の判官中に義清父子への同情者がいて、温情のある判決を下したのかもしれない。

市河庄の流人、義清父子の居には、平塩寺主覚義の尽力で同寺の子院の一棟が充てられたことと思われる。覚義の指図により種々の便宜が与えられ、刑を終えた義清は、やがて市河庄司に任じられた。「獄令」の「本犯、流スベカラザラソヲ特ニ配流セシ者ハ、三載ノ後仕フルコトヲユルセ」の条項の適用であった。

義清は源家の御曹司として育てられ、文武の道に達していた上、常陸武田郷での民政の経験を活かし、市河庄司としては寛厳よろしきを得、庄民の信頼と尊敬を得たのであった。義清が市河庄で詠んだと伝える歌がある。

いとどしく埴生の小屋のいぶせきにちどり鳴くなり市川の里






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最終更新日  2022年01月02日 16時27分17秒
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