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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年01月02日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

甲斐源氏と名門武将たち

 

 一、曲淵勝左衛門由緒書 半日閑話(大田覃)

 

○ 高祖父勝左衛門吉景、武田信虎より勝頼迄奉公仕、

甲州武川と申す谷へ住居す。

天正十年勝頼生害後、先方侍扶助信長停止に候共、

神君武川之者共一同に御扶助被下、

忍て遠州相良辺に罷座候處、同年六月信長生害有之、

甲州之国主無之、北条家より種々計策有候得共、

武川之者共同心不仕、神君御進発に依て馳参、

新府中御着陣之刻一同に被召出候。

御出馬以前信州境小沼之小屋迄落し走廻仕候。

 

○ 北条御対陣の時、

若神子口にて敵を物見可仕旨被仰出、

吉景並び彦助差物にて相圖仕、

物見首尾能甚預御感より、

武辺之模様無比類、彦助父に不劣との蒙上意候。

 

○ 曾父勝左衛門正吉(始め名彦助)、

父一同ニ被召出、甲州御発向之節、

諏訪安芸守籠城に付、

大久保七郎右衛門、柴田七九郎、武川者ども為案内被差向、

即時に城際に取詰候時、安芸守使を出し、

城内掃除致し明度可申旨に付、

両将人数引上可申様之時正吉申候は、

場所難所え城より喰留候事可有之申候得ども、

武川衆を可存候哉、

殊に小敵何事かあらんかと村々に引取候、

案の如く城兵突出急に喰留候。

武川の者取っ返し、城下音骨と申す處にて、

何も敵を討取、城兵を追込、惣勢も備直し申候。

 

○ 天正十三年真田安房守御敵に成候節、

武川の面々不残高名仕、一紙に御証文被下候。

  此御証文は曲淵一類折井市郎兵衛所持仕候。

 

○ 関東御入国の刻、吉景相州中村筋にて千五百拝領仕、吉景死後正吉跡式相繼可仕處、

 某事少々知行候得ども、武辺走廻に付格別に被下置、萬貫文にも難替候父の武功に弟

三人え分知奉願候處、願之通三人の弟え分知被成下、候。

 

○ 正吉武州鉢形にて百五十石被下、

関ヶ原之節走廻候仕、

慶長九辰年三月御加増八十被下置、

都合貳百参拾石拝領仕候。

大坂両御陣寄合並にて御供仕候。

 

○ 日六日敵少々引出刻、父子別て被入精之旨令祝着候。

  彌此節走廻候専一に候。速に聞及に無相違候。

  高々才覚尤候。恐々謹言。

   八月七日        御諱御判

                   曲淵勝左衛門殿

 

○ 右之外本多彌八郎山本帯刀連盟状壹通、

成瀬彦右衛門書状壹 通略之。

 

○ 曲淵市兵衛 入戸野又兵衛

 

  神君武川の者共一紙に御証文被下、

  御納戸折井市郎兵衛所持仕書上可申候。『萬世家譜』)

 

一、馬場三郎兵衛          閑憲瑣談(佐々木高貞)

 

 (前略)實は本国は三州、生国は甲斐にて

即ち物奉行馬場美濃守が妾腹の末子、

幼名三郎次と申す者にて候、

領主(信玄)逝去の後、世継ぎ(勝頼)は強勇の無道人

其上、大炒助、長閑斎の両奸人、国の政道を乱し、

諸氏一統疎み果候始末は、

甲陽軍艦に書記(かきしるし)したる十双倍に御座候。

されば□(長篠)の合戦の節も、先主以来の侍大将ども、

彼是の諫言を一向用られず、

美濃守を始めとして覚えの者ども大勢討死。

夫より段々備えも違ひ、終には世継も滅亡致され、

其頃私は十歳未満の幼少故に、兄にかゝり罷在候へども、

甲州の住居も難叶、信州に母方の由緒有之故、

玉本翫助が末子、八幡上総が甥等申合,三人ともに、

信州に引込、往々は中国へ罷出、似合敷奉公をも仕らんと、

年月を送り候所へに不慮難波鎌倉鉾楯にて、

難波籠城是天の与えと手筋を以て間も無く城中へ召出され、

千邑繁成が組与力となり、云々

 

一、穴山梅雪              嘉良喜随筆(山口幸充)

 

 (前略)扨穴山梅雪ハ、勝頼ヲ叛テ家康公ヘ與シ、甲府ヘノ手引ヲセント云、夫ヨヲ信

長御聞、穴山ガ分ニテ無 覚束 トテ承引ナシ。モハヤ甲府ヘハ不レ被レ帰シテ、家康公ヲタ

ノミツキ従ヒ、堺ヨリ牧方迄御出、横ニ御キレ、八幡ノ南海道ヘ御通ノ時、穴山コト家康

公ヲ疑ヒ殺サンカト思ヒ、跡ニ下ル時ニ、庄屋モ子ヲ案内ニツルル。此子銀ツバヲサス。

関東者ニテムゴキ者ドモニテ、穴山ガ下人是ヲ殺シテ鍔ヲトレリ。此子供ノデツチアリ

テ、主ヲ殺タヲミテ、イバラグロヲクゝリテ家ニ帰リ是ヲ告グ。一在所一揆ヲ起シテ穴山

ヲ殺ス。此内ニ家康公ハ、ハヤ草内ノ渡ヲ御越也。此渡ヲ御越ナクバ、家康公モ危カラン

ト也。

 

一、覚、南部先祖          嘉良喜随筆(山口幸充)

 

  南部先祖ハ皇孫にて人王五十六代清和天皇より始まり、

其苗裔新羅三郎義光、其子刑部三郎義清、

甲州に居住仕、家名武田與申候。

其子清光、其次男加々美次郎遠光、

其子三郎光行、或は信濃三郎共申候。

是当家之先祖に御座候。

一、光行事、甲州巨摩郡知行仕。

同郡南部に居住仕候故、家名を南部と申候。

一、文治年中奥州合戦之時、光行軍功御座候に付、

従右大将頼朝、奥州之内糠部以下之数郡恩賞に被行、

依之甲州より下向仕候。

当年迄五百五十餘年代々領知仕候。

一、家幕紋割菱に御座候。

其後鶴之吉端之故有之、双鶴之紋用申候。

一、光行より当時修理大夫迄三十三代にて、

代々血脈を以系統相続仕候。右の通御座候。

先祖より代々持傳候系図、」

数百年之事に御座候得ば、殊之外虫ばみ、

文章難見合御座候に付、今度書替仕度奉座候。

云々

 

 一、新羅義光 烹雑の記(滝沢馬琴)

 

  鳥羽天皇の天仁元年戊子春二月、

源ノ朝臣義綱を、佐渡国へ流す。

舎弟義光に誣(しひ)られ、無実の罪を得たればなり。

 

 一、仁科五郎  一話一言(大田南畝)

 

  天正十年二月、

穴山梅雪逆心に付勝頼も諏訪を引取

織田城介信忠卿は仁科五郎信盛の籠高遠の城へ

御取詰奥沼原に御馬を取立使僧を以て

仁科五郎降参仕候へ其子細は

武田家人大半逆心仕候間

勝頼滅亡近日に候各誰が為に城を持候はん哉

早々降参尤と被仰遣仁科五郎・小山田備中則

御使僧の耳鼻をそぎ追返し一戦可仕旨返事也

城介殿御せき候て高遠城を一時攻に攻取玉ふ

小山田備中切て出城介殿を目がけ討取んと

数度仕候へども不叶引て

仁科五郎と備中守渡辺金太夫・春日河内守原隼人・金福又左衛門

・諏訪庄右衛門以下十八人大広間に取籠り

死狂に相戦中にも年頃三十五六なる女房

緋威の具足に長刀を抜て水車に廻し

諏訪庄左衛門が妻と名乗て七八人なぎたほし

其後自害する大広間は七間に十二間の家なり

是に取籠り候故寄手も攻あぐむ城介信忠は

浅黄金襴の母衣かけ玉ひ広間の前の塀に御上り候

塀に沿て桐の木あるに取付ざいをふり身をもんで

御下知被成遂に仁科五郎・小山田備中せい盡て自害する

高遠落城の四日目に見物せし人は被語候は

彼大広間天井も柱も鑓跡太刀跡さては血に染り

明所なし庭に残雪ありしが、血かゝり紫雪になりたり

地下人ども掃除に来りて居る其者ども申候は

是なる塀の上に城介殿御上り左の御手にて

此木とらへざいを御取被成候

小山田備中も仁科五郎殿も城介殿を見しり

七八度も切てかゝり候、

其時太刀跡鑓跡にて候いふ城介殿御取付候

桐の木にひしと疵あり

扨広間に二間の大床あり張付のから紙あり

血腸なげ付指の跡四筋血にて一尺計も引て

見ゆる地下人に尋候へば、

大将仁科五郎殿此床に上り自害腸を抓んて

から紙へ打付手を御拭候其指の跡と申候

仁科殿は年十九にていまだ前髪ある勝たる御若衆にて候

と語る、

扨天井をみれば鉄砲の玉の跡いくらといふ事なし

是を尋れば答て曰、仁科五郎さすが信玄公の御子なれば

つよく御働小山田備中をはじめ十八人狂廻り討かね候故

森勝蔵殿の衆屋根へ上り板をまくりて上より

鉄砲ずくめに仕候と語りたり

後勝蔵一手の衆を高遠の屋根ふき士と異名に付て笑ひしと也。

 

一、天明四年十二月廿六日火事 一話一言(大田南畝)

 

  夜四半時頃八代州河岸より出火候處

西北風烈数左之通焼失、

 翌廿七日暮六時過火鎮り申候。

 

《甲斐関係のみ抜粋》

   町奉行 曲淵甲斐守  

  同六年正月廿二日火事、同廿三日火事

  御小姓組   白須甲斐守組 松平典膳

  御小姓組   白須甲斐守組 羽根伊織

  甲府勤番支配 戸田下総守

  御小姓組   白須甲斐守組 小出右膳

  

同八年正月晦日京都大火諸書付写 

 覚 松平甲斐守

  京都御所向并二条御本丸其外炎上に付

京都へ被遣候旨於御右筆部屋掾頬若年寄衆

御出座安藤対馬守殿被仰渡之

   金十五枚             高家 武田安芸守

 






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最終更新日  2022年01月02日 19時38分29秒
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