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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年01月03日
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                       山梨古代歴史講座

   
  なぜ甲斐に日本有数の古代牧があったのか

 

  甲斐の勅旨牧(御牧)再検討

 

 平安時代頃(或いはそれ以前より)に甲斐の国巨摩地方に在ったとされる天皇の勅旨牧

(御牧)は今はその面影を忍ぶものは歴史書物以外には何も残っていない。

 勅旨牧とは天皇の命令によって天皇のために置かれた牧のことで、『延喜式』によると

甲斐には穂坂牧・柏前牧・真衣野牧の三牧、信濃国には望月牧を含めて十六牧、武蔵国に

は立野牧ほか三牧、上野牧には利刈牧ほか八牧が確認できる。ここで育てられた御馬は毎

年定められた日時に「駒牽」の行事が行なわれる。天皇がご覧になり後に宮廷の人々に分

けられる。

 甲斐の勅旨牧について県内では『甲斐国志』以来次のような内容が定説とされている。

 「甲斐にあった三牧は穂坂牧が現在の韮崎市穂坂町付近、真衣野(まいぬ)牧は武川村牧原付近とするのに異論なく、柏前(かしわざき)牧は勝沼町柏尾とする説があるものの高根町樫山に比定するのが通説となっている」(『山梨県郷土史研究入門』)

 しかしその根拠とするところは『国志』以来の漠然としたもので確かな根拠など無く、また遺跡や遺構によるものではない。

 柏前牧については『北巨摩郡勢』に柏前神社の存在を記しているがその真贋は解からない。

 県内の歴史研究も少ない資料から私論や推論に頼って『甲斐国志』の論をさらに発展させ定説化を進めているが、空白の部分が多く真実は紐解かれてはいない。

 歴史学ほど閉鎖的な学問はない。門外漢を寄せつけないし、自由に研究させる土壌も少なく人材も育ちにくい。歴史学は決して専門家の分野ではなく、多くの研究を志す人々の挑戦を正面から受け入れることが必要である。歴史は人々の共有財産なのである。

 これまで私は自力で峡北地方の歴史を様々な史料をもとに論じてきた。「誤伝山口素堂」・「宗良親王の事蹟」・「実証、馬場美濃守信房」・「新視点、甲斐源氏」等々である。

 歴史研究は史料の積み重ねであり、その史料の確実さと広範囲な調査が歴史真実に近づける道であり、どんな著名な研究者であっても一方的な資料からの判断や持論や推論の展開では真実には近づけない。また無理して定説を創ることは歴史を歪めることにもなる。   

 最近旧石器時代の石器をその発掘地に埋め発見する、いわゆる「捏造」事件が報道を賑わしているが、これは単に旧石器時代だけの事だけではなく古代の歴史から現在までの歴史にも言えることかも知れない。歴史は時の権力者により都合よく創り替えることはごく当たり前のことであり、そうした事例は枚挙に暇がなく、それは都合の悪い記事の削除や焚書行為にみられ、系譜や出自それに事蹟や経歴を創り替えることに時の権力者の力を誇示し保持する為の必要不可欠なことであったと思われる。

 通常私たち一般人の歴史認識は求めるものではなく与えられるものである。例えば史実と違っていてもその道の人達が、繰り返して話したり小説やドラマを見たり聞いたりしているとそれが史実のように記憶される。特に一般人が弱いのが著名人の言やテレビ放映である。疑うことなく真実のようにとらえてしまうものである。だからこそ歴史に携わる人は軽はずみな私論・推論などを展開して人々を惑わしてはならない。     

 

   甲斐の古代駒 

 

 さて甲斐の勅旨牧及び古代の馬について調査の一端を述べてみたい。山梨県内で馬に関して確認されている古墳は 五世紀後半の「かんかん塚古墳」が本県最古の轡などの馬具が確認されている。関係する古墳を抜粋してみると次のようにんある。

 甲府千塚 「加牟奈塚古墳」………馬形埴輪

  豊富村 「大塚古墳」……… 馬形埴輪

  八代町 「古柳塚古墳」・「樹塚古墳」・「蝙蝠塚古墳」………馬具や馬鈴

  八代町 「御崎塚古墳」………馬具の高級品の毛彫金具など

   「考古博物館内古墳」………装飾馬具が多数確認

 さらに、山梨市・御坂町・一宮町・龍王町・甲西町・双葉町・春日居町。

それに未確認では須玉町、長坂町の古墳からも小数の馬具が出土している。これらは五世紀から七世紀中葉にかけての古墳であるといわれている。また武川村の宮前田遺跡から「牧」の墨書土器が発見されたが、歴史界や報道は、真衣の牧とする説を急ぐ。荒れた河原で萱しか育たない地域であり、これが真衣野牧との説は余りにも無謀な論ともいえる。

 最近ではその所在地を隣の富士見町にまで拡大し論じているのをみたが、根拠のない論である。

 12月4日の山日新聞に「国内最古の馬具出土」の記事が掲載。それは四世紀初めの木製の鐙が奈良県の箸墓古墳から出土した旨の記事である。

 また国内最古の馬の骨や歯が甲府塩部遺跡や中道東山遺跡から出土した事を掲載している。

 甲斐の馬が文献上確認されるのは

 雄略天皇十三年(469)の

「ぬば玉の甲斐の黒駒鞍着せば命死なまし甲斐の黒駒」

                 (『日本書紀』)

 が初見であり、

 推古天皇六年(598)には現在の御坂町の神社仏閣と深い関わりのある聖徳太子の乗った甲斐の烏駒(くろこま)の記事が見え(『聖徳太子略傳』)その烏駒は甲斐穂坂の産(『見聞集』)とも伝わる。

 天武天皇元年(672)には壬申の乱に参戦した甲斐の勇者の戦いも騎馬戦であったが、甲斐の勇者の騎乗した馬が甲斐の産馬かは定かではない。

 天平三年(731)には甲斐の国司田辺広足が神馬を献上した。これは当時の朝廷で定めていた祥瑞にあたり(符瑞図で調べると神馬は河の精であるとあり、援神契には徳が山や岡の高きに達する時神馬が現れるとある。

 大瑞にあたる『続日本記』)甲斐国は数々の報奨や税の免除を受けた。山梨の歴史書にはこの事を甲斐のことだけのように特筆してあるが、当時は多方面にわたり祥瑞の物品貢上の事例があり、神馬にしても信濃国など数ケ国が散見でき、中には瑞祥の偽物を貢上して罰を受けた事例もある。 (『続日本記』)

 続いて天平十年(738)には甲斐国から進上する馬の記事が駿河国正税帳に見えて、勅旨牧が設置される以前から甲斐国から御馬が養育、貢馬されていたことを示している。

 この時の御馬領使は山梨郡散事の小長谷部麻佐である。

 天平勝宝四年(741)には甲斐国巨麻郡青沼郷物部高嶋の名が正倉院文書に見え、巨麻郡の範囲が広域であることが理解できる。

 天平宝宇(762)には巨麻郡栗原郷もあり、当時巨麻郡の中心は甲府から山梨郡に隣接していた事が理解できる。

この時代甲斐は災害も多発して

 天応  元年(781)富士山噴火(『続日本記』)

 延暦  八年(789)大洪水(『山梨県気象災害史』)

 延暦十九年(800)再び富士山が噴火(『日本記略』)

 天長  二年(825)白根山が大崩壊し国中一大湖水

  (『山梨県気象災害史』)

 翌天長三年(826)には富士山が噴火小富士が出現(?)する。

 富士山の噴火はさらに続き、

 貞観  六年(864) 

 承平  二年(932) 

 承平  七年(937) 

 天暦  六年(952) 

 長徳  四年(993) 

 長保  元年(999) 

 長保  五年(1003)

 が史料により確認できる(噴煙を含む)。

 富士山の噴火は甲斐の古道に大きく関わる災害で、『延喜式』は勿論、甲斐の定説も富士山の噴火と古道の関係を記していない。(別述)

 真衣野牧は一度だけ信濃望月の牧と共に駒牽の儀式に参列している。これは歌の前書に、望月の牧と真衣の牧を引き違えた事が記されていることから判る。

 現在も残る武川村牧ノ原地名であるが、古代に於いて牧ノ原地名が存在したかは知る由もないことで、比定の曖昧さばかりが目につく。延喜式の「真衣野」を「まきの」と読んで比定しているが、古代では「まきぬ」であろう。また「真衣郷」が武川にあったとされる説が多いがこれも戴けない。

地名比定の根拠が希薄であればそれは史実には繋がらない。

他にも現在の韮崎市甘利地域を「余戸郷」に比定しているがこれも史実とは重ならず、甘利地域は広大な土地であり、その後の歴史展開を見ても当時とても「余り地」とは思えない。双葉や韮崎の穂坂それに明野、須玉まで一望できさらに八ヶ岳山麓も視野に入る。この一帯が「真衣野」牧であっても何の不都合もない。 武川村には大武川沿いの段丘上に古くからの集落がある。黒沢・山高・柳沢集落などであるが、その中に真原(さねはら)がある。これは何の史料も持たないが「真原」はその昔は「槙原」(まきはら)ではなかったのかと推論する人もいる。しかし遺跡や遺構などは見えない。地名比定優先である。なお「牧」も「まい」と読むという。

 また、当時の牧の殆どが火山周辺に設置されているが、真衣野牧が武川牧ノ原であったすれば、段丘上では可能であっても、取り巻く大河(釜無川・大武川)やウトロ川・小武川など中小の河川は自然の柵にはなるが、流路の定まらない古代の河川は移動や貢馬の通行には大きな妨げになる。地名比定だけでは牧の存在の確証はできない。

 

   御牧の貢馬

 

弘仁十四年(823)に文献上初の勅旨牧から貢馬が信濃のから始まる。(文献上初。

 牧名は不明)天長三年(826)には甲斐などの四カ国貢上の御馬付添騎士等の員数を定める。(『類聚楽三代格』)天長四年(827)甲斐の駒数は千余ともあり、同年十月に甲斐国に牧監を置き、天長六年(829)には甲斐国から初めての貢馬が文献(『日本記略』)に見えて、駒牽(天皇御覧)の行事が行なわれた。

 承和二年(835)には甲斐国の空閑地巨麻郡馬相野五百町式部卿葛原天親王に与えられる。この馬相野について山梨の歴史書は現在の白根町有野を比定し後に八田牧になったとしているが、『日本馬政史』ではこの地は後の真衣野牧の事とする。この時代にはこうした賜地の事例が多く見られ、空閑地はその後牧となった例もある。

 延暦二十三年(804)安芸国の野三百町を甘南備内親王に賜うて牧地となす。

 弘仁二年(811)上野国利根郡長野牧を三品葛原親王に賜う。(『日本後記』

 承和八年(841)摂津国の地三百町を後院の牧となす。 (『続日本記』)

 その他にも『続日本記』には記録がみえる。

 当時日本国内の牧は甲斐など四国の勅旨牧の他に近都牧や院牧もあり、甲斐国にあった小笠原牧などもこの院牧であった。こうした御牧の全てが甲斐の北巨摩地方に存在したという定説はあってもその根拠は希薄である。

 甲斐の貢馬や駒牽の記事は天長六年(829)初見以後、延喜四年(904)まで何故か空白であり、この間の貢馬の有無も文献資料からは不明である。(貢馬と駒牽それに年表については拙著を参照) 

当時国司往来や貢上の道は定められていて甲斐は東海道に属し、東海道を通じて貢馬や貢ぎ物を献上していた。とするが、他県の牧は全て東山道を経由している。多くの歴史家が地名比定から、望月の牧などある長野県に近い北杜・韮崎市であるなら、東海道より、東山道の方が「貢馬の道」としては適している。が。

 

   貢馬の道

 

甲斐の古道は国府から御坂-河口-籠坂を通り東海道に入ったとされる鎌倉街道説が定説になっているが、時期が重なる富士山の噴火を横に見ながら朝廷への大切な貢ぎ物を運ぶことは大変な困難と危険を伴う。駒牽の期日までに納める御馬であってはより確実で安全な道を選択する事は当然である。

 長野県『富士見町誌』には富士見町の山道に甲斐からの貢馬の道が通じていたとの記述もある。甲斐の古道についての定説は曖昧なもので『延喜式』には駅名を「水市-河口-加吉」とあるのに、著名な歴史家が講演で、これは誤りで逆に記載してあり、本来は「加古-河口-水市」であり、「加吉」は「加古」の誤りで「籠坂」のことである。との無理な推論を展開している。驚いたことに山梨県ではこうした根拠のない説を再研究することなく平気で定説として引用している歴史紹介書が散乱している。定説と史実の差は大きい。






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最終更新日  2022年01月03日 06時36分00秒
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