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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年01月03日
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 『山梨県の歴史』には、

 

甲斐路は駿河国横走駅(御殿場市)で東海道本路から分岐し、西北に進んで甲斐   駿国境籠坂峠(もとは加古坂と書いた)を越えて甲斐に入った。最初の駅加吉駅   は加古坂の北麓山中湖山中付近にあったと推定される。『延喜式』の加吉は恐ら

く加古の誤りであろう。次の河口駅は河口湖町河口で河口湖岸にあり、両駅とも

駅設置の条件である水草の富んだところに位置している。水市駅の位置は不明で

あるが、通説の一宮市蔵説もそれほど有力な根拠はない。地理的には御坂町上黒

駒あたりに比定するほうが妥当のように思う。」

 

 甲斐国へ赴任する役人の中には有名歌人が含まれて小野貞樹、凡川内弭恒、壬生忠岑などがいる。又甲斐の駒や御牧(勅旨牧)を詠んだ歌も多く見られる。特に『土佐日記』の著者紀貫之の詠んだ歌が甲斐の古代の勅旨牧解明に様々な憶測と混乱をおこしている。

 

  都までなつけてひくはをがさわら

    へみ(小笠原逸見)の御牧の駒にやあるらん 

         (『紀貫之集』)

 貫之がこの歌を詠んだ年代は定かではないが、貫之は生まれが貞観十年(868)で沒年は天慶八年(945)であるから、天慶八年以前での歌であることは明瞭である。

 『西宮記』に見る小笠原牧は応和元年(961)年の事なので、それ以前から小笠原逸見牧は存在したのである。『貫之集』の編纂年時や詠んだ年も不明であるが、貫之の認識の中に「をがさわらへみ」が歌枕として存在した事は間違いないといえる。なお紀貫之は『土佐日記』のなかで「甲斐の歌謡について述べている箇所があるが、これは甲斐の古代を開く上で大切な記述である。

 永承五年(1050)の能因法師の『能因歌枕』には甲斐の名所として「黒ごま山」(黒駒山)「かひの黒駒」が見え、仁安元年(1166)頃成立の『和歌初学抄』には甲斐の歌枕として、「ころごまの牧「「ほさかの牧」「をがさわらの牧」などが載せている。

 「美豆の御牧」について県内の多くの歴史学者は言及していない。和歌の世界では勅使牧のみを御牧と称していたのではない。「美豆の御牧」これは山城の近都牧であるが、和歌の世界では混乱して「小笠原美豆の御牧の」などと詠われていた為に、『甲斐国志』や後の甲斐の歴史研究者の中には「みず」を「三つ」として甲斐の三牧の総称として紹介している。

 さらに「穂坂の小野」も『国志』編纂時に双葉町に小野という地名があったと記述してあるが、中央歌人の歌枕に詠まれるほどの地名認識があったとは思われない。

 甲斐の歌枕とされる「塩の山」や「差出の磯」も「地名不詳」とする解説記述書もある。

 また残念ながら歌集からは真衣野牧や柏前前の歌は見えず、『国志』の真衣野牧の項に見える歌は何ら関係のない歌である。

 甲斐の歴史書の中には甲斐に全く関係ない歌やその地に関係のない俳句を掲載する例が多く見られ、松尾芭蕉の句や各地の宗匠の権威づけによる芭蕉句碑建立などは混乱に拍車をかける所業である。

 

  春草の穂坂のをのゝはなれ駒

    秋は宮こへひかんとすらん(『夫木』)

  小笠原美豆の御牧にあるゝ駒

    もとれはそ馴るこらが袖かも(『六帖』)

 

 これ等の歌はどう解釈すればよいのか。『西宮記』には応和元年(961)冷泉院小笠原牧御馬の貢上の記事が見える。穂坂牧は延喜四年(904)、真衣野牧・柏前牧は遅れて承平元年(931)が文献に現れる駒牽の初出である。

 

 貢馬定数は穂坂牧が三十疋、真衣野・柏前牧が合わせて三十疋と決められていた。甲斐の穂坂・柏前・真衣野牧からの貢馬は定数を欠く年次もあるが他国を圧倒する勢いで続く。不思議なこと穂坂牧・真衣野牧は単独でも貢馬しているが柏前牧は必ず真衣野牧とセットで行なわれている。

 真衣野・柏前牧は通年に於て初の駒牽で八月七日、

 穂坂牧は八月十七日が天皇御覧の駒牽の期日である。

先述した小笠原牧の御馬も駒牽があり、勅旨牧と同等の扱いがあったことが史料により確認できる。勅旨牧の穂坂・真衣野・柏前の三牧と院牧小笠原牧は併設されていた時期が存在したことが史料でわかる。これも今までの定説にはないことである。

 駒牽行事への貢馬は全てにわたって厳しく規定されていた。牧監・馬医・書生・占部・足工・騎士が六疋に一人付き添った。さらに沿道の駅では貢馬一疋に対して一人、牧監に三人、馬医・書生などの牧士二人に一人ずつの人夫を出し、さらに牧監に三疋、馬医・書生・牧士には一疋ずつの馬を提供した。また駅では一日一疋あたり一束の飼秣(まぐさ)も負担させられた。

 勅旨牧の貢馬にあたってはその立場を利用した引率者の横行も目立ち、それを諫める太政官符が何度となく発布されている。各国の貢ぎ物にあたる人々の難儀は絶句に値する内容である。

 往路は駅路の国でも官給を受けられるが帰りは悲惨な処遇で、道筋にはこうし

た人々の屍体が放置してあり、その片づけの太政官符も発令されていた。勅旨牧には様々な規定があり、違反についての太政官符が度々発せられている。

 勅使牧の牧士は百匹(一群)ごとに二人が配置され、馬は毎年母馬百疋に対して六十疋の割合で繁殖させるのが基準で、逆に損耗は百疋につき十疋を限度とした。飼育された馬は二才になった九月に国司と牧長が同席して「官」の焼印が押され、馬の特徴を記録した帳簿も作成した。牧帳(事務担当者)以下は地域の有力者が任命された。

 馬の飼料には細馬で一日に粟一升・稲三升・豆二升他に干草・青草・木の葉や塩二斤も与えられた。

 一群(百疋)の一年間の所用米(半糠米)は推定五百八十四石位になる。天平六年(734)の「出雲国計会帳」には駅馬帳・伝馬帳・種馬帳・飼馬帳などが進上されているので甲斐国でも同様な書類が作成されたいたことは間違いない。

 こうしてみると牧場は単に馬を放牧するだけの施設でなく、管理を徹底するために相当な規模の貯蔵庫や厩(うまや)、調教施設、飼育に関わる人々の居住施設などが必要である。

 また広大な牧田も存在したことは諸史料から明らかで、併せて比定地研究の課題となる。

不明な部分が多いほど研究者の推量の余地は広がるもので、著名な研究者の言が大きな意味を持つ。遺構や遺跡、牧に関する遺物が発見されれば甲斐の勅旨牧の動向の有力な手がかりとなるのだが、開発の激しい山梨県では難しく不詳のまま後世に残る可能性が強く、真実は闇の中に封じ込められたままとなる。

 御牧の運営については、甲斐には牧監が置かれ、(信濃・上野とも、武蔵は別当)毎年四才以上の用に耐える馬を選んで調教した。調教した馬は翌年八月の期日に牧監らが引率して貢上した。甲斐からは六十疋(穂坂牧三十、真衣野・柏前で三十疋)。貢上した馬は天皇の前で駒牽の儀式が行なわれた。(真衣野・柏前-八月七日。穂坂-八月十七日)貢上に適さない馬は、駅馬や伝馬に充てられか売却された。馬は細場(上)・中馬(中)・駑馬(下)に区別され飼料も厳格に規定されていた。

 牧監の任期は六年として国司と同じく責任の重い要職であった。などなどが定められていた。

 

 さて甲斐の三勅旨牧のその所在地について比定史料が不足していることは理解していただけたと思う。

 真衣野牧が何故武川牧ノ原周辺なのか。識者はその根拠を示さないまま定説にする。柏前牧の比定地の「樫山」と「柏前」は資料で結びつくのか。未だに謎の部分が九割位あり、現存地名比定をもって牧名を断定することは避けなければならない。どの牧がどの地域にあったかは現在永遠の謎である。

 現在甲斐に於ける勅旨牧の遺跡や遺構の研究は進まず、地名比定や研究者の私説や推説の展開が見られ、三勅旨牧所在地の比定をさらに混乱させている。「定説」は創るものではない。史料研究や発掘調査などのたゆまざる研究から生まれるもので、信濃の御牧や上野・武蔵御牧の研究も視野に入れて幅広い論証が必要になる。遺跡・遺構、勅旨牧の飼馬、関連地名、馬飼場の適地、文献史料を読み直しも必要と思われる。

 歴史研究を志すとき最も必要なのは、通説や過去の著書などは参考程度にして出発することが大切で、結果的に研究と整合すればそれはより史実に近くなるし、過去の研究書の信憑性が増すことになる。一般の人は史実と小説やテレビドラマなどとの境が分からず、全てが歴史事実と誤認してしまうものである。市町村誌などは分厚く難しくてどれだけの人が紐解くか分からない。確かに重要事項も多々記載してあるが、一般人に読みやすく理解しやすいようには記されてはいない。古代部分などは専門用語の羅列でその道の人以外ほとんど見られることはない。また編纂者によっては市町村誌で自説を展開している方も多く、史実とかけ離れる原因ともなっている。

 信玄を記した『甲陽軍艦』や徐福が著したされている『宮下文書』なども偽書扱いしながら部分的には引用している研究者もいる。特に信玄を語る上で欠かせない山本勘助は今でも歴史上の人物でないとする研究者も多い。江戸時代甲府にあったと記されている「山本勘助屋敷」はどう解釈すればよいのだろうか。

 

 帰化人の跋扈(ばっこ)した古代甲斐、甲斐の勅旨牧、甲斐源氏の素顔、白州山口の生まれとされた山口素堂、疑問の残る初代市川団十郎と甲斐との関係、当時「山流し」と嫌われた甲府勤番などなど史実とはかけ離れた記述や定説が一般化しているのが現状である。

 

  駒を育てた人々

 

 山梨県は歴史の中で特に民族歴史はタブ-である。従って論じる人も少なく避けて通るので歴史が空洞化する。牧場には多くの朝鮮半島の出身者が多く従事していたという。甲斐にも多く住居していたことは史料にも見えている。持統天皇の六百八十八年には百済の敬須徳那利を甲斐国に移す(『日本書紀』)。霊亀二年(716)には甲斐国などの高麗(こま)人、千七百九十五人を武蔵国に移す。天平宝宇五年(761)には巨麻郡漢人部千代の名が見え、延暦八年(789)には山梨郡の渡来人の請願により要部上麻呂・古爾・鞠部・解礼らの本姓をそれぞれ田井・玉井・大井・中井に改める(『続日本記』)等である。こうしたことは甲斐国だけでなく関東諸国にいえる事である。

 余談ではあるが、過去に於いて北巨摩地方にも様々な著書がある。それは地名にはアイヌ用語が多くあるといい、武川村の中山には最後まで天皇支配に抵抗するアイヌが居たと記述してある歴史書もある。また峡北に高天ヶ原があったなどとの奇抜な著書も見える。

 その他富士山周辺はアイヌ土器(縄文土器)の宝庫である。との著も見える。

 これについて『国志』は「巨麻(巨摩)郡の巨麻は駒に由来する」としているが、古代音韻により現在では高麗が転化して巨麻郡になったという。巨麻郡は高麗人の多く住んで居た所となる。甲斐の国を半分を占めた巨麻郡は広大な地であった。古代音韻については他の地名や固有名詞を調べてみる必要があるのでないか。

 

  甲斐駒ヶ岳

 

 私の住む白州には甲斐駒ヶ岳がある。駒ヶ岳の山名は不思議なことに関東以北に限定される。

 「駒ヶ岳友好連邦会議・フアンクラブの駒ヶ岳」によると、

  北海道駒ヶ岳

  青森県大駒ヶ岳

  秋田県秋田駒ヶ岳

  白神山地藤里駒ヶ岳

  岩手県焼石駒ヶ岳

  山形県高畠駒ヶ岳

  新潟県朝日駒ヶ岳

  福島県会津駒ヶ岳

  神奈川県箱根駒ヶ岳

  新潟県頸城駒ヶ岳

  新潟県越後駒ヶ岳

  富山県越中駒ヶ岳

  甲斐駒ヶ岳

  長野県木曾駒ヶ岳

  長野県南駒ヶ岳

  福井県若狭駒ヶ岳

  宮城県栗駒山(駒ヶ岳)

  新潟県駒形山(駒ヶ岳)新潟県米山の駒ヶ岳

  富士山の駒ヶ岳

  富山県宇奈月町・長野県白馬村白馬岳(上駒ヶ岳)

  富山県・長野県下駒ヶ岳

 

などの駒ヶ岳がある。(『新駒ヶ岳余聞』)

すべての駒ヶ岳の麓で牧が展開されていたかは未調査である。

 何時の時代のドラマでも大型の馬を武将が乗り回している。しかし『平家物語』や『源平盛衰記』に登場する馬の体高は、1364cm~1454cmであり、平家を攻めた義経が鵯越に騎乗した馬もポニ-程度であり、新田義貞の鎌倉攻め(1333年)前後とされている鎌倉在木座より出土した128体の体高は最高で140cm、最少で128cm、平均129,5 cmであった。

 戦国時代になって馬の体高も発達して、武田信虎の鬼鹿毛が147,9cm、(4尺8寸8分)大きなものでは加藤清正の帝釈栗毛で160,6cm  (五尺三寸)の大型であった。

 古代の馬の壁画や線刻画などは近畿から九州にかけて多く見られる。熊本県の弁慶が穴古墳から騎馬人物や船に乗せた馬、浦田横穴墓の馬の画、福岡県の薬師下南古墳からは旗を立てた馬に乗る人物が画かれている。

 また在来馬としては長野木曾馬(一説には甲斐から持ち込まれた馬ともいう)、北海道ドサンコ、愛知県今治の野間馬、対馬の対州馬、宮城県御崎馬、鹿児島トカラ列島のトカラ馬、沖縄の宮古馬、与那国馬の八種類がある。

 戦国時代の名馬には武田信虎の鬼鹿毛、武田信玄から織田信長に譲られた鬼瓦毛、会津黒などが知られる。『平家物語』の名馬には佐々木四郎の生食、梶原景季の摺墨、源義経の大夫黒、青海波、熊谷直実のゴンタ栗毛などが有名である。(『新駒ヶ岳余聞』)

 さて本題に戻るが甲斐の勅旨牧は甲斐源氏の隆盛とともに私牧に代わっていったと甲斐の歴史書は説明するが、甲斐源氏と甲斐の馬を結ぶ史料は見えない。『古事類宛』〔寛政年代(1790年代調べ)によれば東日本の牧は合計244牧でうち甲斐は九牧が確認される。最も多いのは陸奥国南部であり、26牧が確認される。南部は甲斐源氏の南部氏が発祥であり、甲斐の御牧との関係も推測できる。(この項別述)

 

  国最大の甲斐の御牧

 

 甲斐の勅旨牧から貢馬された回数(文献上)はおおよそ十五回である。穂坂牧は三十六回で甲斐、信濃、上野、武蔵の名かで最も多く、真衣野牧は十四回、真衣野・柏前牧合わせての貢馬は十八回である。小笠原牧は応和元年の一回のみで、残りは甲斐からの貢馬であるが牧名が不明である。

 なお天長六年(829)から延喜四年(904)の間の貢馬は文献からは不明である。貞観の富士山噴火と関係あるのだろうか。

 その後甲斐から貢馬はなく、国司や武将から朝廷官人たちへの貢馬が行なわれるようになる。甲斐源氏の勢力下になった甲斐国の勅使牧は私牧に代わっていく。これは関東地域全般にいえることである。時代の趨勢と共に甲斐の勅使牧は消えていった。

 歴史研究は総合的な視野が必要であり、単に過去の歴史書を紐とくだけでは迫れないも

ので、天災地変・地理・地質・遺跡・遺構・遺物なども加味して考察して欲しいものである。

 歴史学者は巨麻(巨摩)郡の発祥が高麗であるならそれを実証する努力をすべきであり、古代音韻によるとの説だけに逃避するのは一考を要する。朝鮮半島から渡来した人たちは馬を飼育する技術に優れており、甲斐には多数居住していた。当時荒地の多かった甲斐は馬飼地に適していて、また九州や近畿に広がっていた牧場も関東に移動し、馬飼人の多くも移住して来た。甲斐の巨摩郡は全土の半分位の範囲を現在も占めている。勅使牧の解明は巨摩郡に拘わる必要は少なく巨摩郡全域、甲斐全域を再調査する必要がある。今回の調査では全ての関係書を調べてみた分けではない。時間と根気が不足しているのかも知れないが、『甲斐国志』や特定の歴史学者の影響の強い各史誌であっては有効な史料とはならない。もし参考になる書があるとすれば、それは一昔前の地域の研究者によって著された史誌なのかも知れない。

 

  ……貢馬・駒牽年表……

 

        (詳細は拙著、『再考 甲斐の勅使牧』)○数字は各牧の回数。

 

天長    六年 (829)   穂坂牧 

貞観    六年 (864)                                  

富士山噴火

貞観十二年 (870)                            

富士山噴火

延喜    四年 (904)   穂坂牧                                                           

延喜    五年 (905)   穂坂牧(30疋)              

延喜 七年 (907)   穂坂牧                                   
延喜 十年 (910)        穂坂牧         (30疋)                   

延長    五年 (927)   穂坂牧                                           
承平      元年 (931)   真衣野牧・柏前牧            
● 富士山噴火  

承平    二年 (932)                                  
● 富士山噴火 

承平    三年 (933)   甲斐国御馬                                       
承平      六年 (938)    真衣野牧・柏前牧                                 
承平      七年 (937)                                  
● 富士山噴 

天慶    元年 (938)   真衣野牧・柏前牧 (20疋)                

天慶    四年 (941)    穂坂牧           (20疋)                                               真衣野牧・柏前牧 (15疋)                                             ◎ 甲斐等国御馬

天慶    八年 (945)   真衣野牧・柏前牧 (20疋)                      
天慶      九年 (946)   穂坂牧              

天暦    元年 (947)   穂坂牧           (20疋)

天暦    二年 (948)   穂坂牧           (16疋)

天暦    三年 (949)   穂坂牧                                                                    真衣野牧 

天暦    四年 (950)   穂坂牧            

天暦    六年 (952)                                 
 ● 富士山噴火

天暦    八年 (954)   穂坂牧            

天暦    九年 (955)   穂坂牧            

天徳    四年 (960)   真衣野牧   

応和    元年 (961)   ◎ 小笠原牧       

応和    二年 (962)   真衣野牧   

応和    三年 (963)   穂坂牧  

真衣野牧       

康保    元年 (964)   穂坂牧      

康保    二年 (965)   真衣野牧                         

康保    三年 (966)   真衣野牧・柏前牧               

安和    三年 (970)   真衣野牧・柏前牧               

天元    元年 (978)   穂坂牧          

天元    二年 (979)   穂坂牧          

永観    二年 (984)   穂坂牧                             
真衣野牧             (20疋)

正暦    元年 (990)   穂坂牧 (30疋) 

      富士山噴煙  

真衣野牧・柏前牧        

長徳    四年 (998)    穂坂牧                      

●富士山噴煙。

長保    元年 (999)   穂坂牧 

長保    二年(1000)   真衣野牧・柏前牧           

長保    四年(1002)   穂坂牧                      

  富士山噴煙            真衣野牧・柏前牧  (20疋) 

長保    五年(1003)                                  

● 富士山噴火。

寛弘    元年(1004)   甲斐御馬

寛弘    二年(1005)   真衣野牧   

寛弘    四年(1007)   穂坂牧                                                                    穂坂牧 

真衣野牧・柏前牧      

寛弘    五年(1008)   穂坂牧                         

真衣野牧・柏前牧      

寛弘    六年(1009)   真衣野牧・柏前牧               

寛弘    八年(1011)   真衣野牧   

長和    元年(1012)   真衣野牧

長和    二年(1013)   真衣野牧   

長和    四年(1015)   穂坂牧  

長和    五年(1016)   穂坂牧            

穂坂牧 

真衣野牧       

寛仁    元年(1017)   穂坂牧  

富士山噴火。

寛仁    三年(1019)   穂坂牧                                  真衣野牧・柏前牧       

寛仁    四年(1020)                                  

● 富士山噴火。

治安    元年(1021)   真衣野牧            

治安    二年(1022)   穂坂牧             

万寿    元年(1024)   穂坂牧             

万寿    二年(1025)   穂坂牧                         

長元    元年(1028)    真衣野牧            

穂坂牧 

長元    二年(1029)   真衣野牧                          

穂坂牧 

長元    三年(1030)   穂坂牧             

長元    四年(1031)   真衣野牧   (60疋)     

長元    六年(1033)                                  

● 富士山噴火。

長暦    三年(1039)   真衣野牧・柏前牧               

長久    三年(1042)   真衣野牧  望月牧と共に駒牽  

永承    三年(1048)   甲斐御馬  

康平    二年(1059)                                  

● 富士山噴火。

永保    三年(1083)   真衣野牧・柏前牧            

● 富士山噴火。

応徳    三年(1086)   甲斐御馬 (10疋)

寛治    元年(1087)    真衣野牧  穂坂牧と併合して貢馬

穂坂牧   真衣野牧と併合して貢馬

 

勅旨牧の貢馬・駒牽の回数(以後の調査で増加する可能性がある)

 穂坂牧                  

  38回       

真衣野牧                 

  19回

真衣野・柏前牧           

  17回

(真衣野牧+真衣野・柏前牧  

  36回)

柏前牧                   

  17回

小笠原牧                  

   1回

牧名不祥(甲斐御馬)      

   4回

 

(未完)

 






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最終更新日  2022年01月03日 06時39分05秒
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