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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年01月23日
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山梨県、歴史の間違い 歌は歴史資料ではない
古代御牧(勅旨牧)逸見御牧・小笠原牧
『甲斐国志「巻之四十七」古蹟部第十 巨摩郡北山筋
逸見ノ御牧 六帖・夫木集云家集 題駒牽甲斐或伊豆 紀貫之
みやこまでなつけてひくは
小笠原へみの御牧の駒にや有らん  
 
美豆御牧 六帖 よみ人しらず
小笠原みつのみまきにあるゝ駒
もとれはそ馴るこらが袖かも  
(夫木…みつ へみ)
 
堀川百首 顕仲朝臣
    をかさわらみつのみまきのはなれ駒
いとゝけしきそ春はあれます
(夫木…みつ へみ)
 
堀川百首 基俊
なつくともいかゝとるへき草わかみ
つみ牧にあるゝ春駒
 
堀川百首 仲實朝臣
をかさわらすくろにやくるした草の
なつますあるゝつるのふち駒
 名所百首歌奉ける時  新後拾遺集 従二位家隆
    春ぞ見しみつの御牧にあれしこま
有もやすらん草かくれつゝ
 
春駒みつの 橘 能元
    日をへつゝみつの野澤のまこも草
あをめは春の駒そいはゆる
 (甲斐国志註)
-按ズルニ穂坂ノ庄ニ三ツ澤村アリ
又小笠原ノ方ヘ通スル路ヲ三ツ澤通リト呼フ斥之カ)
 
文治二年五社百首  夫木集 俊成卿
    小笠原やけのゝすゝきのつのくめは
すくろにまかふかひの黒駒
 
題しらす  詞花集 僧都覚雅
    もえいつる草葉のみかは小笠原
こまのけしきも春めきにけり
 按ズルニ小笠原牧ハ古歌ニ詠ズレドモ
延喜式拾芥抄等及歴代国史ニハ
穂阪、眞衣野、柏前、三牧ノ外所レ見ナシ。
東鑑ニ承元五年五月十九日
小笠原御牧牧士與奉行人三浦平六兵衛義村代官有 
喧嘩事 今日被レ經 沙汰(中略)
早可改義村奉行之由被仰出被付佐原太郎兵衛尉云々トアリ、
古ハ小笠原ノ北上手村(小笠原の上方ト云義アリ)
浅尾、神取、皆引続キタル原野ナリシ由。
今茅ケ岳、金ケ岳、江草山等ニ
所レ牧ハ本穂坂同産ノ馬ナレハ
御取籠ノアリシ場所ニ因リテ其名ハ穂阪牧ナリ。
(小笠原ノ本巨摩郡ニ属ス事ハ穂坂ノ條ニ委シ)
美豆ノ牧トハ穂阪、小笠原、逸見三所ヲ差シテ云ナルヘシ。
逸見牧ハ即ち柏前牧ナラン事ハ其條ニ記セリ。
又夫木集ノ註ニ逸見牧或ハ伊豆トアルハ
彼州ノ西浦戸田ノ山ニ今モ散馬アリ、 
古ハ牧場ナリシト云ヘリ。
音近キ故ニ混ジ誤ルナラン彼ハヘダナリヘミニハ非ズ。
山梨の歴史講座 甲斐(山梨県)の古代御牧(勅旨牧)美津御牧(美豆御牧)
 甲斐国志以来山梨県の歴史展開は資料未読が多く、この牧も甲斐の古代牧として記述しているものが多く見られる。
① 『日本馬政史』(巻一P473~474)に次の記載がある。
 美津御牧の件-文治四年(1188)四月四日、被獻武衛御返事事造内裏事、早可致沙汰 、御厩司(ムマツカサ)事勅定之上非可辭申給 、美津御牧者、承及者為御厩ノ菅地歟、為後代今度尤可令申付給哉云々、(東鑑)
 (因云)美津御牧とは延喜式に云ふ、山城国美豆厩、(畠十一町)野地五十町餘、右二寮夏月、簡 御馬不肥者遣飼、亦諸祭寮ノ馬、同令 放飼 とある是也。
 ② 『大日本地名辞書』によれば山城国久世郡の御牧は、美豆と稱し木津川両岸に渉る。「名勝志」に云、美豆御牧は淀大橋の北也。古は馬寮の御牧にて放飼の地也。今美豆は綴喜郡に属し、狭少なれども、御牧は数村となる。
 ③ 「夫木集」にある順徳院の御歌に、かりてほす美豆の御牧の夏草はしげりにけりな駒もすさめる とある是也。
 前記の美津御牧(美豆御牧)の歌は甲斐御牧とは何らの関係も持たない御牧である。また眞衣野牧や柏前牧の歌は見えなく、『甲斐国志』の眞 衣郷の二首も他の御牧の歌である。美豆御牧を詠んだ歌は数多くありそれは凡そ次のようである。
17、美豆御牧
小笠原みつのみまきにあるゝ駒
とれはそ馴るこらが袖かも  『六帖集』
小笠原みつのみまきにあるゝ駒とれは
そ馴るこらが袖かも   『夫木集』 
 
みつのみまき
まこもかるみつの御牧の駒の足早く
楽しき世をもみる哉     『兼盛集』 
 
隔河戀
山城の美豆の里に妹を置ていく
たひ淀の舟よはらむ     『頼成卿集』 
 
美豆御牧
五月雨に里にもみつの河近みほす
かりこもや庭の浮草     『和歌名所詞花合』
美豆の江のまこもゝ今は生ぬれは
たなれの駒を放ちてそみる   『堀川院御時百首和歌』
かりてほす美豆の御牧の夏草は
しけりにけりな駒もすさめす   『内裏名所百首』
こりこもの五月の雲に成にけり
美豆の御牧の夕暮の空
まこもくさ末こそまては日数ふる
みつの御牧のさみたれのころ
美豆御牧
徒に美豆の御牧まこも草からて
浪こす五月雨の比       『菊葉和歌集』
名所百首
五月雨に駒もすさめすまこも草
美豆の御牧に浪にくちぬる    『順徳院御集』
美豆御牧の歌はまだ多くある。
『甲斐国志』以来の甲斐地書は『国志』を引用し自己解釈を続けた。歴史学の欠点は間違った私説記述を訂正しない傾向にある。中には自信たっぷりに「である」と言い切る文献もあるが、その論を裏づける資料は何も見えない場合がある。市川団十郎の伝記などその良い例である。諸説ある出生地についても甲斐国市川(周辺)の出身と断定し、それらしい説を肉付けして信憑性を増す手法は歴史創作にはよくある事である。史実であるなら単純に有効な史料を示すだけで事足りる問題である。
 甲斐の古道(官道)なども『延喜式』の駅名の順序が逆として論を展開しているが、その論拠は誠に心許ないものである。視野の狭さと研究不足が目立つ。歴史の確実さを追求するには、膨大な時間と弛まざる研究姿勢が必要であり、旧説との妥協や思い込みの先行する歴史論からは真実には迫ることはない。元来「謎を解明する」等の書や論文は「さらに謎が深まる」場合の大多く「耶馬台国論争」など好例である。
 柏前牧と眞衣野牧の位置関係や運営に携わる人々の関連の深さは文献書から浮かび上がる。文献からは眞衣野牧が主で柏前牧副と思われる。それは眞衣野牧の単独駒牽はあっても柏前牧単独での駒牽はなく、必ず眞衣野牧とセットで実施されているからである。眞衣野牧を現在の北巨摩郡武川村牧ノ原一帯(最近の研究ではその地域が拡大している)、柏前牧は高根町樫山附近の比定ではそうした三つの関係は想定できないのである。次にその眞衣野牧について史料をみる事にする。
 美豆御牧は『甲斐国志』の言うような、
「美豆ノ牧トハ穂阪、小笠原、逸見三所ヲ差シテ云ナルヘシ。」
ではない。
美豆は京都市伏見区淀美豆、久世郡久御山町美豆野であり、
『千載集』の頼政の歌に
「山城の美豆野の里に妹をおきていくたび淀に舟呼ばふらん」
とあり、
「山城の美豆のみくさにつながれて駒ものうげに見ゆる旅かな」
「比ぶべき駒も菖蒲の草も皆みつの御牧にへけるなりけり」
などの他にも「美豆の御牧」や「美豆野」を詠み入れた歌は数多くある。『甲斐国志』の混乱は『夫木集』に「みつ」を「へみ」に変えた事にもよる。また甲斐国志の編者の「美豆御牧」の認識不足にもよる。
また紀貫之の
「みやこまでなつけてひくは小笠原へみの御牧の駒にや有らん」
も京都府の久御山町では
「みやこまでなつけてひくは小笠原美豆の御牧の駒にや有らん」
と紹介している。
「逸見の御牧」は歌の世界のことで歴史文献には見えないのである。
 「美豆ノ牧トハ穂阪、小笠原、逸見三所ヲ差シ」の記載は間違いである。なお『甲斐国志』の眞衣野の項の歌も信濃御牧ケ原を詠ったもので眞衣野牧とは関係ないものである。
 昨年明野村永井原で発掘された遺跡が「小笠原牧」であるとのような発表があったが、この遺跡を小笠原牧と決定する説明はなく、ただ一度古書文献( )に見えるだけの「小笠原牧」と決定するには慎重な調査が必要で、「小笠原地名」の発祥地の南アルプス市小笠原の地名もあり、またこの地域は勅旨牧三牧や中世牧と係わる可能性もあり焦って結論を出す必要は認められない。
 残念ながら『甲斐国志』からは甲斐御牧の存在は解明できない。また歌に詠まれた地域名にしても諸説はあっても確定はできない。 1995年に発屈された甲府市塩部遺跡から馬の歯の一部が出土し、研究者が甲斐の馬の生産の起源が四世紀後半に遡ることを指摘された。また研究論文によると馬の体長は125 程度で働き盛りの「良馬」が犠牲として殺された可能性が強い。と言及されている。また東日本における四世紀の属する馬の出土は東日本でも数例しか認められていないとして、その四件の内山梨県の塩部遺跡から二件、中道町の東山北遺跡が一件で長野更科の遺跡がそれに続いている。
 甲斐と馬の関係は『日本書紀』や『続日本記』を始め多くの書に掲載されている。ある面ではこうした文献の内容の裏づけともなる。 こうした研究者の弛まざる努力がその解明に大きな力となるが、研究者の過大な推論は今後の研究の足枷にもなることもあるので注意が必要と思われる。日本でも最大級と称される『甲斐国志』をもってしても何の解明もない状況で、その後に著された諸本も歌や『甲斐国志』から脱却できずに混迷を深めている。所在地の確定は難しい状況であるが、数多くの文献から甲斐の御牧の規模や当時の牧の様子などには近づくことはできるのである。
 ここで『甲斐国志』に先だって刊行された『甲斐名勝志』について見てみることにする。





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最終更新日  2022年01月23日 08時43分28秒
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