カテゴリ:佐渡と甲斐を結ぶもの 佐渡銀山
甲斐ゆかりの人 佐渡奉行 御手洗四兵衛憲明(定重)
前経歴 大番組頭、目付 佐渡奉行 53歳 明暦3年(1657)~寛文2年(1662)の、5年間 後経歴 死亡 「寛敬重修諸家譜」 第千五十四藤原氏 支流
「祖先は、藤原氏にして、 武田信虎、信玄に仕えた甲斐国小石和筋の小山の城主、 侍大将の家柄であり、武田家没落後、徳川家康に仕え、 旗本別家の祖正久の養子になったのが定重(さだしげ)である。
養子先の父正久は、慶長5年(1600)徳川家康に仕え、大番となり、 二百五十俵、のち幕奉行になった。
佐渡奉行定重は、榎下六郎左衛門憲清の次男で母は武田家の臣であり、 養子先父正久の跡目を継ぎ、元和7年(1621)徳川秀忠に拝謁し、 大番となり、のち組頭に転じ、四百俵を賜る。 慶安元年(1648)目付に転じる。 慶安4年(1651)三百俵を加増。 明暦2年(1656)佐渡奉行に進み、 相模国に五百石を加増。 寛文2年(1662)8月59歳で死亡。法名凍結。 牛込の保善寺に葬る。(「寛政重修諸家譜」)」
このあと佐渡奉行定重の系譜は、次の代で絶えている。 定重は、鎮目以来の久々な大番組頭の出身であるが目付として6年間の実績を踏まえての佐渡奉行ということになる。 伊丹家と御手洗家との武田家臣時代、また、徳川幕臣としての立場を見るときにやはり、御手洗佐渡奉行は伊丹父子奉行の業績洗いだしと見るべきである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年02月01日 11時15分08秒
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