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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年02月03日
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山梨県の著名人 いま、故郷のために尽くす 関西経済連合会名誉会長 住友金属(株)名誉会長日向方齊氏(西八代郡久那土村車田出身)

(『ザ山梨 武田信玄と甲斐路』読売新聞社編 昭和62年 一部加筆)

 

地元の尋常高等小学校を卒業後、すぐ横須賀の海軍工廠で働くために山梨を離れたのは十四歳の時である。もう、三分の二世紀も前のことになる。

郷里は西八代郡久那土村車田で、現在は武田信玄の隠し湯で有名な下部温泉のある下部町に編入されている。車田は峡南と呼ばれる地域で、山梨県を南に流れる富士川の峡谷地帯で四方を山に囲まれている。平地が少ないうえに寒暖の差が激しい、 いわゆる寒村である。

当時は、私の村から甲府に出るには三里程歩して富士川を渡り、鰍沢からは鉄道馬車で二時間ぐらいかけて行かなければならなかった。身延――甲府間に鉄道が開通したのは私が東京大学に入学したころである。

遠出といってもせいぜい日帰りの修学旅行で下部温泉や鰍沢に出かけたくらいである。思い出に残る景色といえば、四尾連湖。遠足で一度行ったきりだが、御坂山地が富士川に落ちる西端、蛾ヶ岳の山懐に抱かれたその神秘的な姿に深い感銘を覚えた。

子供のころの食べ物はふだんの主食が麦飯、米のご飯は祝日だけ、たまに町から買ってきてもらう塩鮭が何よりのごちそうだった。また、冬、炉端でつつく″ほうとう″は母の味であり、飽の″煮貝〃も好物であった。

こんな不便な車田の集落には、七、八十戸が身を寄せ合うように立ち並んでいた。今からみると、いかにも貧しい生活と思われるが、当時の車田ではみな似たようなもので、これといって苦労したという記憶はない。家計の足しにと、休日にはよく裏山の木を切り出してまきをつくり、隣村まで売りに出かけたものだが、これも校庭の二宮金次郎の銅像を気取ったりしてむしろ楽しい思い出であった。

村は豊かとは言えなかったが、教育、文化には熱心だったと思う。大人同士で短歌の会をつくったり、子供の間でも車田文芸会などと称し、月一回作文、習字、絵などを書き、それを先生に添削指導をしてもらっていた。

小学校は久那土尋常高等小学校。同級生は男二十五人、女二十人で一学年一学級の小さな学校であった。私はここで生涯の教えを得ることになる。

校長先生は古明地文吉先生で、まだ二十歳そこそこであったと思うが、非常に卓見に富んだ人格者であった。毎週一回の朝礼で、「日本は日露戦争に勝ったけれども、たくさんのお金を外国から借りている。これを百円札にして積み上げてみる

と、富士山の何倍にもなり、横につなぐと地球を何回もまわれる。だから、みなさんは大きくなったら、このお金を返せるよう、お国のために一生懸命働いてください」と、 いつも同じお話を繰り返された。″お国のために尽くす″という教えは、のちに私が大学卒業後に就職した住友の″事業を通じて国家社会に貢献する″という理念と同じであった。

最近、私が関西経済連合会会長として、全力を尽くして実現にこぎつけた関西新空港の建設や、関西文化学術研究都市など二十一世紀に向けて日本の繁栄の基盤となる国家的大事業の推進にあたっても、この教えは大きな励ましとなった。

「三つ子の魂百までも」というが、″お国のために尽くす″という小学校の校長先生から受けた教えは、長年にわたる事業や財界活動を通じて、いつまでも心の支えとして私の中で生き続けている。

私は郷里に帰るたびに校長先生のお墓に参り、「先生、少しはお国のためにがんばっています」と心の中で報告している。

このような精神的支えとともに、山梨県から受けた奨学金も終生忘れられない。私は横須賀に出た後、働きながら高等学校の入学資格試験に合格し、東京高校、東大へと進んだ。その間、経済的に最も苦しかった高校から大学にかけての四年間、山梨県からいただいた年間三百円の奨学金は私にとって天の助けであった。

今日、私がまがりなりにも国家、社会のためにお役に立つことができるのも、このような郷里、山梨県から受けた物心両面にわたる支えがあったからである。私は知事の望月さんとも懇意にさせていただいている。時々、県の経済政策などについて相談にあずかったりしており、昭和五十四年には県から県政特別功労者に推挙していただいた。これから少しでも山梨県にご恩をお返しするために、県の発展に微力ながら尽くしていきたいと思う。

 

山梨県の著名人 私のバックボーン 日本貿易会会長 水上達三氏(韮崎市清哲)

(『ザ山梨 武田信玄と甲斐路』読売新聞社編 昭和62年 一部加筆)

 

私が三井物産に、東京商大を卒業して入社したのは、昭和三年のことであったから、昭和の時代のほとんどを商社マンとして過ごしてきたことになる。この激動の時代を生き抜いてきた私のバックボーンの一つは、まぎれもなく生まれ故郷、甲州の歴史と風土によって形づくられたものである。

私が生まれたのは、富士川の上流、釜無川が塩川と合流する韮崎に近い清哲村という小さな山村である。この村は、現在は韮崎市に編入されているが、甲斐駒ヶ岳の麓にあって南に富士、北に八ッ岳を望み、そしてまた東に新府の城跡が見える。

言うまでもなく、新府城は武田勝頼が信虎以来住み慣れた躑躅ヶ崎の館を棄て、信長・家康連合軍を迎撃せんと築いた城である。しかし、勝頼はこの城をも放棄して落ち延びていかねばならなかった。

さらに、村の宮地というところには武田家代々の氏神である武田八幡神社があった。小学校の先生や村の老人もまた折にふれ信玄を語ったから、自ずと子供心にも戦国の昔に思いを馳せることが多かった。

生家は古い農家で、私はその五男坊であった。高等小学校の一年を終えると甲府中学に進んだ。武田八幡の脇を通って新府城を仰ぎながら、その下にある韮崎の駅まで約一時間、それから甲府まで汽車で二十分。だから、毎日住復ではおよそ三時間半かかって通うのである。昔のことで、この汽車の駅に出るまでが一苦労であった。広い釜無川の河原を歩いて渡らなければならない。冬ともなれば、名にしおう八ツ岳颪がまともに吹きつける。

当時、靴は高価で確か二円もしたが朴歯の下駄は八銭であった。この石ころ道を靴で歩いてはたまらないので、みな下駄で通った。真冬でも素足である。油断すればすぐ足をとられて捻挫する。否応なしに足腰が強くなり、大学に進んでからも陸上競技の選手に引っ張り出された。

また、夏は酷暑、冬は八ヶ岳下しの吹きすさぶ盆地の激しい気象は、文字どおり私の気性にも影響を与えているようだ。

旧制の甲府中学は、意外に思う人があるかもしれないが、札幌農大のクラーク先生の伝統を引く学校であった。第一期生でクラーク先生の高弟、大島正健先生が、名校長の名をほしいままにされ、その遺風が脈々と伝わっていたのである。その影響もあって、私は外交官か商社マンとして広く世界を相手に活躍することを夢見た。かつて、郷里の先輩の多くは横浜、東京を舞台として個人で財を成し、「甲州財閥」と称された。

甲州財閥というものが実際にあるわけではなく、甲州出身の財界人をそう称するのである。彼らは、独立の気慨をもって「足と明かり」言い換えれば、鉄道と電力(交通とエネルギー)を一時支配し、東京を「制した」感さえあった。しかし、私の中学生時代には、第一次世界大戦が起こり、遠くヨーロッパの戦乱が日本にも無縁でないことを体で感じていたので、

なんとなく外国に関係の深い仕事を夢みたようだった。それはまた時代の要請でもあった。戦後になると事実、郷里の先輩小林中さんは日本開発銀行総裁として、世界の中の日本経済はいかに発展しなければならないかという立場で大きな仕事をされたし、浅尾新甫、小佐野賢治、小林宏治さんらもみな同じである。

こうして、三題噺めくが、甲州の風土と武田の歴史と甲州中学とは今日の私を形づくっているといって過言ではない。そして、 いささか他人とは異なった経験を積んだ目で見れば、武田信玄という人物は実に今日的で、その為政の理にかなっていることに驚かされる。一つだけ例をあげれば、あの「甲州金」である。甲州金については、いろいろと論じられているが、これは、私は信玄の為替政策であったと思う。信玄は金山開発に意を用い、甲州小判は、金の含有率が意図的に高くしてあった。このことによって、他国の通貨との交換レートが高くなるようにしたのである。つまり、今日で言えば円高政策である。これが輸入に有利であることは言をまたない。

山国で必要な物資を他国に頼らざるを得ないことは、今川の塩止めのエピソードに象徴的であるが、この政策によって輸入する側の甲州では大きな差益を得たわけである。

信玄といえば、ただ戦上手な戦国の武将と思っている人が多いが、その本質は優れた為政家であったと思う。戦争はしない方がよい。する場合には必ず勝つという考え方であったという。このことがまた信玄の強さの秘密であり、今なお人を魅了して止まないゆえんではなかろうか。

 

山梨県の著名人 父・根津嘉一郎 東武鉄道社長 根津嘉一郎氏著

(『ザ山梨 武田信玄と甲斐路』読売新聞社編 昭和62年 一部加筆)

 

山梨県人会の副会長をしている私が、生粋の甲州産ではなく、東京の生まれといえば他県の人の目には奇異に映るかもしれない。父に連れられてよく山梨に行った。トンネルの多い中央線では、蒸気機関車の煙に悩まされた。単線で、待ち合せとスイッチバックを繰り返し、五時間以上もかかって行った頃を思えば、中央高速道を自動車で一時間とちょっとで行けるのは、全く夢のような話である。

しかし、その頃の記憶も今となっては、春遠くの山すそに桜が棚引いているのが見えて、子供心に山梨とは美しいところだと思ったことぐらいになってしまった。その私が、今日まで山梨と強い縁で結ばれているのは血というより外はない。山梨県人は国にいる時は左程ではないが、 一旦外に出るとその結束は固く、互いに助け合うと言われるが全くそのとおりだと思う。

私の父、先代の根津嘉一郎は、現在の山梨市の正徳寺というところで生まれた。郷里の村長などを務めた後上京して、東武鉄道や富国生命はじめ二百数十の会社を興し、財界にあってはひとかどの働きをした人であったが、いわゆる財閥とも、政治ともかかわりを持たぬ独立独歩にその真骨頂があった。

その父を、私の目から見ても立派だと思うのは、私財を公共のために、あるいは文化のために惜し気もなく投じたことである。それらは今日でも、根津美術館や武蔵大学などとして社会に役立っている。また、郷里に対する報恩・感謝の念は、殊の外強かった。大水の毎に流されていた生家近くの笛吹川に、当時としては珍しかったコンクリートの永久橋をかけたり、さまざまな寄付を行なった。

昭和十年頃には、やはり当時珍しかったピアノを山梨県下の全小学校に贈った。この寄付は非常に喜ばれたとみえて、終戦後になって、このピアノで音楽を勉強されたという方々が音楽会を催され、私も招待され感激したことがあった。

先代はまた、「贔屓強い」人であった。他人の面倒は徹底的にみて、また頼りにもされた。戦後のいわゆる「保守本流」の中で桜田武、水野成夫、永野重雄さんと並んで「四天王」と呼ばれ、長い間財界の中枢にあった小林中さんもまた、山梨県の出身である。この小林さんも先代とは非常に近い関係にあった人である。

当時は、富国徴兵保険といった富国生命の支配人をしていた小林さんは、郷誠之助さんが主宰する財界グループ「番町会」の若手メンバーになって、永野護、河合良成、正力松太郎さんらの間に交遊を広げていった。この番町会が昭和九年、 いわゆる「番町会事件」とも「帝人疑獄」とも言われる疑獄事件に巻き込まれたのである。この事件は裁判の結果、全員無罪になるのだが、この時の先代と小林さんのとった態度は、いずれも甲州気質の典型を示しているように思う。

小林中さんは、この時「他人に迷惑をかけるわけにはいかぬ」と、取り調べに対し一切しゃべらなかったという。こういう「侠気」を重んずる気風が確かに甲州人には強い。このことが財界の長老、先輩、朋友間に「若いが骨のある男」と評価され、後々まで深い信用を得ることになった。この時、小林さんは二十代半ばの若さであった。

一方、先代は「贔屓強い」と言われた本領をいかんなく発揮した。物心両面の援助はもちろん、裁判に証人として立って、徹頭徹尾、小林さんをかばった。それはまるで、父親がわが子をかばうようであったと評された。事件に連座した河合良成さんは、その時の様子を著書の中で「さながら慈父の如し」と記している。私にとっての「故郷・山梨」は、そのようなものとして、父や諸先輩の姿を通して私の心の中にあるのである。

 

山梨県の著名人 郷里が近くなった アサヒビール(株)韮崎高校卒業 副社長 米山武政氏

(『ザ山梨 武田信玄と甲斐路』読売新聞社編 昭和62年 一部加筆)

 

いよいよNHKの大河ドラマに武田信玄公が登場する。全国が信玄ブームに湧き、山梨のさまざまな風景や風俗が全国に紹介されることだろう。山梨を郷里にもつ私たちにとって、わくわくするほど嬉しいことで、今から待ち遠しいことだ。

中央官庁、政府機関に長く勤め、その後東京に本社のある民間会社に籍を置く私にとって、遠くにあって思うもの程度の存在であった山梨が、急に近くなるような出来事が今年は二つあった。

今年のはじめ、都内のホテルで旧制韮中・韮高の同窓会が開かれ、出無精の私も重い腰を上げて出席した。山梨から校長先生がおみえになってご挨拶されたが、思いがけずもそれが同級生の進藤慈成君であった。そのとき、進藤君から一度母校に来て後輩に何か話をしてくれないかと頼まれてしまった。

約束の七月九日、学校の間が近づくと私は躍る心を押えることができなかった。なにしろ、昭和十九年に学校を出てから四十数年間もご無沙汰していた母校だ。建物は大きく立派になったし、案内された校長室に掲げてある校歌も私たちが歌った「八ヶ岳おろし」とは違っていたが、私たちが青春をすごした母校がそこにあった。体育館をいっぱいに埋めた生徒たちは、私たちの時代と違って半数近くが女子生徒であり、下級生のあまりに幼い感じに始めはとまどったが、 一時間半、話を進めているうちに、壇上の私を見上げる少年たちの顔に私の少年時代が重なった。

軍国時代の私たちの学園生活は、今の豊かさとか自由な雰囲気という点では比ぶべくもなかったが、楽しい思い出に満ちた日々であった。むしろ、周囲の環境が厳しかっただけに一層この狭い学園の生活が充実していたのかもしれない。

復活した母校との縁はこれからだんだん深くなっていくような気がする。昭和五十七年に完成した中央道路は、山梨

県民にはかりしれないよい影響をもたらしている。この道路の建設の最後の段階から開通の時期に日本道路公団の理事として多少でも郷里の発展のお役に立つことができたことを誇りに思っている。

山梨県を貫く長さわずか百キロ属、投資額二千億円程度のこの道路が、山梨を首都圏や中部経済圏と結びつけて、経済後進県を経済先進県に変えている。この道路の完成後の山梨県民所得の成長ぶりは、毎年、全国平均のほぼ二倍になっており、四十七都道府県のトップクラスの成長率だ。経済企画庁の発表では、県民一人当たりの所得では昭和五十九年で山梨県はすでに全国の十七番目になっているので、新しい統計はまだ発表されていないが、現在では大幅に上位に躍進しているだろう。十年前の昭和五十年には全国三十七位で最下位グループに属していたことを思えば、目を見はる躍進ぶりだ。今年から国産ワインの分野に進出する方針を決めた私の会社では、その拠点を山梨県に定め、手はじめにブドウ生産の中心一宮町の高速道路沿いの高台で、交通も至便な場所にあるワインエ場を譲っていただいた。そして思いがけないことに、この九月から私はこの会社の責任者を兼ねることになった。地元一宮の町を挙げてのご協力をいただき、生産は順調にスタートしている。これからは、時々工場をたずねることになり、また工場からの報告で故郷の便りが聞けることになるだろう。この工場の規模は今のところは小さくて、山梨にある他社の大工場とは比較にならないが、時をかけて立派なワイナリーにしたいし、外国にあるようなシャトーもつくれたらいいと思っている。

九月に海外出張に出掛ける予定としていたが、急拠この予定の中にフランスやドイツのワインの名醸地の視察を追加するといったいれ込みようである。

東京生まれの東京育ちで父親の郷里、山梨をあまり知らない子供たちと一緒に、いつの日かこのワイン会社のシャトーから、春は桃の花のピンク色に一面染まり、秋は棚もたわわに実るブドウにおおわれた甲府盆地を眺望したいと思っている。

 

 

山梨県の著名人 小佐野氏との交流 山梨県、中巨摩郡落合村出身 

全国興業組合連合会会長 武蔵野銀行(株)社長 河野勝雄氏著

(『ザ山梨 武田信玄と甲斐路』読売新聞社編 昭和62年 一部加筆)

 

私は山梨県、中巨摩郡落合村で生まれた。落合村は、今では甲西町と呼ばれているが、ここは甲府盆地の一番西の端にある。その先は最早平坦地ではなく、地元では西山と呼んでいる櫛形山がそびえている。私の家はその櫛形山のスロープの一部をなす台地の上にあったので、甲府盆地を一望に見晴らすことができた。また、この辺りは桃やすももの一大産地であるので、春になると、台地から平野にかけて桃の花が一斉に開花し、まるで桃色の霞がたなびいたようになる。それは美しい

眺めで正に桃源郷に住む心地がしたものである。甲西町を北に上ぼると櫛形町、白根町を経て韮崎市に至る。いずれも釜無川を右手に見ながら上ぼる道である。韮崎市の西側の台地。鳳凰山の麓。ここが、のちに甲州、武州、信州に覇をとなえた武田家発祥の地である。また、わが村の中、鮎沢というところには古長禅寺という寺がある。この寺は、信玄公武田晴信の実母、大井夫人の葬られたところである。私たちは普段「大井夫人の寺」と呼んで親しんでいた。

毎年五月になると、村には端午の節句の職が立ち並ぶ。いずれも武田信玄公の川中島の戦いぶりが染め抜かれていて、それが青空にはためいている景色は、今でも私のまぶたに焼きついている。武田信玄は、従って私たちにとっては他人ではなくわが故郷の山河と共にわが心の中に生き、わが血肉の一部をなしているのである。

人は石垣 人は城

情は味方 仇は敵

有名な武田節の一節である。私は独りで仕事をしている時など、ふと気がつくとこの歌を回ずさんでいることがある。別に意識して覚えたわけではないのだが、有名な歌でもあるし、私の場合、山梨へ出掛ける機会が多いので、この歌を耳にすることも多いのかもしれない。その上、節回しも、われわれ年配のものにぴったりくるので、知らぬ間に口ずさんでしまうのだろう。しかし、口ずさみながら思う。これはすばらしい人世訓であると。

武田信玄の人物像については、偉大な英雄だけに、普通の人の物指しでは計り切れぬ面もあるためか、その評価は肯定、否定、さまざまに分かれるが、私はこの土地で生まれ、この土地で育ったものとして、やはりこの武田節の一節が最も武田信玄の本質を表わしているように思われる。

私は昭和二十七年に笈を背負って東京に出てきた。雨来二十有余年の歳月が過ぎた。この間に、多くの先輩諸氏のお世話になったり、また引き上げていただいたりして、今日に到っている。その中で自分の師として最も多くのことを教わった人は、同郷の大先輩、今はなき国際興業社長小佐野賢治氏である。氏との出合いは、昭和三十九年東京オリンピック直後、諏訪でのある仕事を通してであったから、昨年の秋なくなられるまで二十三年間ものおつき合いになる。

小佐野氏から学んだことは一言で言えば「人に尽くす」ということである。あれだけの人であるから多くの人からさまざまな相談や頼みごとが持ち込まれたと思うが、小佐野氏を知る人は異口同音に、「小佐野さんという人は一度頼まれたことは、どんな些細なことでもいい加減にせず、真剣に考え、必ず白黒のはっきりした形で返事をされた人であった」と言う。

小佐野氏は、昭和六十一年十月手術の甲斐なく不帰の客となられた。その前九月に一旦退院されたが、――これはあとになって伺ったことだが、その時には既に自分の病状について的確に知っておられた由である。しかし、端にその素振りも見せず普段と変わらず頼まれごとなども誠実に処理されていたとのことである。実はこの間私も一つ頼みごとをしたが、直ちに木目細やかに処理をされ、感謝していた。後日、当時の病状を聞き愕然とすると共に、氏より最後の教訓を受けた想いがし

た。小佐野氏は、そのあまりに多彩な活躍の故に、現在でも世間の評価は毀誉褒貶半ばする感があるが、私にとっては最大の師であることに変わりはない。また、小佐野氏はあれほどの仕事をした人であるから人材の確保育成には殊のほか努力をされ、特に新しい事業を手に入れると、これらの企業の社員をそのまま引き継いで活用され、社員もまたこれに呼応したと聞く。小佐野さんもまた、「人は石垣、人は城 情は味方、仇は敵」を身をもって実行された方ではないだろうか。

最後に一言。甲州人は働きものである。だがその優れた勤労精神の故に時とすると他人から批判の対象となることなしとしない。これからは武田節のあの一節を合言葉にして「甲州人は斯くありたい」と。そうしてこぞって前進したいものである。

 

山梨の著名人 美しの故郷・山梨 サントリー副社長甲府市和田町出身 吉田冨士雄氏著

(『ザ山梨 武田信玄と甲斐路』読売新聞社編 昭和62年 一部加筆)

 

山柴水明の甲州、いたるところに観光資源がいっぱいの山梨は、どこに行っても本当に美しい、実に嬉しいとこのごろつくづく思うようになりました。甲府中学の頃、もう四十五年以上も前の元気がよかった時代には、八ヶ岳や大菩薩峠、山中湖や富士山と友人をさそい、思い切り山梨を歩きまわりました。山がそこにあるから登るんだという元気なときと違い、最近はいろいろとみてきた他の国々の山河もよかったが、やはり故郷の山々、祖霊まします甲斐の山々は美しいし、心安まる

し、本当にいいという気持ちになってきました。最近、両親や親しい人たちをこの地でなくしたせいでしょうか、六十過ぎた年齢のせいでしょうか、とにかくこのところ月に少なくとも、二、三回は東京から出かける山梨。その山並みは美しく、なつかしく感じます。

そのなかでも、私は甲府市和田町の生家からみる南アルプスの連峰が一番好きです。厳冬、 一高受験直前の頃、烈風のなか、冬の夕陽に映えて毅然とそそり立つ南ア連峰は白瞳々たる姿で厳しさを教えてくれました。母を亡くした翌朝、 一人淋しく朝露の庭に立ったとき、青一色の夏姿の南ア連峰は、優しくいたわりの言葉をかけてくれました。

この八月、県の幹部や早川町長の御案内で「かえで会」のみなさんと南アのふところ、北岳や間岳の麓にあたる奈良田の全くひなびた里(孝謙天皇が千三百年前に八年間滞在され、信玄公がその故に永代年貢免除をした秘境で、関西なまりの言葉と七不思議があるところ)にお邪魔して、そのたたずまいにいたく感動いたしました。鯉のあらいや地粉のそばもおいしく感激しましたが、なんといっても「きびのご飯」が素晴しく一番好評でした。南アの味をゆっくりかみしめました。

その夜、望月知事はじめ県の幹部を囲んで山梨の将来について恒例の意見交換をいたしました。当面の課題は、

    ォッサ。マグナ地区を縦断する中部横断道路の早期実施と

    東京、甲府、名古屋、大阪を結ぶリニアモーターカー(磁気浮上鉄道)方式による中央新幹線の促進、特に東京、甲府間のモデル線の早期実施の二点でした。

このリニア線については、北海道、埼玉その他全国各地で競願となっておりますので読者のみなさまには、是非とも山梨

線へのご理解とご後援とをお願いいたしたいと思います。

来年はNHKで「信玄公」をとりあげていただけるということで、山梨は大張り切りですが、「独眼竜政宗公」の仙台に比べるとまだまだ熱気と準備が足りません。この春、青葉城や広瀬川のあたりをまわってみましたが、その熱意、整備状況、すべて完壁でした。詳しく山梨の人たちに説明し、昨年国体で示した心こもる思いやりを来年にもう一度是非、と言っています。私もいつの間にか、在京甲中、甲府一高同窓会会長、税務山梨県人会名誉会長、在京政経懇談会副会長等々、いろいろなものを仰せつかって、他県にいっても、すぐ山梨のことを思うようになってしまいました。口にまで出すのは御節介かもしれませんが……。

それに、サントリーも今や山梨は第二の故郷となっています。北の白州では世界一のウイスキー原酒製造工場、甲府市の近くの双葉町では日本一のワイン用ぶどう園をもつワインエ場、その横では昇仙峡ゴルフ場を経営、甲府駅ビルにはワインレストランも開いており、みなさまにサントリー製品をたくさん愛飲していただいております。

最後に、武田家中興の祖といわれている同家七代目の信武公のことについて少しふれたいと思います。

ご案内のように武田家の初代信義公は、甲斐源氏の祖。新羅三郎義光の曾孫に当たり、武河荘武田を拠として頼朝から駿河と遠江の守護に任ぜられました。しかし、その後失脚、七代目の信武公は足利尊氏の姪をもらい副将軍と呼ばれ、兵庫助、甲斐守、伊豆守、陸奥守などに任じられ、九州探題や安芸の守護も兼ね、武田氏の繁栄をもたらしました。信武公は、月舟和尚と相談して、現在の甲府市和田町に金剛福衆山法泉寺を夢窓国師の開山として創建されました。信武公を慕う九代あとの信玄公は、同寺を甲府五山の一つとして厚く遇しました。快岳禅師は京都から勝頼公の首級を持ち帰り、同寺の信武公の墓の横に葬り、家康がここを勝頼公の菩提寺と定めました。是非一度お訪ねください。






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最終更新日  2022年02月03日 04時20分02秒
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