カテゴリ:馬場美濃守信房資料室
各地に残る馬場美濃守の法名 ○ 高野山位牌 甲州府中馬場美濃守大□ノ為ニ小田切又三郎建立之 天正三年乙亥五月廿一日死去 天正四年丙子十月十八日 ○甲斐甲府の馬場信寿可家系書に馬場美濃守の子に信翁乾忠居士 霊位 信忠の法名 長男…信忠-信次(丑之助)甲府平瀬の太寧寺の再開基をした人物。 甲府古籠屋小路馬場美濃内方逆修ニ 明窓理園大姉 寿位 天正四年丙子十月十八日 小田切又三郎建立之 信興…信房の孫、長篠で討死、法号 乾叟自元 ○小田切氏消息 末男…昌松(小田切又三郎)又三郎は祖父の小田切下野守家を相続する。『馬場信寿家家系書』 【註】 小田切氏は馬場彦左衛門の家系にも見える。『寛政重修諸家譜』によれば氏勝(信房)の妻は小田切下野守某が女で、氏勝の子昌松(まさしげ)は外祖小田切下野守某が家を継ぐとある。「信翁乾忠居士」は信忠の法名 ○山梨県北巨摩郡白州町白須自元寺位牌 甲斐国志 乾叟自元居士 家臣原四郎承遺言携遺物遺骨等来於白須村自元寺法事相勤御墓石塔立来 ○甲府市平瀬 太寧寺 火災に遇い現在は『過去帳』『寺記』などは無い 『甲斐寺 記・神社記』 乾叟自元大居士 追諡 ○長野県上水内郡信州新町興禅寺位牌 ○愛知県南設楽郡鳳来町医王寺位牌 天正鑑公大禅定門 追諡 ○長野県上水内郡信州新町興禅寺過去帳 追諡か 神峯院殿馬山遠場大居士 追諡 ○山梨県塩山市恵林寺墓碑 山梨県北巨摩郡高根町植松正邦家墓碑 秀體院傑山常雄大居士 追諡 ○静岡市北安東 馬場清家系図 英忠院殿天雄智伯居士 追諡 ○山梨県北巨摩郡武川村万休院牌子 万松院殿岳塔円大居士 追諡 ○甲府市朝気町馬場信寿家系図 信翁乾忠居士 信房の子、信忠の法名 ○長野県中野市壁田馬場宗家墓碑 大祥院殿賢誉源信義住大居士 追諡 ○愛知県設楽町田口福田寺位牌 龍嶽院殿大法寿山大居士 追諡 武田家・馬場家関連記事 天正 四年 1575 ○勝頼署判 九月六日 軍条目(陣屋武具等)馬場民部少輔同心 宛 ○信房の子民部少輔信春 牧ノ島城主。天正十年迄(?)…『馬場家系書』 天正 五年 1576 ○勝頼、一月二十二日北条氏政の妹を娶る。 天正 六年 1577 ○勝頼、北条氏政の要請で信越国境に武田信豊を派遣。 天正 七年 1578 ○上杉景虎、自害する。 天正 八年 1579 ○勝頼、三月駿河浮島ケ原にて北条氏政と戦う。 天正 九年 1580 ○勝頼、真田昌幸に命じ、韮崎片山新府城を築城、移城。 天正 十年 1581 ●馬場美濃守信忠、三月於信州深志城にて討ち死に…『馬場信寿家書』 小田切氏が信翁乾忠居士の法名を高野山に納めたのは天正四年の事? ○武田勝頼、甲斐田野にて自刃す。武田時代信虎・晴信・勝頼三代終わる。 天正 十一年 1582 ●信房ノ奥方一ノ宮木工朝俊女天正十年卒。信州牧之嶋興禅寺 年五十三歳。 文禄 元年 1591 ○馬場民部信久駿河守死す。甲州武川谷大河原根護(小)屋の城に居住。 【筆者注】 馬場美濃守の生涯年譜を作成して見たが、正確さには自信がない。それは『家系書』…『馬場家系図』の信憑性に欠けるからであるが、馬場美濃の家臣団は南巨摩や東山梨郡に多い。今後の調査のヒントになる。 馬場丹後守忠次は甲斐下部町常葉の馬場家の家系に見え、江戸前期には馬場八左衛門の名が見える。 参考 馬場美濃守虎胤について(詳細は不詳) 甲陽武田信玄公より谷村御領主代々御郡代 馬場美濃守虎胤 (信房の可能性もある) 甲陽武田勝頼 御郡代 馬場美濃守虎胤…『河口湖畔 船津今昔物語』より引用。 【筆者註】 馬場美濃守虎胤については全く不詳である。 武田時代に於いて甲斐の郡内地方の郡代を勤めていたと思われるが、伊東堅吉氏著の『河口湖畔船津今昔物語』の引用元 が知りたいところである。虎胤の名は勇将であった原美濃 守虎胤がいるが他には見えない。 馬場美濃守の築城と縄張りについては東京都武蔵野金谷山大法禅寺の開創三百五十五年記念誌に掲載があるが、現在の長野や静岡を今後とも調査して見る必要がある. お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年02月03日 06時19分50秒
コメント(0) | コメントを書く
[馬場美濃守信房資料室] カテゴリの最新記事
|
|