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2022年02月10日
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甲斐府中 代官町に大久保石見守殿


新府中聞書(2)兜嵩雑記(とんがざっき)

代官町に大久保石見守殿と申御郡代有之、

然る所金山見立役被仰付、石見守佐渡国へ被遣ける、

然る所日々夜々におこりつのり、

剰へ逆意企てけるか天の御罰のがれ難く、

終には家断絶になよび候よし、

 

甲州においても古府中八幡宮之神主彌兵衛と申者を切殺せり、

尤神前におゐて不禮の儀有之しよし、

右彌次連之者北下條神主宿に罷在候を、

石見守家来竹川監物、渡邊武右衛門両人にて

尋ね出し鑓玉に揚げしよし。

 右神主退転に及び候由、其後佐渡と山城守今に至迄此血脈也、

叉甲府御家老諏訪若狭守、

新見備中始て國接見之節右両人を討取たり、

右武右衛門相果候砌、光明山之ばけ物是をつかみ行を、

其時龍王寺慈松寺の住僧座禅致し被候けるか、

ふと空中を見給へは死人をつかみ飛行有様成けれは、

則住僧印をむすひ給ひ祈念をこらし給ひけれは、

彼のばけ物死人を落し飛行けり、

是則武右衛門の死骸成しとかや、

此時より曹洞宗慈松寺旦那に罷成、

 

また

寛永年中之頃大久保石見守(長安)尊體寺旦那と相成

尊體寺を大安寺と改る筈の所、

其尚の除地誓願寺屋敷之内、

源正寺叉来迎寺この山は八幡長禅寺境迄大安寺之縄張也、

間事に夥しき普請成り、土砂材木等は皆鍬澤より来る、

然る所天之文字は大の字を之御祈願所、

大之文字は国司の祈願也、依之天之字、

大之字を付るは逆心之始也と大きに争論に及び、

来迎寺は瑞泉寺之末寺なり、叉

源心院、權長寺、長信院、帰春院、智心院迄七ケ寺有を、

石見守任我意大安寺之境内と定る、

故に瑞泉寺住僧季山和尚石見守と大論に及ひけるか、

漸々扱ひ候て事済ける、

右之替り薬師堂より七里塚迄、此時瑞泉寺之境内、

慶長九卯年之事成りとそ、

 

  光澤寺は

 

 古へは長圓寺と申し、武田の御一族、

大久保石見守此の長圓寺と逆心を企み候模様顕れ、

石見守切腹にぞ及びける、

此節秘蔵之枕箱あり、

右御取上相成枕箱御改被成候所、

何事か有けん石見守葬禮之帰り待請、

石見守子供三人御成敗被仰付候、

長圓寺儀石見守え武田家定紋割ひしの幕貸候に付、

跡寺領京都束本願寺へ納候、依之京都より使僧當着いたしける、

 

此時光澤寺京都へ被參、寺競改り本願寺持ちに相成り、

公家衆武田織部殿末流也、

松平美濃守殿御願によって

宝永年中帰參にて武田織部殿知行五百石、

小石和村にて被下置ける、

右長圓寺はi玄公御孫之由申し傳え候、

其頃尊称寺之門は古今珍敷造作たりとかや、

是石見守寄附の門なり、

闕所御拂被成り、

右寺旦那之は三分一を申請叉々寺へ寄附いたし候、

是は享保中の事成り、さて尊體寺事同年末の二月類焼いたしける、

大泉寺寺領百石相滅し、八幡官之此領も百石相滅しける、

 

 爰に愛宕山の御本尊と申は、

 

 

 

相州小田原蓮池御陣之節、相州之愛宕山より信玄公御持来被候、富國愛宕山へ納給ふとなり、長憚寺は信玄公御母公様御菩提所也、西郡鮎澤村長憚寺より甲府へ移し、信玄公佛法御聴聞は諏訪安固寺明察和尚、依之今安国寺は長憚寺是なり、

 

小松村法泉寺は勝頼公御菩提所、

 帯那村幸澗寺は武田左馬助殿御菩提所、

 櫻井村正陽院は逍遥軒之御菩提所、

板垣村に東晴寺(東光寺)と申寺有、寺領貳拾石済家宗也、

信玄公之御嫡子茂信公御菩提所也、

 

  帰命院

 

元 和年中に破却いたしける帰命院は、元道心者念佛勤る坊主成りしか、教安寺五代目岳陽上人今之所へ引寄給ふ、其砌善光寺にて正月元日に燈籠佛開帳致し給ふ、今に至迄帰命院被致之古例と成り、知命院は教安寺之末寺也、主計頭殿制札も同し様にと也、誓願寺は尊體寺之末寺也、尊體寺妙矛上人防居して旦那三分二寄附被申、此時より誓願寺と申し、下横澤に誓願寺屋敷と中小屋敷庵の屋敷跡有、此事寺にても今はしる人なし、また能成寺は元時宗成りしか本尊阿弥陀陀也、文禄年中の頃能於寺チク榮和尚は済家宗也、

 

慶長四未年、四奉行富国御出之節被仰立、今の能成寺え移り、禅師武田の御一族と號し、櫻井某殿は武田普代之士にて、右之チク永和尚の縁者たる能成寺は、其縁を以チク永和尚御菩提所寺領望次第、一蓮寺におとらぬ住僧望み無之よし被申す所、納所此事を承大きに驚き、様々異見いたしけれ共一向不聞入、無致方御奉行様は鰍沢宿迄御出立被成りける、然る處能成寺役僧鰍沢迄被參、境内並御朱印廿石頂戴いたし候由、

 

光圓寺は信玄公之御寺なり、今の御城は一蓮寺之境内成りしか、郷分蔵田村へ移しける云、大光寺は今の御城之辰己櫓の南に有しを、文禄辰年東青沼村へ移しける、

 

一蓮寺開山

一蓮寺開山は武田安藤守(一条)源時信公、

 

扨また光澤寺は御崎之上に有しを今の所え移しける、巡光村は天正の頃川原故しか、伊奈熊蔵殿御縄張して町績きの一村と成り、天和・貞享之頃迄新町と申し、村申請役免許、屋鋪年貢諸役免許、東光寺は元は真言宗故を、武田御一族南部次郎遠光御建立被故、其節に宗門替りしとかや、今奥州貳拾萬石南部大膳太夫利済之御家也、

 

千松院之鎮守『遠光大明神』と申し、

 

また茨の木に造り立の由申傳ふ、

 

大永二壬午年御勅使川、釜無川一ツに成り東へ流出し、龍王村壹の堤が切れ、釜無川、荒川一ツに成り、村々満水に及び、東え流れ笛吹川と流落合故か落合村と名付しとかや、

 

荒川西に高畑村、郡は山梨也、信虎公御時代御直々水御防き被成り給ふとなり、此みぎり坂上拾八ケ村拾五以上、六拾以下の男不嫡孫出大水を防かせ給ふ、夜中の事なれは信虎公御差圖被遊、一人前松火一抱え宛持来候様被仰付、依之皆々松火一抱宛不嫡持出し候由、此時より長松明を名付て「むてふたい」と今の世迄も世の人云傳ふ、爰に叉駿州大納言様さまざまの御不行跡之事多き故、甲州神主共駿河之國浅間之官におゐて、御神楽被仰付、神主衆へ御褒美粧下候、

 

寛永四卯年御逼塞被仰蒙、また其後同中年上州高崎へ御引移被成り候、御供廻り御拾貳前より三分一に滅し給ひしとかや、

 

甲斐國御入國之砌道筋身延山へ御泊り、駿河より御供之諸士、蒲原より三保え御出被成り候得共、武士家敷無之故皆町宿三ケ年御滞留有之、直また寺院にも御止宿被成り候由、扱其後上州へ御引移之砌、信州真田伊豆守殿え被仰關所居へ、甲州より三分二備へを伊豆守殿へ御止免被戒、高崎への御供は三分一にて御越被成り候よし、大納言様之御出立は朱にかいらきの御鞘の御腰物、其節は御手討などは無之、御家老松平筑後守殿御嫡子始、其外暦々あまた御手討またまた始まりしとかや、暫く御手討の沙汰無之、上下安堵之思ひをいたせしに、またまた如此之始末聞事に歎きは敷御事なり、大納言様日増強悪つのらせ給ひ、酉年正月御櫓の上にてはらみ女を御覧被遊び、かの女の腹を切割見たきとの御事、近習小姓大きに驚しといへ共御諌言奉申上へき者もなく、ただあきれたる斗成り、然る所湯浅何某と申者才智有人にて、かの女を連れきたり、同し所に畔菜をとっておき、かの女の腹より少々取出し見て申上けるは、此女まったく孕みしには無之段申上けれは、大納言被けるは、腹の大きく見ゆるは何ゆへそと、少々御怒りの有様成り、然とも湯浅少も恐れす則申上けるは、女の腹大きく見得候は畔菜を懐中いたせしなりと、則懐中より取出し御覧に人けれは其まゝ御冤被成りしとかや、誠にあやふき事共成、夫より寛永中年より貳拾六年か間、本丸へ畔菜献上被遊ける。

 

寛文元丑年八月廿八日甲府左馬頭様え被進候、府中横田町は元塩部村の内なりしを、文禄之頃を定めをきしとかや、叉府中に鹽澤町、下鹽澤町と名付たる町有り、是を何時の頃よりか上横澤町、下横澤町と申し来たりし成り、また前々は上は八日町、下は伊勢町に三八四九之の市場小路と申、叉正保年中之頃は嶋上條千塚村、鹽部村大通りへ市場有之しか、平岡勘三郎殿御見立有りて赤坂通りに替わる、其の頃までは下今井村といふは無之、上今井村より歩役罷出、是より新井村、上今井村諸役御免、是は四方之村々遠き故御見立被付しと也、

 

文禄之頃伊勢町四九之市場立、右壹丁目を上伊勢町と申し、亦貳丁目を下伊勢町と云う、また二町目を下伊勢町と云う、同三丁目に酒屋十七軒在り、叉伊勢町にときや、金具屋、鞘師杯有、此砌は市場殊之外ににぎやかなり、横近習町紺屋七軒有、是より染物持出し商売いたし候、寛永の頃よりそろそろおとろへ、正保年中に至右市いつとなく相止候よし、抜また白山社之前新道造る、元和五年中四月也、御城代鳥井土佐守殿被仰付と也、直叉樅近習町薬師堂之前へも新道造、是を人々大きにかなしむ、是は町々家の鬼門に當る、丑寅之間に風穴あきて人々眉をひそめける、はたして翌年万治二年正月廿六日、伊勢壹丁目北側にて町人五郎兵衛宅より出火、町中多く焼失いたし候、是を其頃『大蔵火事』と申す、

 

叉古府中に法華宗佛国寺と申す屋鋪跡有り、正保年中の頃、住持誘刄坊と云悪僧、人をころし御仕置に相成り、其跡たいてんに及び候由、また寛永の頃遠光寺村に他国寺を移す、早川三右衛門と申す人之親類佐渡国より来り居候か、甲斐守殿へ願出候に付、遠光寺村に右佛国寺を建立いたしける。横近習町に旅籠屋五郎兵衛と申す者有、此の人は武田御時代より打績舊家成か、請負人にて善光寺山門を建立致し、正保三年の頃とかや、爰に叉北山筋山宮村より高就と云大木出る、其木の根株八畳敷有しとなり、この頃善光寺にておどりといふ事始る、追々流行いたし寛文五年柳町、八日町、伊勢町よりおどりを出し、平岡勘三部殿御屋敷え參り候由、尤此勘三郎殿と申は其節之御代官也、叉其後御筆元田中庄兵衛、助右衛門両人京都被參、角與市を甲州へ被召寄、慶長之頃市川大門村にむゐて、のり入紙すき様おしへしとなり、また鰍沢より駿州蒲原宿迄之川舟乗り始めしは與市成りとぞ、また道祖神祭は貞享之頃は、子共鳥の冠をかむり、鉦をたゝき、笹竹を仮屋に作り、是へ御幣を飾り祭る、正月十四日夜に入右笹竹を町之出はつれにて焚、其時「ひび・あかぎれ・治れ治れ」と唱へ、どっともやし候上争の世迄も『どんど』と申とかや、大鼓打始は八日町札之辻より始る、

 

 

 






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最終更新日  2022年02月10日 12時38分47秒
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