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佐渡の金山 この世の地獄
磯部欣三氏著(佐渡博物館歴史部長) 一部加筆 山梨県歴史文学館
目籠で送られた無宿者たちを待っていたのは 地獄の鉱山の過酷きわまる水替作業だった
「島流し」と「島送り」
佐渡という島は、遠島の判決を受けた「流人」と、都市を徘徊していた無罪または軽罪の「無宿者」の、二種類の外来者を受け入れた島であった。だから少々、複雑な性格を持つのであるが、前者を「島流し」、後者を「島送り」と呼んで、区別して考えると便利である。
佐渡を外側から眺めるひとは、この島に、哀しい想念を潜在させる。
芭蕉が『銀河の序』の中に載せた『荒海や/……』の一句にもそういう集約された感情がある。芭蕉は対岸の出雲崎で波の穏やかな七月(陰暦六月)にこの句を詠んでいる。 芭蕉は、日本海の波間に見えかぐれする佐渡の島影に、はるかむかしの、順徳院や日蓮、日野資朝や観世元清を思ったのであろう。配所の月にかげる憂鬱な暗い生涯が、潜在意識のなかで点滅していたのである。だから「あら海や……」の一句はこの島の現実の風景であるよりも、佐渡という島に彼が持ちつづけてきた、寒々とした心象風景である。
後者の無宿者は、遠島者、つまり流人の範躊にはいれにくい。伊豆諸島や隠岐よりはずっとはやく、元禄十三年(一七〇〇)には、佐渡は遠島の地からはずされていた。
それから七十八年も過ぎた安永七年(一七七八)になって、佐渡は「流人」という変った『外来者』を迎える。無罪、または軽罪の無宿者を捕縛した という点では、いまの刑法語でいう「保安拘禁」といえる。予防検束である。都市(江戸・長崎・大坂の天領地)の治安から考え出された。それを、離島である佐渡へ送ったのだから、これは浮浪者、失業者、不随分子の隔離を目的とした社会政策ともとれる。
哀れにも、彼らは一人の例外もなしに佐渡の鉱山の谷間に建てた小屋に監禁され、坑内水替の重労働に使われた。ために佐渡の「島送リ」には、私たちが「流されびと」(流人)に対してときとして抱く、花のようなロマンがなく、ただ痛々しい。
「流人」たちは、島々で自由を極端に拘束されることはなかった。手職や技術さえあれば、のびのびと自活ができた。 遠島の刑は、「流す」ことで目的が足りたから、島々で労役を課せられることはまずない。それは、どの遠島地でも共通していた。
しかし「無宿者」は、遠島に該当する犯罪者ではない。「島流し」にはできないのである。だから保安処分にされ、佐渡鉱山で凄惨な強制労働に耐えぬくことになる。これは逆さまな扱いのようにも思えるが、個別的な犯罪より無宿・浮浪者の対策に困るほど、幕藩制社会の病状が悪化したためだ。
佐渡鉱山の暗さは、この鉱山の固有な性格であるよりも、幕府の体制をささえるための政策として生まれる。
目籠で送られた無宿人たち
「五月晴れや佐渡のお金が通るとて」 一茶は生まれ故郷の柏原宿(信州路)で、この句をつくった。 のどかな五月晴れの下、佐渡でとれた金銀を満載した馬の列が、家の前を通ってゆく。「五月晴れ」と「佐渡」に彼は「陽」と「陰」をきわ立たせた、とも思える。
信州路や三国街道筋に住んだひとびとは、身体の向きを変えると、こんどは別の光景を見ることができた。佐渡へ送られる、無宿者を乗せた目龍(唐丸龍)の長い列である。多い年には、それが六十挺も路上にホコリをあげて続くことがあった。 破れかかった目龍の列は、沿道のひとたちにどう映っただろうか。この籠が行きつくところ、地獄の鉱山がはっきりとした輪郭を持って浮かんだであろう。
「佐渡ケ島にも吉原ござる 東男が駕龍で来る」
という軽妙なうたは、おそらくこの頃につくられたものだろう。ひとびとは声で笑いながらも、心のなかでは彼らの行く末に泣いたのである。 目龍のなかの無宿者たちは、足枷または手鏡、腰縄がしてあった。食事のほうは「握り飯・タクアン・湯茶」に限られていた。 「道中はなるべく手軽にすませるように」 との道中奉行や勘定奉行からの先触のためである。 この道中の待遇は、以前に佐渡へ護送された流人よりもひどかった。警護の役人も、賄いの人足も、わずかで足りるからである。 駕籠をかつぐ人足や泊りのときの不寝番は、宿場の人足や、近郷からかり出された助郷で、無賃同様で出させるのだが、この苦労がまた並大抵ではない。 天明五年(一七八九)からは奥州会津路もくわえて、三道を交代で佐渡まで送らせた。 江戸からは三〇〇キロ近くもあるから、はやくて二週間、事故があると三週間はかかる。 この長い道中を、なぜ「囚人(流人)並み」に目籠で送ったのか。おそらく「見懲」の効果を考えたためと思われる。つまりみせしめである。「市中引廻し」とか「磔 はりつけ」の刑のように、庶民を威嚇することで、犯罪のひろがりが防げると幕閣は考えていた。 そのためだれもが無宿者を「囚人」だと思っていた。永井の宿(信州路)では 「囚人賄いの義は、握り飯番の者、湯茶限り、勢(瀬)戸物不用、手だけ、ほだ足」(天保十三年、永井本陣日記)
と無宿者が囚人と書かれた記帳がある。 目籠は琉球草でつつみ、下の台は板で、大小便のぬける落し穴がある。前後に穴があって、食事のさし入れをする。 そこから東男に手を出させて、握り飯をつかませる。だから茶碗の用意など以不用……という宿々への申し送りであった。
桑原孝『三国の歴史』によると、安永八年(一七七九)に浅見の宿(三国路)では 「焼物・とうふ・すの子・落玉子」 と、規定外のご馳走をしてやった。晩酌のお酒と二汁以外は、警護の役人と同じ賄いである。 この待遇は、なかには極悪な人がいて、もしも脱走してくると、冷遇したことの仕返しがこわかったからであり、またもう一つは、ふたたび帰ることもなかろうという、哀れな無宿者へのはなむけの気持があった。
社会問題であった無宿人
日本のやくざ者たちは「ドサ帰り」というへんな言葉を発明した。裏を返せば、「サド帰り」である。この言葉には、みなが身ぶるいした。 上州の大前田英五郎は、明治七年二月に郷里の大前田(勢多郡宮城村大前田)で、八十三歳で死んだ。彼は若いころ、賭博をして佐渡へ送られたという。目籠の群れに投じたわけだ。鉱山で苦役中に脱走をくわだて、裸足で雪道を走った。そのため両足の指は、すべて凍落してしまったという。海岸にたどりつくと、櫓も橿もない舟に乗り、逃げた。両手で水をかき、激浪にもまれ、どうやら対岸にたどりついた。それから各地を流浪して歩いた(田村栄太郎『やくざ考』)。
この二度とない体験を、彼はことあるごとに自慢した。ほんとうに彼が佐渡へ来ていたのかどうか、いままでのところまだ確かな資料が佐渡で見つかってはいない。けれども、彼はこの「ドサ帰り」を、やくざ仲間の「通行手形」にした、と考えられる。
江戸時代には、かけ落ちした者を親族が願出て、親族関係を断つ「久離」と、在宅者を追い出して、相続権を断つ「勘当」があった。だが法律のうえでは、 これでもまだ「無宿者」とはならない。 親族や村役人から願い出て、宗門人別ご改帳(戸籍)から「帳外」または「除帳」にしてもらう。それではじめて、親たちは罪の連帯責任をまぬがれた。これが無宿者である。 、
原因はいくつかあった。封建農村の変質や、慢性化した天災や飢饉がまずある。 たとえば、商品経済の農村への波及で、作物を売って金にかえる余裕のある地主は、生活が向上したけれども、生産物の大半を、年貢米として納めねばならない貧農は、売るものがないから借金をする。 上村の富農や町人は高利貸となり、借金の返済ができない零細な農民は、土地を手放して小作人になり、また離村して都市へ出稼ぎに出た。 無宿化した人々は、都市へ流れる。彼らが生きてゆく場所はいろいろあった。街道筋もその一つだ。…‥雲助…‥と呼ばれた群の駕籠かき連中もそうである。博徒の客分や、子分となって寄生する者もいた。乞食や放浪者の群れに投じた者もいる。
こうした無宿化の進行は、農村の崩壊を早めながら、一揆や打ちこわしをも頻発させる一因となった。一方では、都市およびその周辺の治安を乱す犯罪人口の増加をも意味した。
不思議にも商品経済が盛んなところほど博徒が多大無宿化の傾向が強かった。 たとえば、上州や武州に貨幣経済が発進したのは、生糸や織物のためである。このあたりは、江戸へ物資を輸送する利根川河岸の舟付場でにぎわっていた。たしかに、上州には無宿博徒が多い。英五郎や国定忠治がそうだ。
寛政二年(一七九〇)幕府は、江戸の隅田川河口に浮かぶ石川島に「加役方人足寄場」を設けた。先手弓頭兼火附盗賊改本役の長谷川平蔵の献策を、老中松平定信が受け入れてできたものだった。つまり無宿者の収容所である。 火附盗賊改というのは、江戸周辺の、ゆすり・たかり・博徒・盗賊などを捕えて吟味する警察的な職務である。 ここでは、手職のある者には「細工小屋」があり大工・建具・塗師などの仕事をやらせる。ないものには米つき・搾油・藁細工などを教授した。更生したと見られる者には、百姓なら土地を、市民なら店を持たせる。人足寄場はいわば無宿者の矯正、転じて社会復帰に、いちおうのウェートを置いていた。 ここでは老人・病人・婦人の区別もあり、病室もあった。常時四、五百人を収容し、希望する作業を斟酌してやった。 賃金は更生資金として貯めさせる。とくに注目されるのは「心学講話」さえも行なわれたことだ。 人足寄場の成立は、佐渡への「島送り」が開始されて十二年経過したあとであった。寄場には養育・授産・社会復帰という、ややあたたかな進んだ考え方が流れている。 し
島送りはどうか。これは懲戒……ともいいにくい。隔離と酷使の制度である。だから佐渡鉱山へ送りこむだけでは、無宿者の本当の更生策・解決策にはならなかった。
閣のこの反省が、人足寄場の設置をうながした。けれども、寄場も島送りもともに幕末までつづくのである。
過酷をきわめた水替作業
新潟県佐渡郡相川町。ここに佐渡鉱山がある。 佐渡の北のはしにある入口ー万三千人ほどの町である。’ 鉱山は三菱金属の経営で、 一〇〇トン近い金を生産して平成元年に閉山した。
秀吉が朝鮮へ出兵した文禄三年(一五九四)には開発がはじまっていた、というから、日本でも古い鉱山だ。
「小屋場」とか『江戸山狼」と島のひとたちは、無宿者たちのことを呼んだ、といういい伝えがある。 無宿者を監禁した「江戸水替小屋」が鉱山.の構内の谷間にできていた。この小屋で一年中暮すから「小屋場」と俗称したのである。 と、佐渡の屋根を走る大佐渡ズカイラインに出る。頂上からは、コバルト色の日本海がひらけて、眺望はしごくいい。 いまでも、バスさえここを走らなければ、寂寞とした深山幽谷-といいたい 静けさがある。小屋のあったところには、もうなんの痕跡もないのだが、右も左も高い山を垂直に切ったような崖である。 小屋跡を見下ろす左側の山は「落山」という。古い記録では、ときどき落石があ って、小屋の建替普請をした。これら恐ろしいような山のたたずまいだけが、往 時のままである。
軒の低い一階建で、小学校の体育館ほどの大きさの小屋で、常時二百人ほどの 無宿者が収容されていた。まわりは竹矢来に似た朝鮮竹垣をめぐらしてあった。 近くに「差配人詰所」があった。絵巻物で見ると、差配人が犬をつれて歩いてい るから、逃亡などを警戒して、番犬を飼っていたことがわかる。 「差配人」「小屋頭」「下世話」と、江戸の伝馬町のような牢名主制がここではとられた。 一番下が「平水替」で、坑内に差し組まれて、水替の労働にはげむ。差配人は町方住いが許される。腕力と指揮能力のある者が、大勢の無宿者のなかから選ばれた。 着物・蓑笠・蒲団・塩や野菜などは官給である。小遣銭も一応は支給していた。差配人は、一日四十八文、平水替は十五文である。十五文は当時、お米五合分に相当した。名目だけの安い日当である。 これらの平水替たちが、集団で水替役所や佐渡奉行所へ駈けこみ、訴訟があった。物資や銭が、役人や差配人へ現場で渡される。こみ段階で、その一部をピンハネすることがしばしばあった。このため小屋内騒動や、差配人宅の打こわしなどをひき起こした。
無宿場の管理で、‐特徴的なことは、外出の禁止である。 「敷(坑)内へ相越し候節の外たとへ近辺なりとも、他出一切停止」 であった。一年中小屋に監禁される。水替の作業は、朝方入坑して翌日の朝 までつづき、夜が白みかかるころに小屋へ帰る。無宿者たちは一昼夜、坑内にカ ン詰になる。小屋へ帰れば、みな疲れる から眠る。一日休んで、翌日また入坑する。小屋から出て青空を仰ぐのは、この入坑と出坑のときだけであった。鉱山はこわいような管理形態をとっていた。 作業に精を出した者は、その勤怠によって「平人」になる恩典がある。
「心底を改め、出精いたす上は、平人の上、他国出をも仰付られ、父母妻子これある者は、再び面会も相成る儀、誠にもって御仁恵の至り、冥加至極、有難き儀と存じ、一ヵ年も早く立帰りたきにおいては、申渡の趣意いささか忘却いたさず」 とした。
しかし幕閣は無宿者の隔離が目的であったから、平人の許可をなかなか出さなかった。本土へつれ帰っても、身元引受人がいないという理由からである。そし て十年未満は、原則としてこの恩賞を出さない。
そこで「当国止」と「他国出」いって「他国出」が許されない無宿は、佐渡で平人とした。 紙漉の仕事などして、島に土着した者もいた。 「乗逃げ」の事例がずいぶんある。過酷な管理、凄惨な坑内労働、「他国出」への望みを断たれた彼らは、海岸の小舟を拾って、佐渡からの決死の脱出をこころみる。 これは 「万万心得違い、逃去り、乗逃げいたし、召捕られ候節は外に悪事これ なく候とも、彼地において死罪」
としたのだが、年を経るごとに、いちどきに三十人、六十人と組織的になった。
佐渡と越後との距離は、最短でも三十二キロである。しかし長崎あたりから送られた無宿は、格別「船方巧者」が多い。 だから、長崎無宿の差送りは、はやく取りやめになった。
文政九年(一八二六)には、乗逃げをして「彼地で死罪」になった者の罪状をしるした「捨札」(告知板)を佐渡奉行からもらい下げてきた。これを小屋の前に立てた記録がある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年02月13日 05時51分41秒
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