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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年02月10日
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佐渡 生きながら地獄の如し

佐渡の金山 この世の地獄

 

  磯部欣三氏著(佐渡博物館歴史部長)

  一部加筆 山梨県歴史文学館

 

「此の水替人足と云ふは、無期限に使役せられ、

其の苦役の状は、恰も生き乍ら

地獄に陥りたるが如し」

 

 幕末に江戸の佐久間長敬が書いた『清勝筆記』にこうある。

 

 鉱山の労働には、坑内の採鉱にたずさわる「敷稼ぎ」と、

坑外で製錬部門に働く「岡稼ぎ」の二種類がある。

坑内では、まず鏨(たがね)と鎚で鉱石を掘るのが「大工」である。

のちの削岩坑夫に相当した。

 これに付属して、坑内の雑役を担当する「穿子」たちがいた。

岡(坑外)まで鉱石を運ぶのが「荷揚げ穿子」。

 

鉱石一荷は五貫目ほどで、これを叺(カマス)に入れて、

背負いあげる。

採掘用の讃を運搬するのが「讃運び穿子」。

これは切羽(採鉱現場)と、

坑外にある鍛冶小屋との間を往復した。 

 鍛冶小屋の鵜をさすのが「後向穿子」。

これは送風管のついた鞘を操作して火力を高める。

 ほかに坑内の破損箇所を普請する山留(支柱夫)

の助手をする「手伝い穿子」「丁場穿子」

などが働いていた。

 

以上を「五段穿子」などと呼んでいる。

このほかに、坑内の柄山(廃石)を整理する

「跡向穿子」もいた。

 おしまいに「水替」がいる。

「樋引」または「水替人足」と呼ばれる。

これは坑拘のたまり水を汲みあげる。

 

佐久間長敬が「此の水替人足と云ふは……」

と書いた水替労働者は、坑内労働でいちばん嫌がられた。ポンプがない時代だから、強健な体力・腕力・忍耐力がいる。

 鉱内の地下水は際限もなく湧いてくる。大工や穿子は「一枚肩」(四時間)ないし、「二枚肩」(八時間)で坑内からあがる。

 

 水替は一昼夜を単位とした。

「敷内穿下りし所へ、少しの足掛けを段々に張渡し、

其上に立ち、車引または手繰りにて、水汲上げ、

暫時も手放すにおいては、水増上るにつき、

一昼夜宛詰切らせ、食事の内、

る代る休む、至で骨折の働きにて」

 

(安永六年(1777)、佐渡奉行依田十郎兵衛が、老中に宛てた手紙)であった。労働のきつさが垣間見られる。

 坑内の劣悪な環境と水に対する心配がなかったら、日本の鉱山はもっと明.るいイメージを私たちに投げかけただろう。とくに水(排水)は世界の鉱山が、開発に当って当面しなければならなかった課題であった。「産業革茸の端緒になった気機関の発明も、鉱山の地下水を汲み上げる動力として生まれた」

(奥村正二「火縄銃から黒船まで』)。

 

 無宿者をこらしめのために、佐渡鉱山に使役するなら、どん々作業につけるのが適当かが-論議されたことがある。

 江戸城に勘定奉行、江戸町奉行が寄って相談した。

 

 無宿人の島送りの計画が固まり、この計画が佐渡奉行のところへ移牒されてきた。大工や穿子は、ある程度熟練した技術がいる。水替なら、体力さえあればできる。けれども病身の者や、老齢の者には無理だから

「二十歳から三十四、五歳ぐらいまでの者なら」

と佐渡奉行は条件を一つつけて、無宿者の受取りに応じた。

 

 水汲みの道具で、いちばん進んで便利だったのが「水上輪」である。内部に螺線竪軸を装置した木製の円柱形の器具で、上部のハンドルを回転させると、水が筒の中で順々に上へひきあげられ、出口から吐き出される。

 西洋のアルキメデス・ポンプで、一挺に二人が交代に操作した。これを操る人足が「樋引」である。無宿者もこの樋引に使役された。

 これはしかし、坑内が狭いときは、使用範囲が限られる。別に「車引」の排水法もあった。

 切羽の上部に井車(車輪)を取り付け、二本の綱を垂らし、綱の両端に釣瓶といわれる桶をつける。何人かがかりで網を上下させ、車輪の滑りを利用しながら、勢いよく汲みあげる。

 当時の絵巻物を見ると、断崖のような切羽の両端に、丸太を一、二本横に渡し、これを上下に三段から四段も造って足がかりをつけ、その上に立って、ふんどし一つの水替たちが、立列になってかけ声をあげながら、車引で汲みあげてける様子が描かれている。

 

腕まくりした差配人らしい男が、ムチを持ってそばで見張っている。凄惨な光景である。

 ほかに「手繰り」といって、鉄の輪をまいた水桶で、直接手で水を替える方法もある。これがいちばんかんたんな方法だった。

 こうして数百メートルの深い地底から、人海戦術で順々に汲みあげ、岡まで

出して捨てる。地底にどんな良鉱があっても、水没していては鉱石は掘れない。

 

幕末までつづいた惨劇

 

 「この世の地獄」というのは、佐渡鉱山の固有な性格ではない、と私は書いた。

幕府が直轄した石見や生野の銀山、そして佐渡と、労働や坑内環境にそう差があったわけではない。どの鉱山も、働かされた人々にとっては、地獄なのである。

しかし、無宿者のような、体制から疎外された者を、幕末までに千八百余人

大量に使役した鉱山は、佐渡のほかにはない。

佐渡の鉱山だけが、彼らの血のような怨念に、山肌を哀しく染めたといえる。

ごく断片的だが、動静を伝えた記事がある。

佐渡へ赴任した、奉行の日記のなかに、彼らの痛々しい生きざまが、ほんのわずかだが垣間見える、

 

「近くたとえ候に、

金銀山の岩山を古木の朽たる

蟻通しといふものの如くに、

色々と穴をほり明候て、

其内を、おもひおもひに穿行こと也。

穴の内暑寒なし。いつもはだか也。

用心に縄の帯をしむる由。

 是は右の通の場所故、

おりおり崩ることあれば、道なしに成也。

其時人のよりて石を除、

みちを作るに三日も四日も懸る。

 其内の食は、藁の縄をかみ居るといふ。

 こころ細きこと也。

壱間半のはしご百五十数も下る所あるといふ。

けしからぬこと也。

江戸より参る水替人足共は、

聞ゆる悪党共なれ共、

猫鼠のことく成て居る也」

 

 中尾間歩の脇に、矢来を結びて、

江戸水替小屋あり。

凶悪のもの共計に候得共、

ここにては鼠の如し。

曽て、地のものには一言もなき体なり。

不思議なるもの也。悪事のものあれば、

こらしめのため、

二尺八寸四方程の箱の中に、数日人置候事也。

其上にて敲かれ、

第一の御仕置は、金銀山敷内へ、

追込とて幾日も人置事也。

中々江戸の牢の如きものにはあらず。

いかなるものにても、

右には恐人候事のよし也」

 

水替人足共、

一年に一度宛外出すること也。

今日其こと伺に付、例の通と申遣し候。

水替人足一度に百人も出る故、

不取締あるましき様に申せしに、

水替人足共外出の日は、

必ず先達て死せし水替共の墓所へ参り、

香花手向け、夫故海へ行て垢離をとり、

身の無事をいのりて帰るよし。

多人数出れ共、至ておとなしき由。

 

水替と云ふものは、

溢もののなかにても、

奉行所の手に余りたる凶悪のものになるに、

こりを取、香花手向けなとするは、

真に珍敷事也。

是は公の御慈悲にて、

かかる所にて辛苦をなさしむる故に、

かく義に向ふとみへたり」

 

(以上、川路三左衛門、『島根のすさみ』)

 天保十一年(一八四〇)

 

の見聞なのだが、年に一度だけ、監禁生活から放たれる日ができている。無宿たちは墓地へゆき、同僚の墓に香花をたむけた、とある。

 

無宿者の島送りは、文久元年(一八六一)をもって終った。坂下門外の変と生麦事件のあった前年で、維新前夜の世情は騒然とし、近代へ、陣痛のうめきをあげていた時期だ。この年に

「入墨久太郎、十七歳」

「入墨金太郎、廿一歳」

「入墨雅吉、三十歳」の輸送の記録がある。

 

これで終ったた。

 

安永七年(一七七八)の初発からかぞえると、ともかくも八十五年間、島送りは維持された。それ自体、奇蹟に近い。軽罪または無罪の者を、ある日突然拘束する。目駕籠ではるかなる島へ送り、凄惨な労働を強いる。こんな無茶なことが、どうして一世紀近く、持続が可能だったのか。

 

数は千八百九十六人を数えられる。大坂で捕縛した者が百九十一人、長崎奉行管内が四十五人、越後無宿が三人いる。あとは江戸で捕まった。

「江戸水替小屋」などと、江戸を冠したのは、全体の八七パーセントが、江戸町奉行が捕え、江戸から護送したためである。

護送の道中で逃亡や病死する者もいて、鉱山へ到着したのは、千八百五十人

となるようである。この大半が二十代から三十代の、若者である。幕藩制封建社会は意外な歴史を佐渡に刻みづけた。

 

石が哭く……

 

中世以前の佐渡は、七十一人の流刑者を受け入れた。

日蓮は五十歳である。年数カ月いて、彼は『開目紗』や『親心本尊紗』を書きあげる。日蓮宗の重要な教典を、あらかた流刑中記佐渡でまとめる。

佐渡という島は「鷹が翼を休める時間」を、彼に提供したようである。

 

世阿弥(観世元清)は、七十二歳である。

彼は絶筆『金島書』を書きあげる。

 

頌徳上皇は二十一年間を暮した。『八雲御抄』を完結させ『順徳院御百首』を佐渡でまとめる。

 

近世に入ると、二百五十七人の遠島者を受け入れた。漢方医の北条道益、画工の久隅吽幽、金物細工の江戸三左衛門(佐渡鐸の元祖)、鉱山の振矩(測量)師に雇われた古川平助……と、いった流人がいる。

彼らは赦免のあと、みな佐渡に土着した。彼らの足をとめさせたのは、佐渡の海の幸や山の幸である。佐渡という島自体が、彼らの技術や文化をもとめたことにもなる。

私などは、佐渡ほど流人にとって恵まれた島はなかっただるうと思う。

まず面積が隠岐島の三倍、八丈島の十倍ある。

さらに食糧の自給が可能で、彼らが自活してゆける条件を備えていた。そして何よりも、島人のなかへ溶け込んでゆける空間がいくつもあったことである。

赦免になっても、去らない流人たちが、どの島にもいく人かはいる。このような人がとくに多いのが佐渡である。

新土着置人ともいえる。

なぜこうなるかは、個々の流人の内面にまで立ち入らないと解釈はむずかしいが、島の大きさと、無関係ではないだろう。

ただ中には本土志向型…‥ともいえる一群の流人たちがいた。彼らには、島は生活地ではない。流諦の地であった。島の経済や、地理的条件に関係なく、赦免の機会を常に窺う。

反対に、島の人情や風土や気候が、本土より優れているとわかると、彼らは

島に定着する。そして去さらない。

これは個々の流人の、内面的な振幅にもかかわるのだが、やはり生産基盤の豊かな、佐渡のような島は、その希望をたやすく満たしたといえる。

 

無宿者たちには、しかしその選択の自由さえなかった。島のくらし、自然、ひとびととの対話から、いつも隔離されていたからである。外来者が島びととのコミュニケーションの機会を持たされないほど、不幸なことはない。それは、島自体の不幸にもつながった。

 

相川の町の山奥の廃道の道端に、江戸水替たちの共同墓地がある。年一度の外出の日に、仲間たちが「香花を手向け」た、する地がこれである。鉱山はその真向いである。酸化鉄が風化し、露出して赤ちやけた巨大な山のたたずまいが、雨にかすんで眺められる。

代償……のない人間の霊を刻んだ墓は、ただの石ころにしか見えない。 






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最終更新日  2022年02月10日 19時24分47秒
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