カテゴリ:佐渡と甲斐を結ぶもの 佐渡銀山
著者略歴 磯部欣三氏 一九二六年(昭和元年)二月、新潟県佐渡郡に生る。 毎日新聞新潟支局勤務。 鉱山庶民史に興味を持ち 「水替無宿論」 「水金遊廓・人身売買」 「金山町の流人」などの論稿がある。 著書『佐渡金山の底辺』『流人帖』(共著)。
昭和三十九年(1964)十一月二十目 初版発行 新人物往来社刊
一部加筆 山梨県歴史文学館
佐 渡 金 山 孤島の金山 新潟県佐渡郡相川町
これが佐渡金山の所在地である佐渡島の北辺の、シベリヤに面した小さい町で、人口は二万人位ある。 夏は観光客がたくさん来るので、町は「おけさ節」で騒がしくなるが、冬は激しい季節風が吹く。 佐渡の北海岸の冬は、雪が積らないかわりに、風がとくに強いので、なんとなく荒涼、蕭条とした感じになる。その風景は、廃墟となった佐渡金山のイメージとぴったりする。 佐渡が日本海の孤島なら、相川町はその最果ての町である。近世初頭には、ここに大きな鉱業都市が誕生した。
ここで、佐渡と貴金属鉱山についてふれると、代表的な金、銀山が佐渡には三つあった。 島の南部の西三川山(真野町)は砂金の産地で『今昔物語』や『宇治拾遺物語』にも、この山に関係したと思われる記事がある。島でいちばん古い鉱山である。
もう一つは中世末期、天文年間に開発されたといわれる鶴子山(佐和田町)である。 これは上杉景勝が支配していた。戦国期に、景勝が秀吉に上納した金、銀は、この鶴子山と西三川山の産出と考えられる。 中世末、または江戸時代初期に、鶴子山の峠を一つ越えた北側に、相川山が開発された。
佐渡金山といえば、この西三川山、鶴子山、相川山の三つを総称したことになるが、相川山が開発されてからは、幕府は佐渡を天領(直轄支配地)とし、相川町に佐渡奉行を置いて、金銀山を支配した。 産出量も、この時点ては、相川山がケタ違いに多かったので、相川山のことを佐州銀山と呼び、西三川山は西三川坑、鶴千山は鶴予抗と呼んで佐州銀山の一稼行区とした。 ここでは相川山、つまり佐州銀山を、現代風に佐渡金山とした。実は金より銀の方が産額が多 かったのだが。 江戸幕府の財源 佐渡金山は、近世史上、わが国最大の金銀山といわれる。幕府が本格的な開発を始めたのは、関ケ原の戦いが終った翌年の慶長六年(一六〇一)で、七年には有名な大久保長安が、奉行となった。 維新後、宮内省御料局財産から民間の三菱金属に払い下げられたが、江戸時代全期にわたって、幕府で直営して、かなり有力な財源であった。 採鉱や精錬技術は、全国貴金属鉱山で、常に進歩したものであった。幕府がいち早く投資したのである。
ピークは、十七世紀前半(元和-寛永)の約三十年間である。この時代の銀の産出量を推定した、京都大学の小粟田淳博士によると、六万から九万キログラムという。当時の世界産額の、だいたい十五パーセントに相当した。小粟田博士は、この時代で世界で三位を下らない銀山とみている。
金山経営は、相川山の場合、敷人足と呼ばれる拡内労働者と、岡人足と呼ばれる坑外労働者、つまり精錬人足によって成り立っていた。 採掘と精錬とは、別々の分業制度によるのが普通である。
坑内人足 坑内労働者には、直接鉱石を採掘する大工(坑夫)と、採掘された鉱石を運搬する荷揚、手伝い、採掘用の鉄具を生産する鍛冶、採掘後の数(坑内)を整理する跡向き、また特殊な技術者として、坑道の支柱作業に当る山留がある。 これを総称して坑内労働者、または穿子というが、このほかに、坑内の地下湧水を除外する排水人足がある。 これらの下層労尚者は、金児と呼ばれる現場監督に隷属して、請国の金山を移動して行くのが多い。金児は技術者であるし「組」のような組織の頭であった。この金児を支配するのは山師である。 山師は古くは出生、山元とも呼ばれた。奉行からヤマを請負って稼業するのが山師である。山師は金児のように技術者ではないが、優秀なヤマを見立てて、それを稼業する企業家であり、稼業するに当って多数の金児を雇い、技術や労働力を提供してもらう。金児は、この山師の下使いであるが、のちには山師から独立して、自分でヤマを請負って稼業する、新しい企業家に変質した。そのとき山師が没落する。
それ以前の両者の関係は山師が開示(坑)を請負うと、その間歩を、何人かの金児が分担して稼ぐ。この金児の堀場を敷または領分という。 ここでは、こういうヤマの生産組織は省略して、坑内労働者の生活が、おけさ節が歌うようになぜ悲惨であったかを調べてみたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年02月12日 10時18分01秒
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