2296510 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2022年02月12日
XML


  



佐 渡 金 山 その二

 

著者略歴 磯部欣三氏

一九二六年(昭和元年)二月、新潟県佐渡郡に生る。

毎日新聞新潟支局勤務。

鉱山庶民史に興味を持ち

「水替無宿論」 

「水金遊廓・人身売買」 

「金山町の流人」などの論稿がある。

著書『佐渡金山の底辺』『流人帖』(共著)。

 

昭和三十九年(1964)十一月二十目 初版発行

   新人物往来社刊

 

  採鉱の技術 

 

佐渡金山で、鑿岩用の火薬が使用されたのは幕末の慶應四年(一八六八)である。

ガールという英人技師が初めて紹介した。鑿岩機が使われたのは明治二十年(一八八七)であった。

 江戸時代は、もっぱら鑚(きり)と鉄製の槌を用いて行なう「手掘り」形式である。鑚は三十五匁位の重さで、これを上田箸と呼ぶ「鐡挟み」ではさみ、右手で柄のついた槌をにぎり、脈を砕いた。

採掘法は、鍛を鉱脈の割れ目に打ち込み、脈が割れないときは、金椀や、ゲンノウを用いて、打ち割った。

 

 佐渡金山の鉱脈は、石英が多く、硬度は八、九度で、岩盤が非常に硬い。周辺の母岩も珪化作用が進んでいて、採鉱に苦労した。裂開性の石は割れやすいが均質で堅緻なところは、なかなか割れないので、鑚を鉱脈に四角に打ち込んで割り取る。また炭火を起して、鉱石面の水分を発散させ、石右を膨脹させてから掘鑿した。

 

「貫目振り」というのがある。

鉱石の量で賃金が決定した。これは通常行なわれた稼行法である。もちろん労働力を高めるのがねらいであった。

 作業の促進法に「さっさ掘り」というのもあった。一つの坑内に大勢の大工をふりむけて

「さっさ掘れ掘れ、やわらぎだ」

と、囃し立てる。やわらぎは、岩盤のやわらかいことを意味した。

 

「狸掘り」は、良鉱が、広い岩葉に局部的に散らばっているような場合、人間が一人だけ通れるような穴を掘って採鉱する。これは探鉱の際にもしばしば行なわれた。この狸掘りの跡は、いたる処に残っている。

 採掘法も鑿岩槻と違って手振りの場合はいろいろ工夫されたが、「上部階段掘り」や「斜鉱掘り」が、能率的だった。頭の上を掘れば、落下して鉱石の除外が早い。

 坑内の昇降には、梯子が用いられた。丸木を二つに割り、あるいは丸太のままで、階段を繰り抜いてつけた、原始的な梯子で、最近古代遺跡からも同じものが見つかっている。

ごく古い時代から、佐渡では用いていた。長さは三~四メートルもある。これを使って、坑道の最底部に達するまでには、五十から百本以上の梯子を下らねばならなかった。

 

坑内の有様 

 

坑道の入口を「釜ノ口」といい、入口から採鉱の現場までの道程を「廊下」とい

った。坑道を据愁する作業は「間切り」といい、大工の作業場は「切羽」、足を支えている場所を「台」と呼んだ。

 坑内は真夏でも十五度くらいで、大工はいつも裸であった。当時の坑内絵図をみると、坑内の両端に渡した木の吊り台の上に、褌(ふんどし)一本の若い大工たちが、頭巾や頬かむりして、かたまって、頭上の脈に槌をふるっている。切羽の一角に吊した小さな灯皿の光がかぼそく灯り、地獄の底を思わせるような、蟻の六道みたいな坑道で、ひしめき合い、作業している。

近くに頭大工がいて、掘られた鉱石を手元にたぐりよせ、作業の能率を測定している。

 大工には、初期には定まった労働時間がなかった。「昼番」とか「夕入大工」の区別で時間交代制ができたのは、中期以降である。それまでは、所定の鉱量を出すまで、昼夜ぶっ通しで作業をすることが多く、過重労働で健康を害する者が多かったから、労働力はいつも不足した。

 

 天保年間(一八三〇~一八四三)になると、二交代制が確立した。

朝五ツ時(午前八時)から七ツ時(午後四時)までが昼番で、

夜五ツ時(午後八時)から晩七ツ時(午前同時)までが夕入であった。

 安政期(一八五八~五九)にはいると、これでも健康を害するというので、三交代制がとられた。

朝一番方は明六

ツ(午前六時)から四ツ時(十時)まで。二番方は四ツ時から八ツ時(午後二時)まで。三番方は八ツ時から暮六ツ(午後六時)と定められた。夜間もこれに準じた。

この二時、四時間の労働を「肩一枚」と称した。肩一枚の採掘量は、普通一貫五百目ないし三貫目とし、賃金もそれに準じて七十六文であった。

賃金を、なるべく多く稼ぎたいために、昼の一番方に差組まれた大工が、夕方他の坑の夜番にも稼ぎに出ることがあった。これを「またぎ大工」と称した。

 

  坑内人足の生活 

大工にも、いろいろ種類がある。

「地大工」というのは、金見や山師に隷属している専業大工である。これに対して臨時に大工として、町や在方から稼ぎに出るのを「かけ  掘り大工」といった。

金見が、自分の掘っている地大工だけで稼行がおぼつかない場合、助勢として、奉行所が、そこへ差し向ける大工もある。これは「合力大工」と称した。

これらの中でも、地大工は、必要なとき、いくらでも労働力が自由に投下できたから、能率をあげるには、地大工を大勢抱えていなければ、本当の作業はできない。

「地大工」は、山師や金見が「前貸し」で全国から募集して集めたものである。一人四両が前貸しの限度であり、期間は四カ月で、十日につき二分の利子をとる。返済できない場合は、身体を拘束された。 

佐渡の良家では、金見が派遣する募集員から金を借りるのを、「山の金貸し」「金借り」といい、身売りすることと同様に考えていた。

文化年間(一八四〇~一八一七)には、この前貸しの額が五両に暴騰したといって、騒いだこともある。

 

金見制度は、明治以降は、その「組」のような組織が、何々部屋と称する「部屋」制度に代った。大塚、鈴木、安田といった大部屋があり、一部屋に四、五百人も地大工を抱えていて、一定区域内の採掘を請負っていたが、逃亡をたくらんだ大工などがあると、捕えて荒縄で釣りあげ、下から青松葉を焼いて燻(む)す、といったような、非人間的なリンチを加えたりした。

飲む、打つ、貿うの放恣的な生活を送り、親方も、その奢侈的な欲望を満足せしめて労働意欲を刺戟するため、いろんな方法をとった。

 

 犠牲者続出 

 

坑内人足の運命は、作業が辛いだけでなく、坑内の衛生に問題があった。珪酸分か高いから「山よろけ」(珪肺病)を誘発した。

珪分を含んだ鉱塵が、身体にふりかかるのを防ぐ方法は、坑内の通気をよくするしかない。

佐渡金山では、「この世の地獄」と、大工たちが大胆に歌いあげているように、坑内の人口密度が高いのと、金見制度による部分的な請負採掘法が、一貫した通気対策がとられることをさまたげていた。

また奉行や、金山担当の山方役は、江戸から赴任して、短期で引揚げる制度であったから、勤務期間内の採鉱量増加だけが頭にあって、一貫した厚生対策を顧みる暇がなかった。

通風が悪いと、坑内の酸素欠乏からくる「気絶え」(一酸化炭素による急激死)が発生し、坑内で死ぬ率が驚くほど高かった。

 

吉田松陰は高水四年(一八五一)に佐渡へ渡り、金山をみて

「強壮にして力ある者といえども、十年に至れば、

すい弱して用に通せず、

気息えんえんとしてあるいは死に至る。

誠に憐むべきなり。

而してその自ら言うに即ち曰く、

この山は最も人を害せず。

他山に至っては、

あるいは三、四年にしてすでに死に至る」

(『佐渡日記』)

と書いている。

佐渡奉行の日記にも「三年で死ぬ」などと書いているのがみられる。

 

坑内衛生を悪くしたもう一つの理由は、油煙であった。油煙は坑内照明月の灯火によるもので、松やにを、竹の皮で包んだ「松蝋燭」、魚油、獣油が用いられた。これを粘土でつくった素恍きの灯皿の上でともした。

 

「山よろけ」や「気絶え」は、生野銀山などと比べると、記録的にも非常に多い。坑内衛生や保安対策は、日本の鉱山では、佐渡がいちばん遅れていた。

これは幕府が、佐渡金山に、常に最新の機械や精練法を投入していたことと、まったく対照的である。

生野銀山や佐竹藩大蒜銀山などでは「山よろけ」対策が、領主や出先奉行の千で、江戸時代でもかなり早くから、とられていたが、佐渡金山では、紀宝年間に、益田玄皓という民間の医師が「紫金丹」という薬をつくって、大工を救済したという記録があるだけである。

「山よろけ」は、紅塵となった珪粉が、肺の中に沈着し、繊維増殖が起って呼吸が苦しくなり、咳や痰が出る。胸部に圧迫感を覚え、これが悪化すると死ぬ。

 

鉱山保安法ができたのが、戦後の昭和二十四年であるが、佐渡金山では比較的坑内の通風がよくなったのが、二十七年である。鑿岩機の内部に水を通して、紅塵をいくぶんか防ぐようになったのは三十年であった。鉱山のながい歴史に比べると、坑内衛生の面は非常に遅れていた。

  大工 大工と名はよいけれど

  住むは山奥穴の中

 

竪坑三千尺下れば地獄

死ねば廃坑の土となる

 

休みや迎えにくる休まにゃつとまらぬ

大玉迎いがなかよかろ

  大工すりゃ細い

  二重廻りが三重廻る

 

そして、さらに佐渡金山の大工たちは、次のような、はなはだ自嘲的な歌も残した。この中にある称名寺というのは大工の集団墓地である。

  早く叩いて称名寺山へ

  あとは花松立てぐされ

 

で、労働が過酷で、悲惨だったのは坑内の排水人足である。

排出の開発は、排水難との戦いといってもよいが、これが、日本の鉱業労働史の中では、まったく知られずにいる。

佐渡金山のように、開発の初期から、坑内採堀法がとられたところでは、坑内の排水が、ヤマの盛衰をいつも左右している。地底にどんな良鋼帯があっても、水没していては、鉱石を採取できない。幕府が佐渡金山の排水に使った費用も莫大なら、このために要した労働力もまた大変なものであった。

 

この本は、この排水人足に幕府が使った無宿、囚人の強制労働について書くので、作業の内容は後で触れることにして、佐渡金山の排水の歴史を、すこし概観してみたい。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2022年02月12日 20時19分27秒
コメント(0) | コメントを書く
[佐渡と甲斐を結ぶもの 佐渡銀山] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X