カテゴリ:佐渡と甲斐を結ぶもの 佐渡銀山
著者略歴 磯部欣三氏 一九二六年(昭和元年)二月、新潟県佐渡郡に生る。 毎日新聞新潟支局勤務。 鉱山庶民史に興味を持ち 「水替無宿論」 「水金遊廓・人身売買」 「金山町の流人」などの論稿がある。 著書『佐渡金山の底辺』『流人帖』(共著)。
昭和三十九年(1964)十一月二十目 初版発行 新人物往来社刊
採鉱の技術
佐渡金山で、鑿岩用の火薬が使用されたのは幕末の慶應四年(一八六八)である。 ガールという英人技師が初めて紹介した。鑿岩機が使われたのは明治二十年(一八八七)であった。 江戸時代は、もっぱら鑚(きり)と鉄製の槌を用いて行なう「手掘り」形式である。鑚は三十五匁位の重さで、これを上田箸と呼ぶ「鐡挟み」ではさみ、右手で柄のついた槌をにぎり、脈を砕いた。 採掘法は、鍛を鉱脈の割れ目に打ち込み、脈が割れないときは、金椀や、ゲンノウを用いて、打ち割った。
佐渡金山の鉱脈は、石英が多く、硬度は八、九度で、岩盤が非常に硬い。周辺の母岩も珪化作用が進んでいて、採鉱に苦労した。裂開性の石は割れやすいが均質で堅緻なところは、なかなか割れないので、鑚を鉱脈に四角に打ち込んで割り取る。また炭火を起して、鉱石面の水分を発散させ、石右を膨脹させてから掘鑿した。
「貫目振り」というのがある。 鉱石の量で賃金が決定した。これは通常行なわれた稼行法である。もちろん労働力を高めるのがねらいであった。 作業の促進法に「さっさ掘り」というのもあった。一つの坑内に大勢の大工をふりむけて 「さっさ掘れ掘れ、やわらぎだ」 と、囃し立てる。やわらぎは、岩盤のやわらかいことを意味した。
「狸掘り」は、良鉱が、広い岩葉に局部的に散らばっているような場合、人間が一人だけ通れるような穴を掘って採鉱する。これは探鉱の際にもしばしば行なわれた。この狸掘りの跡は、いたる処に残っている。 採掘法も鑿岩槻と違って手振りの場合はいろいろ工夫されたが、「上部階段掘り」や「斜鉱掘り」が、能率的だった。頭の上を掘れば、落下して鉱石の除外が早い。 坑内の昇降には、梯子が用いられた。丸木を二つに割り、あるいは丸太のままで、階段を繰り抜いてつけた、原始的な梯子で、最近古代遺跡からも同じものが見つかっている。 ごく古い時代から、佐渡では用いていた。長さは三~四メートルもある。これを使って、坑道の最底部に達するまでには、五十から百本以上の梯子を下らねばならなかった。
坑内の有様
坑道の入口を「釜ノ口」といい、入口から採鉱の現場までの道程を「廊下」とい った。坑道を据愁する作業は「間切り」といい、大工の作業場は「切羽」、足を支えている場所を「台」と呼んだ。 坑内は真夏でも十五度くらいで、大工はいつも裸であった。当時の坑内絵図をみると、坑内の両端に渡した木の吊り台の上に、褌(ふんどし)一本の若い大工たちが、頭巾や頬かむりして、かたまって、頭上の脈に槌をふるっている。切羽の一角に吊した小さな灯皿の光がかぼそく灯り、地獄の底を思わせるような、蟻の六道みたいな坑道で、ひしめき合い、作業している。 近くに頭大工がいて、掘られた鉱石を手元にたぐりよせ、作業の能率を測定している。 大工には、初期には定まった労働時間がなかった。「昼番」とか「夕入大工」の区別で時間交代制ができたのは、中期以降である。それまでは、所定の鉱量を出すまで、昼夜ぶっ通しで作業をすることが多く、過重労働で健康を害する者が多かったから、労働力はいつも不足した。
天保年間(一八三〇~一八四三)になると、二交代制が確立した。 朝五ツ時(午前八時)から七ツ時(午後四時)までが昼番で、 夜五ツ時(午後八時)から晩七ツ時(午前同時)までが夕入であった。 安政期(一八五八~五九)にはいると、これでも健康を害するというので、三交代制がとられた。 朝一番方は明六 ツ(午前六時)から四ツ時(十時)まで。二番方は四ツ時から八ツ時(午後二時)まで。三番方は八ツ時から暮六ツ(午後六時)と定められた。夜間もこれに準じた。 この二時、四時間の労働を「肩一枚」と称した。肩一枚の採掘量は、普通一貫五百目ないし三貫目とし、賃金もそれに準じて七十六文であった。 賃金を、なるべく多く稼ぎたいために、昼の一番方に差組まれた大工が、夕方他の坑の夜番にも稼ぎに出ることがあった。これを「またぎ大工」と称した。
坑内人足の生活 大工にも、いろいろ種類がある。 「地大工」というのは、金見や山師に隷属している専業大工である。これに対して臨時に大工として、町や在方から稼ぎに出るのを「かけ 掘り大工」といった。 金見が、自分の掘っている地大工だけで稼行がおぼつかない場合、助勢として、奉行所が、そこへ差し向ける大工もある。これは「合力大工」と称した。 これらの中でも、地大工は、必要なとき、いくらでも労働力が自由に投下できたから、能率をあげるには、地大工を大勢抱えていなければ、本当の作業はできない。 「地大工」は、山師や金見が「前貸し」で全国から募集して集めたものである。一人四両が前貸しの限度であり、期間は四カ月で、十日につき二分の利子をとる。返済できない場合は、身体を拘束された。 佐渡の良家では、金見が派遣する募集員から金を借りるのを、「山の金貸し」「金借り」といい、身売りすることと同様に考えていた。 文化年間(一八四〇~一八一七)には、この前貸しの額が五両に暴騰したといって、騒いだこともある。
金見制度は、明治以降は、その「組」のような組織が、何々部屋と称する「部屋」制度に代った。大塚、鈴木、安田といった大部屋があり、一部屋に四、五百人も地大工を抱えていて、一定区域内の採掘を請負っていたが、逃亡をたくらんだ大工などがあると、捕えて荒縄で釣りあげ、下から青松葉を焼いて燻(む)す、といったような、非人間的なリンチを加えたりした。 飲む、打つ、貿うの放恣的な生活を送り、親方も、その奢侈的な欲望を満足せしめて労働意欲を刺戟するため、いろんな方法をとった。
犠牲者続出
坑内人足の運命は、作業が辛いだけでなく、坑内の衛生に問題があった。珪酸分か高いから「山よろけ」(珪肺病)を誘発した。 珪分を含んだ鉱塵が、身体にふりかかるのを防ぐ方法は、坑内の通気をよくするしかない。 佐渡金山では、「この世の地獄」と、大工たちが大胆に歌いあげているように、坑内の人口密度が高いのと、金見制度による部分的な請負採掘法が、一貫した通気対策がとられることをさまたげていた。 また奉行や、金山担当の山方役は、江戸から赴任して、短期で引揚げる制度であったから、勤務期間内の採鉱量増加だけが頭にあって、一貫した厚生対策を顧みる暇がなかった。 通風が悪いと、坑内の酸素欠乏からくる「気絶え」(一酸化炭素による急激死)が発生し、坑内で死ぬ率が驚くほど高かった。
吉田松陰は高水四年(一八五一)に佐渡へ渡り、金山をみて 「強壮にして力ある者といえども、十年に至れば、 すい弱して用に通せず、 気息えんえんとしてあるいは死に至る。 誠に憐むべきなり。 而してその自ら言うに即ち曰く、 この山は最も人を害せず。 他山に至っては、 あるいは三、四年にしてすでに死に至る」 (『佐渡日記』) と書いている。 佐渡奉行の日記にも「三年で死ぬ」などと書いているのがみられる。
坑内衛生を悪くしたもう一つの理由は、油煙であった。油煙は坑内照明月の灯火によるもので、松やにを、竹の皮で包んだ「松蝋燭」、魚油、獣油が用いられた。これを粘土でつくった素恍きの灯皿の上でともした。
「山よろけ」や「気絶え」は、生野銀山などと比べると、記録的にも非常に多い。坑内衛生や保安対策は、日本の鉱山では、佐渡がいちばん遅れていた。 これは幕府が、佐渡金山に、常に最新の機械や精練法を投入していたことと、まったく対照的である。 生野銀山や佐竹藩大蒜銀山などでは「山よろけ」対策が、領主や出先奉行の千で、江戸時代でもかなり早くから、とられていたが、佐渡金山では、紀宝年間に、益田玄皓という民間の医師が「紫金丹」という薬をつくって、大工を救済したという記録があるだけである。 「山よろけ」は、紅塵となった珪粉が、肺の中に沈着し、繊維増殖が起って呼吸が苦しくなり、咳や痰が出る。胸部に圧迫感を覚え、これが悪化すると死ぬ。
鉱山保安法ができたのが、戦後の昭和二十四年であるが、佐渡金山では比較的坑内の通風がよくなったのが、二十七年である。鑿岩機の内部に水を通して、紅塵をいくぶんか防ぐようになったのは三十年であった。鉱山のながい歴史に比べると、坑内衛生の面は非常に遅れていた。 大工 大工と名はよいけれど 住むは山奥穴の中
竪坑三千尺下れば地獄 死ねば廃坑の土となる
休みや迎えにくる休まにゃつとまらぬ 大玉迎いがなかよかろ 大工すりゃ細い 二重廻りが三重廻る
そして、さらに佐渡金山の大工たちは、次のような、はなはだ自嘲的な歌も残した。この中にある称名寺というのは大工の集団墓地である。 早く叩いて称名寺山へ あとは花松立てぐされ
で、労働が過酷で、悲惨だったのは坑内の排水人足である。 排出の開発は、排水難との戦いといってもよいが、これが、日本の鉱業労働史の中では、まったく知られずにいる。 佐渡金山のように、開発の初期から、坑内採堀法がとられたところでは、坑内の排水が、ヤマの盛衰をいつも左右している。地底にどんな良鋼帯があっても、水没していては、鉱石を採取できない。幕府が佐渡金山の排水に使った費用も莫大なら、このために要した労働力もまた大変なものであった。
この本は、この排水人足に幕府が使った無宿、囚人の強制労働について書くので、作業の内容は後で触れることにして、佐渡金山の排水の歴史を、すこし概観してみたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年02月12日 20時19分27秒
コメント(0) | コメントを書く
[佐渡と甲斐を結ぶもの 佐渡銀山] カテゴリの最新記事
|
|