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2022年02月15日
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大久保長安(おおくぼながやす)と家臣

 

【生没】15451613

 

 大久保長安は、甲州武田家猿楽師大蔵太夫の次子で、名を藤十郎といった。武田氏末期には、田辺十郎左衛門のもとで黒川金山の経営にたずさわっていたが、武田氏滅亡で浪人、やがて家康の知るところとなり、小田原城主大久保相模守に預けられて大久保姓を与えられ、家康の幕下となった。やがて慶長五年(一六○○)石見銀山を受けとり、同八年には佐渡金銀山の支配を命ぜられた。さらに慶長十一年には、伊豆の金山奉行を兼ねた。慶長八年から没年の十八年まで、佐渡奉行(正しくは代官)の地位にあった。大久保長安の佐渡での施策として注目すべきものを挙げると、相川町割の整備がある。南沢・北沢のつくる台地の先端に陣屋をつくり、そこから鉱山第一の稼ぎ場所割間歩に道路をつけ、その両側に町を配置した。つぎに、相川の海岸に港をつくり番所を置いた。また中原・小木・夷・赤泊に代官を置いた。

鉱山では、イスパニヤを通じて水銀を求め、相川で水銀アマルガム精錬をおこなった。さらに多くの鉱山を直営にして、御直山では採掘高を幕府と採掘者と一定の割合で分けることにした。これが荷分けである。さらに熊野新宮で官船二艘をつくって資材の運送に供し、石見馬路から招いた漁師を、姫津村に住まわせて海産に従事させた。慶長十八年に長安が没すると、その一族はことごとく佐渡を追われた。

 

【関連】大久保長安逆修塔(おおくぼながやすぎゃくしゅうとう)・大安寺(だいあんじ)

【参考文献】麓三郎『佐渡金銀山史話』

【執筆者】田中圭一

 

(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)

 

大久保長安逆修塔(おおくぼながやすぎゃくしゅうとう)

 

相川町大字江戸沢町の浄土宗大安寺にある、慶長十六年(一六一一)銘の大久保石見守長安逆修塔。越前式宝篋印塔で、石室(覆殿)内に安置する。石質は緑色凝灰岩(笏谷石・越前石ともいう)。石室は切石を組んだ切妻平入造りで、安政三年(一八五六)の修復時(「大久保長安公 御石塔修理再建勧化帳」)にとり替えられた安山岩質がまざる。石室背後の板石三枚のうち、左右二枚の内側にはそれぞれ、蓮華座に如来形の立像を半肉彫する。向って右は智拳印を結ぶ金剛界大日如来、左は施無畏・与願印の如来像(釈迦か阿弥陀)であろう。逆修塔は、巾約五○センチ、高さ四四センチの立方形切石(安山岩)を台石とし、その上に基礎・塔身・笠を組み、さらに一石造りの伏鉢・請花・宝珠を乗せる。基礎は巾四一・五センチ、高さ三三センチで、上面は二段の造り出しとし、正面のみに田の字形の四ツ目文に区分して文様を刻む。四ツ目文の上の二ツには八本の竪連子文、下の二ツはふちどりのあるお椀形の格狭間文をうすく刻む。また、田字形の向って右側の縦線から、「大久保石見守殿」、中央に「法廣院殿一的□(朝)□(覚)」、左側に「干時慶長拾六亥暦」とあり、上の横線には向って右から「逆修」と刻む。塔身は正面に、蓮華座と周囲に蓮弁を彫り付けた月輪をうすく浮彫りし、月輪内にはやや上よりに薬研彫りの種子「キリーク」を刻む。笠は下面を二段、上は七段とし、隅飾突起は二弧造りとし、直線的に斜に開く。伏鉢・請花・宝珠は高さ二二センチ、全高は一一○センチ。本来、相輪(九輪)があったが欠損し、とりのぞいて宝珠形に加工したものと見られる。『佐渡国略記』には、明和五年(一七六八)四月、歴代の墓とともに、本堂北側の現在位置へ移したことが記されているが、元の場所は南側前部あたりであろう。平成八年、補修強化のため搬出され、五月二十五日に直された。その間、四月八日から十一日にかけて、地下の発掘調査があり、人骨の入る高取焼甕三個が出土したが、長安のものではない。平成六年五月二十四日、国指定史跡となる。

 

【関連】大久保長安(おおくぼながやす)・大安寺(だいあんじ)

【参考文献】計良勝範「大久保石見守長安の逆修塔」

(『いしぼとけ』創刊号)、

京田良志「越前式宝筐印塔ー大久保長安逆修塔ー」

(『佐渡相川の歴史』資料集二)、

斉藤本恭・佐藤俊策「大久保長安逆修塔地下の調査」(『相川浜石』四号)

【執筆者】計良勝範

 

(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)

 

大久保山城(おおくぼやましろ)[田辺安政]

【生没】生・没年不詳

 大久保の本姓は田辺氏、長安が甲州で鉱山業の役人をしているとき、田辺十郎左衛門という銀山衆の元で働いていた。安政は田辺十郎左衛門の子、佐渡に来て大久保長安の家臣となり、大久保氏を称した。慶長年間、佐渡陣屋に勤務し地方をつかさどった。「川上家文書」に、長安から米代金について、山城宛の指示文書がある。慶長十八年(一六一三)、大久保長安の死によって、大久保氏が佐渡から追放されるが、山城は田辺と姓を変え、元和四年、竹村・鎮目両奉行が着任するまで、佐渡金銀山代官としてその任を果たした。

 

【関連】大久保長安(おおくぼながやす)

【執筆者】田中圭一

 

(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)

 

根本寺(こんぽんじ)日蓮

 

 新穂村大野にある日蓮宗の塚原山根本寺は、倭名類聚鈔の旧地名では、加茂郡大野郷の内である。塚原を冠した山号は、日蓮遺文の『種々御振舞書』に記された「塚原と申す山野云々」によるものであろう。

そこが最初に上人の落ち着いた、配所の所在地と伝えられる旧跡である。根本寺の開基に関して記した文献資料は数多いが、いずれも日蓮歿後三百年以上を経てのちに書かれたもので、不明不詳の部分があり、統一した記述がないので、根本寺住職の富田海音が纏めた『塚原誌』を中心に、その他の資料も参照しながら要約した。

文永十一年(一二七四)に日蓮が鎌倉に帰参した後、大野村に正教寺が建てられた(『寺堂明細帳』ー橘法老の『日蓮上人佐渡霊跡研究』によると、永禄年中〈一五五八ー六九〉八世の日成が三昧堂を改めて正教寺を建つとある)。天正十五年に京都妙覚寺の日典上人が渡海し(『塚原誌』では同十八年)、日蓮遺文の「塚原」をこの地と判断して、根本寺を開基した。妙覚寺は不受不施派の大本山で、その事に関連して正教寺との合併(後述)があり、根本寺を名乗ったという。したがって当時の根本寺は妙覚寺末であった。『撮要年代記』には、「慶長二年丁酉佐渡大泉坊日朝塚原山根本寺を草創す」とある。この記録は、前記『寺社帳』にも付記してあるから、寺域かどの建造物かが、形を整えたことを指すのかもしれない。

しかし『日蓮と佐渡』(中村書店・昭四六)は、慶長検地帳に寺名の記載のないことから、寺らしい感じをもつようになったのは、慶長十二年九月のことで、祖師堂の建立をさしているともみられ、建立者祐白は相川銀山の山師で、夕白町を開発した備前嘉兵衛の改名である。この祖師堂は、やがて大檀那となった味方但馬によって改築されている。その頃、正教寺を末寺としてきた京都妙覚寺は、同門の栴檀院日衍が慶長十七年に来島して、有力の檀那味方但馬の外護を得て山門の経営に尽力し、独立寺院の形をとったことを非難して、駿府に訴え出た。この訴詔は、家康の裁許によって日衍の勝訴となり、正教寺は独立した。根本寺との合併は、寛文三年卯年と『寺社帳』には記してあるが、『佐渡志』には「此寺ノ傍ニ慶長ノ頃或僧一寺ヲ建て正教寺ト名付寛文年中ニ廃スト云ウ」と註記してある。したがって、共に塚原にあった正教寺と根本寺との正確な相互関係については、今後の研究課題となる。なお、日典の来島の動機に関しては、天正十七年に佐渡を支配した上杉景勝の統率者、直江兼続による招待説(『日蓮と佐渡』)や、堺の法華行者仏寿坊が佐渡で得た情報を、日典は確める目的であった(『新穂村史』)、などがある。さらに『寺社帳』の書かれた宝暦の頃には、根本寺は身延山久遠寺・池上本門寺・中山法華寺の三か寺による、輪番所であったことが諸書にみえている。

 

【関連】日蓮(にちれん)・三昧堂(さんまいどう)

【参考文献】『佐渡国寺社境内案内帳』(中巻)、橘正隆『日蓮上人佐渡霊跡研究』(佐渡農業高等学校)

【執筆者】本間雅彦

 

(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)

 

戸田藤左衛門(とだとうざえもん)大久保長安の家老

 

【生没】生・没年不詳

 

 大久保長安の家老。「佐渡川上家文書」(両津市和木、川上二六氏蔵)に、しばしばその名前が出てくる。当時駿府にいて、長安の下代で佐渡に駐在していた岩下惣太夫から、鉱山の鉱况などが詳しくこの人に報告されている。また藤左衛門から、岩下への書状もふくまれていて、「長安が甲州へいって逗留し、機嫌がよろしい」ことなど、駿府における長安の動静を伝えている。「戸田藤左衛門所蔵文書写」(国立史料館所蔵の紀伊国古文書)を紹介した、大野瑞男氏の論考(「日本歴史」一九九○年一月号)によると、藤左衛門は慶長十一年(一六○六)五月ころ佐渡にいたらしく、長安から「佐渡国加茂郡」に、六百石の知行が与えられていた、という。長安は慶長九年(一六○四)四月と、五年後の同十三年の二月に来島しているが、藤左衛門の来島および知行は、佐渡史書にはいっさい見当らない。『甲斐国史』によれば、「大久保長安ノ家老ナリ。慶長十八丑年大久保ガ事ニ坐シテ禁獄セラル」とあって、長安の死後投獄されたものの、ゆるされて牢(浪)人になり、駿府・遠江を領した徳川頼宣(家康の十男)に仕え、元和五年(一六一九)の頼宣の転封で紀州(和歌山)に移り、知行千石(鉄砲衆)を与えられた。また『和歌山分限帳』によると、同領内の松城城代も勤めた。これより先、慶長十二ー十三年ごろ、伊豆縄地銀山をも管轄していたことがあると、大野氏が報告している。

 

【関連】川上家文書(かわかみけもんじょ)

【執筆者】本間寅雄

 

(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)

 

日蓮(にちれん)

【生没】一二二二~八二

 

 日蓮は、承久の変の翌年、貞応元年に安房国(千葉県)小湊に生まれた。

一六歳で出家し蓮長と名のる。

建長五年(一二五三)三二歳の時、法華一乗の旗をあげ日蓮と改名。

文応元年(一二六○)「立正安国論」を著わし幕府に上書、そのため翌年伊豆に流され三年で赦免、

文永八年(一二七一)には極楽寺良観の祈雨を侮辱したかどで佐渡流罪となった。時に五○歳。十月十日、預けられた依智の本間六郎左衛門の屋敷を発ち、同二十一日寺泊着、二十八日ころ佐渡に上陸、十一月一日塚原に着、三昧堂に入ったという。ここで塚原問答などの難関を越え、「開目抄」を著わしている。

翌九年四月三日、一の谷に移される。一の谷においては「観心本尊抄」を著わす。

文永十一年(一二七四)二月赦免、真浦より出港し鎌倉に帰る。しかし彼の考えは幕府に容れられるところなく、五月十二日鎌倉を出て身延に入る(この年十月元冦)。日蓮身延に隠棲中、在島時檀越となった佐渡の阿仏房入道夫妻・国府入道夫妻・中興入道などに、何通かの消息を送り届けている。今、阿仏坊妙宣寺に残る「こうの尼御前御書」(単衣御書・建治元年)、「千日尼御前御返事」(女人成仏御書・弘安元年)、「千日尼御返事」(袈裟御書・弘安三年)は、国の重要文化財に指定されている。身延にあった日蓮は、弘安五年病を得て武蔵国(東京都)池上に移り、十月、六一歳でここで没した。立正大師。

 

【関連】妙宣寺(みょうせんじ)・三眛堂(さんまいどう)・妙照寺(みょうしょうじ)・実相寺(じっそうじ)

【参考文献】橘正隆『日蓮聖人佐渡霊跡研究』(佐渡農業高等学校)、田中圭一『日蓮と佐渡』、山本仁「日蓮」(『定本 佐渡流人史』郷土出版社)

【執筆者】山本 仁

 

(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)

 

日詠(にちえい)

 

【生没】生・没年不詳

 

 赤穂浪士の赤埴源蔵の母。佐渡奉行所の地役人高野忠左衛門の娘で、赤穂(兵庫)の赤埴一閑に嫁いで、長男源蔵が生まれる。嫁いだのは「十四歳のとき」(佐渡奇談)とあるが年代も不明で、実名も伝わっていない。

「日詠」とは髪をそって出家したあとの法号で、実家の相川高野家が代々日蓮宗瑞仙寺(中寺町)の檀家だった。

文政七年(一八二四)の相川町絵図によると、住まいは会津町で、二十俵三人扶持の禄高。源蔵(重賢)の名は講談の「赤垣源蔵徳利の別れ」で有名になったが、禄高二百石の馬廻り役で、討入り当時三四歳。新発田の堀部安兵衛より二つ年上だった。弟の本間安兵衛は、土浦(茨城)城主土屋相模守の家臣。妹は宇都宮城主阿部対馬家の家臣の田村縫右衛門に嫁いでいたことが、討入り後に源蔵が書いた「親類書」から読みとれる。苗字の「赤垣」は講談の誤まりで「赤埴」が正しいこともこの親類書からわかった。

日詠と弟の安兵衛が、討入り六年後の宝永五年(一七○八)五月、江戸から相川の実家に宛てた書状各一通が残っている。この年の三月に、たまたま産金輸送のため江戸へ上った甥の高野忠左衛門(玄家)が、「干鯛」「わかめ」「塩鱈」などを土産に持参した。その返礼で「源蔵のおかげで、われら何方へ行っても、下にもおかれず候」と、討入り後は幸わせに暮していることが日詠の手紙にある。当時江戸滞在が一○日間だったため、江戸へ登ったものの日詠らとは対面できず土産物だけ届けて帰った。この甥の玄家は帰国直後、四五歳で相川で没し、一族の墓は中寺町の日蓮宗・瑞仙寺に残っている。

 

河村彦左衛門五輪塔(かわむらひこざえもんごりんとう)

 慶長六年(一六○一)から八年まで、四奉行の一人であった河村彦左衛門吉久の五輪塔で、相川町江戸沢町の浄土宗大安寺にある。石英安山岩製。大形で全高二九八センチ、基壇三○センチ、地輪高八○センチ、巾九○センチ、水輪高さ七二センチ、火輪高さ五五センチ、巾九二センチ、風空輪は一石で、風輪高二八センチ、空輪高三三センチ、径五三センチ。水輪が大きく、火輪が比較的小さい感じで、全体が不均衡な感じがする。

各輪正面にア・バ・ラ・カ・キャの種子を薬研彫し、地輪正面には向って右側から、「厥以右志者為俗名河村彦左衛門 逝去廣岳院殿 清吽浄栄大禅定門 頓證大菩提也 

干時慶長拾三戊申穏今月 施主敬白」向って左面には

「切工也 小泊村 大工 惣左エ門 新左エ門 甚□ 人足 □左エ門 □□郎 □人□」

と刻む。

大安寺過去帳の二十一日に、

「慶長十三申七月 御奉行 清岳浄栄大禅定門 河村彦左衛門殿墓有之」

内過去帳には

「覚月妙本信女 慶長十巳年五月 御奉行河野彦左衛門家老妻」につづいて、

「廣覚院殿清岳浄栄大居士 慶長十三申星七月廿一日 河野彦左衛門殿事」

とある。

『佐渡古実略記四』の「河村彦左衛門由緒書」には、

「吉久慶長十三申七月廿一日於越後卒法号清岳浄栄大禅定門ト改相川大安寺ニ石塔有、 

吉久室 

慶長十三戌申十一月十六日卒法号了瑞院妙善佐州大野村根本寺施主本寿院日久ト有之」(根本寺の五輪塔は慶長十五年銘)とある。

大安寺は慶長十一年(一六○六)、初代佐渡奉行大久保石見守長安が開基した寺であるが、大安寺石塔中、長安の逆修塔の慶長十六年に先立って建立され、大安寺最古の石塔である。彦左衛門五輪塔が、当初どこかに建てられたものが、のちに大安寺へ運ばれたとか、長安没の慶長十八年以後、在住の有志によって建てられた供養塔とする説(「寺と墓と墓制」)があるが、長安が佐渡入国前の佐渡支配者として、業績のある縁を以って五輪塔の年号どうりに、当初から大安寺に建立された墓塔であろう。

地輪側面の銘は、小木町小比叡の蓮華峯寺にある快宥の慶長十二年銘大五輪塔とともに、慶長年、小泊(羽茂町)石工の惣左衛門らの存在を知る資料である。平成六年(一九九四)五月二十四日、国の史跡に指定された。

 

【関連】河村彦左衛門(かわむらひこざえもん)

【参考文献】計良勝範「相川の石仏」(『いしぼとけ』三号・佐渡石仏会)、『佐渡相川の歴史』(資料集二)

【執筆者】計良勝範

 

(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)

 

河村彦左衛門(かわむらひこざえもん)

 

【生没】(生年不詳)ー一六○八

 

 「佐渡奉行歴代」には、

「知行千五百石、河村彦左衛門吉久、元上杉景勝家臣ニテ慶長五年佐渡国中検地、其後同六年御当家エ被召出、同八年迄支配、但四奉行筆頭之由申伝フ、転役不知」

とある。

さらに「河村彦左衛門由緒書」によると、本国は尾張、生国は甲州とある

天正十七年(一五八九)佐渡攻略後、湊町(両津市)に居住し、

文禄四年(一五九五)景勝が会津へ移封されると、鶴子外山の陣屋(佐和田町)へ移った。上杉景勝の代官として佐渡を支配し、徳川家康時代になっても、吉田佐太郎・田中清六・中川主税らと佐渡四代官の一人として残り、

慶長七年(一六○二)まで在島した。甥にあたる主膳が、村上城主堀丹後守に仕えていた関係から、改易の後は村上にいたといわれている。

没年は慶長十三年七月二十一日。供養塔が浄土宗大安寺境内(江戸沢町)にある。

大久保長安支配下に、長安によって建立された大安寺に建てられた事情はわからないが、地方を預った大久保山城らとの関係によるものだろう。

慶長五年(一六○○)の中使検地は、全島で行われた田地刈高検地で、河村彦左衛門が行ったもの。供養塔の地輪には、「広覚院殿清岳浄栄大禅定門頓証大菩提也 干時慶長拾三戊申稔 今月施主敬白」とある。

 

【関連】河村彦左衛門五輪塔(かわむらひこざえもんごりんとう)

【参考文献】『佐渡相川の歴史』(資料集二・七)

【執筆者】佐藤利夫

 

(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)

 

 

 






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最終更新日  2022年02月15日 17時52分43秒
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