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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年02月16日
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土塀から甲金ザクザク 甲金地蔵の下からも16

 

  泉昌彦氏著『信玄の黄金遺蹟と埋蔵金』より

  山梨県歴史文学館 一部加筆

 

 

塩山市千野部落に村田七郎家という旧家がある。

 

「峡中家歴鑑」という甲州武家の総系譜は、実にその家譜を詳しく伝える武家資料だが、村田七郎氏の始祖については、黒川金山最初の発見者だとある。

多分これはすでに採掘されていた黒川谷鶏冠山において、新しい別の間歩を発見したものと解すべきだろう。すでに同市上粟野「村高書上げ帳」では、田辺家も金山の発見考としているから別に金筋を発見した者が重く用いられたものである。

村田家の由緒によると、その始祖は村田弥三と称し(京都出身の僧)、武田氏に仕えていた当初に黒川で金山を発見し、信虎に上申して大いに金脈に当たった。これを奇として作られたのが「金見地蔵尊」で、正しくは千野村字鴬居原に祀り、つつじケ崎の守護のために古府中へ向いていた。

信玄時代は「普譜奉行として仕へ十二代昭貞に至る」と、武田氏より給わった物品も数種あるが、とくに元亀二年(1571)に、信玄より与えられた

 

「一間棟別共御赦免、然而御普請役隠田等軍役衆可為重、云々」

 

の朱印状を伝えている。この村田家が、いかに黄金との関係があって栄えたかは、隣村まで他人の地所を一歩もふまなかったという点でも、近くの鳶の宮神杜が村田助之丞正次の創建といわれ、始祖の墓が五輪塔の並ぶ大きな墓地だったことでもわかる。

すっかり産を傾けたことを悔やみもLない七郎氏は、

筆老にその金見地蔵を贈呈すると言い出した。幾重にも辞退したが、この金見地蔵の下から十六個の駒金(石打金)が発見されている。それも真面目なるが故に、むかしの警察へ渡してしまったという。

この甲金は多分、屋敷墓の下にまだ埋もれているだろう。たまたま新仏を埋める時に掘り返した土にまじっていた物であると判じられる。

この村田家の真裏にある家来宅の村田源一二さん(現在空屋敷)宅で、土塀を崩したとき、塗り込めてあった甲州古金がザクザクと出て来たのは近年のことで、今は厳重な竹垣をして東京へ移ってしまったので、隣家で行先きを訊ねるのも面倒なので、その駒金の詮索は市の住民課ででも訊ねて、読者に任せたい。ただしザクザクという近所の人の弁の通り、一升マスヘ一杯も出たという程ではあるまいから、量についても、出土の状態も、本人の方が正確だが、東京まで訊ねて行くことは筆渚としても時問が許されないので、埋蔵金の出たことだけは確実である点を保証するにとどめたい。

ともかく、さすがは黄金王国だった甲州のことであるから、埋蔵金だけでも前記のように続々と出ているだけに、今後の発掘の成行き次第で、とんだ大口に当たる可能性も高い。実際に埋蔵金とは、必ず出るというデータによって発掘の範囲を縮めていけば、山吹色に頗が染まるような夢も叶うものである。

本願寺門主顕如と相婿だった信玄が、本願寺へ軍資金だけでなく、出兵して紀州雑賀衆と共同作戦で信長と戦わせたことは、NHKの「国盗り物語」には出て来なかったが、現実には勢州長島の門徒教団が信長に抵抗した長島へ出兵している。その大将の種村兵部丞に対し、武田信豊(信虎の孫)が出した次の印書がある。

 

「至勢州、長々存陣炎天時分苦身推察候----

 

また甲州へは、別に本願寺の教如から末寺へ軍資金を求めた檄文が寄せられている。これは、筆者の生家の寺と程遠からぬ勝沼町の万福寺に三通ほかが遺されているが、愚民の信徒をして武力に対抗させ、双方何十万もの人を殺し合っている点では、いつの世も「万民ノ心ヲ以ヅテ心トスル」為政者は不在のようである。

坊主が戦争や政治に介入することに対し、

「僧トハ影キ珪いでずこけいすまず

(自己)山ヲ不出、客ヲ送リテ虎渓ヲ不過」(無住国師)が本釆の姿で、教団の屋根の高さを競い合うことは、いずれの始祖も本願とするところではなかった。

 

「三衣一鉢ヲ身二随ガヘテ、四海ヲ以テ家トナシ、

父母妻子を離レテ山林二交ル」

 

宗祖道元も教団を否定し、

「僧トハ水ノ如クニ流レユキテ、

寄ル処モナキヲコソ僧トハ云フナリ。

従へ衣鉢ノ外二一物ヲ得ズトモ、

一人ノ檀那ヲモ頼ミ、

一類ノ親属ヲモ頼ムハ自他トモニ

縛住セラレテ不浄食ニテアルナリ」

(正法眼蔵随聞記)

と断じ、門徒宗の始祖親驚が、

「死後は鴨川の水に捨てよ」

と言ったのも、教団の主となることは、望みでなかったからである。

 

信玄の黄金に踊った坊主はあまりにも多い。坊主嫌いの信長が、甲州攻めの折りに、戦さに加担した寺々を片っ端から焼き払ったのも、坊主が戦争の媒介をしていたからである。

信玄の師、快川和尚も、また恵林寺(古文書では栄林寺が本来の名だ)の山門上で、八十余人の坊主、法印、山伏とともに生きながらに地獄の業火の中で果てた。

表土にしか黄金の盛山期が存在しなかった黒川金山の黄金も、幾十万という人間の血を吸ってどこかへ失せてしまい、古府中のつつじが崎へ大穴を開けて、大騒ぎを起こす埋蔵金探しの勇者が現われる始末だ。

 

「玉ノ台(ウテナ)ハミガケド毛野辺コソ遂ノ栖(スミカ)ナレ」

 

英雄信玄を、もっと黄金史の裏側から追ってみると、神格化された信玄の映像にも、一個の支配者の束の間の強欲しか映らない。筆者には、黄色い砂塵を捲いて掠奪による英雄を生んだ北方大陸の鏡馬民族の姿を、信玄から思い浮かべずにはいられない。

その信玄時代に盛山の幕を閉じた黒川鶏冠山は、全身に穴を掘込込まれた満身創夷の孤影を、佗しく春日の空にかこっているかのようだ。

 

<甲州金>

 

甲州金の極印松木氏の由緒書(分かり易くした)

 

先祖松木次郎三郎正利

 

甲斐国八代郡上浅利村飯室(西八代郡豊富村)の郷、浅利与市義遠の末葉にて代々右の村へ住居して参りましたが、原因にどんな訳があったのか、本家まで不和となり、同郡中之郷に別家し、それより姓を松木と改めた郷士でありました。双方の当住(主人)が不通のため家の旧記は分かりませんが、そのようなおりに次郎三郎は、武田信玄公の御代の天文中より御陣中の御用を折々おおせつけられ、永禄十二年二十五日に御朱印をたまわり、勝頼公の御代、天正五年二月晦日に御朱印をたまいて、只今所持しております(「甲斐国志」所載の判物)

次郎三郎の男子には三太夫、市左衛門、七右衛門、五郎兵衛、七郎兵衛とあわせて五人あり、三太夫は山梨郡小瀬(今の甲府市小瀬)に居住していたが、病身ゆえ独身のまま早世の由にございます。

市左衛門、七郎兵衛の儀は、のちのち江戸表へ御奉公にまかりでました。次郎三郎は三男七左衛門、四男五郎兵衛を召連れて由緒もこれあり、府中柳町へ転住して、その後刺髪をあらため小瀬村へ引込んで隠居したが、御朱印地所は分かりません。

松木七右衛門

 

右は次郎三郎の三男にて相続後に刺髪を改めたのは存じおります。甲府町の検断役を仰せ付け蒙り、天正十年午年に、同役衆三人一同は駿府へ召出されて権現(家康)様に御目見え申L上げ奉り、御ねんごろの上意をこおむり領物をおおせつけられました。

同年八月、御入用金の節もなお改役の者共が右左口村までまかりいでて、上曽根村竜花院に御逗留の折々ご機嫌を伺い、御駕籠の節も府中まで御案内したのは存じております。

 

五郎兵衛は御用を相勤めて当国の通用金ならびに国枡(甲州マス)を奉り上覧に供しました。その節、判屋の儀についておたずねにたりました。武田御歴代の先祖より勤めおった由を申上げますには、成瀬隼人守殿をもって先儀を相届け、なおまた五郎兵衛に相勤めます様おおせられました。

しかるに文禄年中に当柳町へ引移り、両人たらんで帯刀で勤めておりましたところ、その後召出されて右両人ともに江戸表へまかり越しましたが、このことも存じております。 

 

伜が初年にて相勤めおぼつかぬゆえに、巨摩郡乙黒村郷土山本八左衛門の伜茂兵衛と申す者を養子に貰いうけて跡目を相続いたしましたが、しさいがあって山本法号清純と申上げました。五郎兵衛のあとの判屋のことは伜の弥右衛門が相続いたしました。

 

柳町一丁目の南角両側にて間口十三間の屋舗を判屋処ととなえました。

しかるところ寛永年中に右弥右衛門が間屋役を仰せつけこおむりましたので、判屋を勤めまするにも御用に差支えがありましたので、判屋の役はほかへゆずりますよう御沙汰がありましたが、判屋の儀は由緒もある役目のことゆえ、ほかへゆずることは御免にして下さる様に申上げましたけれども、間屋役勤め中に判屋を相勤めるのは不都合なので当分の間ぜひゆずるよう仰せきき、よんどころなくおうけ申上げて妹婿の柳町組の庄三郎にゆずり、極印ならびに御奉書とも相渡し申しました。

 

一、

右屋舗の十一二間口のうち、戸口で四問分で相済むよう仰付っけこおむり、弥右衛門の儀も極印へ立会いますよう仰付けこおむり、立合って極印をつかまつりました。

しかるところ、御届けどおりとどこおりなく吹き納めましたのに、どんなまちがいがあったのでしようか、右極印は甲府御奉行の竹川監物殿、渡辺弥兵衛殿へ御取上げに相成る由、そののち判屋の儀は、武井村郷士善太夫へ、婿がその一門より出ている竹川監物殿からゆずり渡されてしまいました。しかるに善太夫儀は段々に身上が不如意となり、同郡木原村郷士次右衛門へまたまた婿の引出物としてゆずられましたところ、これまた身上不如意とたり所持なりがたく、巨摩郡宮原村郷士桜林源十郎へ仰せまかせ、婿引に相ゆずり、それより松木源十郎が今もって判屋舗を所持つかまつり、甲金吹足したどの御用も仰せつかっていました節は、古来の由緒をもって御町御支配どおり前事の御用を仰付かりました。

 

一、 

問屋弥右衛門は寛永二十年に病気になりましたので孫の伝右衛門に御役を仰せつけ、郭内ほか四千坪、毎年、御城米を百俵公許借の仰せつけ、しかるところ延宝六年戊午年に伊右衛門落馬いたし、役目つとめがたくなりましたので、甥の松木甚右衛門へ同九月二十九日に跡目を仰せつけられました。同八年三月二士二日五人扶持をこおむりました。

右は幼年の時より父物証うけたまわりおきました趣により、このたび一記しおくものなり。

享和和三(1803)年癸寅三月 

松木成山正弥花押

山本金左衛門殿

 

以上、タライまわしされた極印のゆらいが、この由緒書にあきらかだ。また松木成山については甲斐国志でも取り上げている人物である。

 

<武田時代の庶民と甲州金>

 

「慶長見聞集」巻之七の

「日本に黄金はじめしこと」

に、推古天皇の六〇五年、高麗国の大興王が造仏の勅を聞いて黄金参百両を貢上したにつづけて、

----かるところに当君の御時代に金山できて、金銀の御運上を車に引きならべ、馬につけならべて毎日おこたらず、なかんずく佐渡島はただ金銀をもってつき立てる宝の山たり。

この金銀を箱に十二貫目入りあわせ、百箱を五十駄積の舟につみ、毎年五十艘づつよい波風に佐渡島より越後のみなとへ着岸す。これを江戸()へ持ちはこぶ。おびただしきこと、むかしいま、たとへとてもなし、民百姓まで金銀とりあつかふこと、ありがたき御時代なり----L

とある。

「慶長見聞集」は、小田原城の北条氏政の臣、三浦浄心が入道して筆録Lたもので、永禄八(1565)年に生まれた作者は、天正十八(一五六五)年に二十六歳で小田原城へ籠城したが、城が落ちたあとは江戸に住み、「順礼物語」「見聞軍抄」「北条五代記」などの諸文集があることで有名だ。

同記巻之六の

「江戸にて金の判あらたまること」

で、

「江戸町にて金に判する人、四条、佐野、松田とてこれら三人也。砂金を吹まろめ、壱両、弐朱、朱中などと、目方をも判をも紙に書つけ取波すること天正寅の歳より未まで六年用いきたる。この判自由ならずとて、後藤庄三郎という、京よりくだり、おなじ未の年より金の位さだめ、壱両判を作り出し金の上に打刻ありて、これを用ゆる。また近年は壱分判出来て世上あまねくとりあつかへり。されば愚老の若い頃は、壱両弐両、道具よりはづし

もも金を見てもまれごとの様におもひ、五枚十枚持たる人をぱ、世にもなき長考、うとく者などいい」

が、今はいかようなる民百姓にいたるまでも、この金を五両十両持ち、また分限者といわれる町人達は五百両、六百両持てり。此金家康公御時代より諸国に金山出来たり。万民金持事は秀忠公の御時より取扱かへりしと。

 

以上は、戦国時代に成長し、江戸へ出てからは上野不忍池付近に住んで、徳川三代にわたる杜会情勢を見ながら書き続けて、八十歳で没する正保元(1644)年までの実録であるから、甲金研究にとっては注目すべき一級の側面資料である。

 

これで天正十九年ごろ()の万民は余り金を持てず、二代将軍秀忠の時代(慶長十年・1605~元和九年・1623)に至って、はじめて平等に金を売買通貨として、普遍的に持てるようになったとある。

この点、浄心自身が江戸において初めて通貨としての金判を手にした実感を筆録したもので、文中の十八年は十九年の誤記と思う。

家康は関東受封の翌十九未年から文禄四(1595)年まで、小額の鋳造を行ったが、甲斐国志では

「慶長以前ノ金ハ犬判ノミデ小判ナシ。

壱両十匁ニテ慶長小判ノ弐両余二当タル----

とある。

家康が文禄四(1595)年に、後藤光次を京から下L、小判座二十七人を定めて、駿河、武蔵判を吹かせた頃に甲州金はどうであったかは、

「坂田清九郎古券集」、

青木昆陽の「甲州略記」「昆陽漫録」「甲州古文書集」「甲陽軍鑑」「甲斐律令雑輯」「裏見寒話」「甲陽旧尋録」「古山日記」「歴代譜」など、二十指に余る古記を整理しながら、「慶長見聞集」などの中央文献とも比較したいが、武田以後のものをざっとひろう。

 

「慶長見聞集」は、陸奥の藤原氏の栄華を伝えたあと、

「……天正年中の頃、金壱両に米四石、永楽は壱貫、但しびた四貫に当たる。是は三十年余以前の事なり。其頃、金壱両見るは今の五百両、千両見るより稀なり。然れば国治り、民安穏の御時代、皆人金たくさんに取扱ふといへども、あたいは古今同じとて、めでたからたり----

と、「吾妻鏡」にある鎌倉初頭の物価を挙げて比較している。

なお「是は三十余年以前」とあるのは浄心の在世中の永禄五(1562)年頃にあたり、この頃の民百姓はまったく黄金など拝むこともできないことを示すものだ。

 

土肥金山など日本有数の金銀山をもっていた北条氏の臣だった三浦浄心すら、金判などみることさえまれであったとの述懐でもある。

民百姓まで金銀がもてるよきご時世にしたのは、大久保長安という金銀山開発の鬼才天才と、これを助けた金掘りの力量才覚とみるべきところだが、その長安一族の末路はあわれをきわめている。

浄心ですら、壱両の金をみることのまれだった戦国時代の情勢にてらしても、甲州だげ黄金が通貨として民百姓の問に社会性をもっていたかどうか。これを否定する資料は充分ある。

 

家康が天正十九(1591)年の十二月から小判の鋳造をおこなう以前は、ほとんど貴族、社寺、高級武土のみがもつ寄進物・恩賞用とみて大過はあるまい。

ことに、青木敦書が、天正十(1582)年に、甲州からかき集めた三十万両を吹き替えたという記録など、昆陽の目がくらんでいた、と「甲斐国志」はコキおろしている。

 

四ツ~七ツ時まで宿打ち、

甲金の吹床から埋蔵金出る

 

甲州金は、祖父が甲斐の武川(北巨摩)出身で、老中に昇進した柳沢吉保が宝永元(1704)年に甲府藩十五万石に封せられた際に公許を得て、同四年から享保十二年まで、十一年問にわたり吹替えをおこなった。

 

甲金の吹床については、「兜山晶雑記」に

 

「・…-佐渡町(甲府市)にて慶長小判を吹出す。是を佐渡小判といふ。甲州も同小判、これより佐渡町という。その後、宝永年中、甲斐守殿、甲重金、甲安金を佐渡町にて御吹出しこれあり。また、天和年中の頃までは、東は金手町、一条町、和田平町、東光寺村、西は工町、伊勢町、近習町ニツにわかれ、東光寺村に場所をたて、四ツ時(九時)より七ツ時(四時)まで石打ちいたし候。貞享のころより御法度に相なり」とある。

 

この東光寺からでた埋蔵金は後記の通りだ。

 

元文四(1739)年には、横沢町でづく銭がつくられた。元文五年七月から翌年の五月まで飯田町でもづく銭が鋳造された。これが「銀田銭」といわれることは述べるまでもない。

 

江戸時代の歴史年表である「武甲年表」(斉藤月峯)にも、天正十九年の項で、

「十二月関八州通用のため大判小判を造らしめたまう」

 

とあり、以後も~88)の「譯海」にも、おおく貨幣の筆録があるので、貨幣研究の重要参考にたる。

 

(前文略)

甲斐には、武田氏の時製ありし金、

いまなお残りて甲州のうちにては、

いま時も文金、古金にまぜ通用する事とぞ、

壱朱金、二朱金、壱分金と三品なり。

壱朱といふは二朱の半金にあたるものなり。

三品とも金にて鋳たるものなり。

世に甲州金と称するものこれなり。

  いま時はこの金、甲州にても不足になりて、

百両主,世つかのうち二分ばかり甲州金を交遺ひて、

八分は文金、或は二朱銀を用ひる事になりたるとぞ、

 

なお「謂海」からひろうと、

 

大判をはじめ吹立てられたるとき、

壱万枚を限りとせられて、

いま天下に通用するはこの数のほかなし。

大判所祷してもたしかなる持主書付などさしださざれば、

両替屋みな引替へず。

両替ことのほかむずかしきことなり。

ただし大判の書判少しも墨色はげおつれば通用せず、

それゆえ墨色落消するときは

後藤かたへ相願い書判を書直しもらふなり。

この書直し料大判壱枚に付金壱歩づつなり。

今時は壱両も弐両も書替料取るなり。

古金は引替のこと両替屋にて難せず、

但百両につき元文小判百六十五両に引替ふ。

六割半の増なり。

元文小判壱両に付き目方は一二匁五分あり、

古金は壱両目方四匁八分、

当時南鐘壱片の目方三匁七分たりしと、

 

江戸中期にすでに古金は稀少価値をもっていた。

墨が剥げれば両替えがきかぬとあっては、湿気も持ち運びも不便なもので、通用の便には程遠いお宝であったようだ。同記の甲州金と江戸判金の種類もくわしい。

 

江戸に下金商売免許の老六十六人あり、

上より符をたまわりおるなり。

世間に流布する所の金の品三百六十五種ありとぞ。

このうち古金と称する品四士二種、

慶長金も此品のうちなり。

慶長いらい通用金は四十四種より段々ありという目今世、

通用の小判は銀を四歩ほどまじへたるたりとぞ。

甲州金壱歩たりとも潰す時は、公儀へ訴へつぶす事なり。

 

以上のほかに、中国地方の銀札の不使や貨幣についての筆録は貨幣研究に重要な資料だが、またにゆずり、甲州金は金細工にかなり化けていたものだろう。

 

万民が金銀を普遍価に持てるようにたる以前の戦国時代は、甲州においても、ほとんど高級武士の恩賞用、寺社への寄進、兵器鉄砲などの交易通貨であった。

 






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最終更新日  2022年02月16日 14時35分40秒
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