カテゴリ:甲斐源氏
甲斐源氏の動向
甲斐源氏を語る上で大切な事は、有効な史料の存在が不可欠である。神社仏閣の由来や由緒も参考にはなるが、これを重んじると辻褄が合わないことにもなる。山梨県の歴史書ではこうした神社仏閣の由緒書が優先していて、視野の狭い歴史となっている。 甲斐源氏の活躍は甲斐国内の出来事ではなく、常に中央政権と関連して活動している。甲斐の在住期間は非常に少なく、これは源頼義以下の諸将に当てはまることで、特に新羅三郎義光に於ては甲斐に於ける在任期間も定かではなく、また甲斐の何処に住んでいたかも史料からは浮かび上がらない。 血縁関係を姻戚関係も必ずしも系図に見られるように整然としていたのではないことは明らかで、後世創られた系図に頼る歴史解明は避けるべきである。 さらに甲斐源氏の勃興以後も甲斐国司は存在していて、その在任地は定かではないが、石和御厨( )の存在は無視できない。『神鳳抄』によると「石和御厨二百五十町、外宮領」(『甲州風土記』)とあり、在庁官人の居住地である国衙の近在に在ったとされる。 峡北地方、特に現在の須玉町周辺に新羅三郎義光の伝承が多いのは、津金氏との関係から生じたものとも考えられる。それは大田南畝の「一言一話」巻十三に掲載されている津金氏古文書の内容である。それは、 新羅三郎三代佐竹信濃守昌義が後胤対馬守某甲斐国巨摩郡津金村に住せしより家郷として津金家也。 神社仏閣の由来や墓石などの刻字は、その家系の先祖を以て発祥として建立する場合も多く見られので、須玉町の新羅三郎義光の伝承は、後世の対馬守の所業とも考えられる。 こうした調査をする場合に留意しなければならないのは、神社や仏閣の由緒などを鵜呑みしない事である。有効な史料と付き合わせてみる事が大切で、各神社仏閣の由緒書を繋ぎ合わせると歴史は見えなくなる。誰を祀ってあるかではなく、誰が祀ったのが歴史では肝要なのである。峡北地方の数多くある甲斐源氏の伝承や由来をもって、筋の通った歴史とすることはできない。 市町村誌なども、筆記者の主観や思い込みが激しく導入されている場合が多く見られ、史実とかけ離れた歴史展開となっている場合もあり、定かではない事象については後世の研究に委ねる事も考えられる。
★藤原公季 長元2年10月17日 1029 ・故太政大臣藤原公季を甲斐に封じ、 甲斐公となし仁義公とする。正一位。 ●日本記略 後編14
◇源頼信 長元3年9月2日 1030 ・甲斐守源頼信及び坂東諸国司に命じて平忠常を討たせ、 追討平直方を召還する。 ●日本記略 後編14 長 長元4年2月23日 1031 ・甲斐守源頼信、 調庸使が流人藤原光清の使者を射殺した状を奉上する。 ●日本記略 後編14
4月28日 ・平忠常、甲斐守源頼信に投降し、 伴われて上京の途次美濃国で病没、 頼信その首級を携えて入京する。 ●左経記 6月27日 ・朝廷、頼信の行賞と忠常の子 常昌・常近の処分のことを議する。 ●左経記 7月 1日 ・頼信、忠常追討の賞として丹波守を望む。 ●小右記 7月13日 ・頼信、右大臣藤原実資に物を贈る。 ●小右記
長元5年2月8日 1032 ・平忠常の賞により甲斐守源頼信を美濃守に任する。 ●類聚符宣抄第8
永承1年 1046 ・河内守源頼信、石清水八幡宮に告文を捧げ、 先並びに自己の勲功を述べて、子孫の繁栄を祈 る。
◇源義光(新羅三郎)
天喜2年 1054 ・義光、生まれる。
永保3年1083 ・義光、左兵衛尉。年三十九才。 奥羽戦乱と東国源氏 ・長兄の義家が後三年の役が陸奥国で苦戦、 義光、援軍として上奉して暇乞をするが認められず、許可なく馳せる。 ・義光、時秋に足柄山にて笙を伝授する。 奥羽戦乱と東国源氏 ・義光、陸奥国菊田荘(いわき市内)を押領を図る (修理太夫藤原顕季の所領) ・明簿奉呈(家臣になる意思表示)をする。 ・義光 受領、常陸介となる。現地に赴任し、 大豪族大掾家の娘を嫡男義業の妻に迎え、 佐竹郷に居を構える。 ・義光の勢力、佐竹郷を中心として、 国内北東部一帯に定着する。
康和4年2月3日 1102 ・刑部丞源義光、馬二疋を右大臣忠実に贈る。 この時義光五十八才。 ●殿暦・武川村誌 (殿暦……忠実の子忠通の日記) ・新羅三郎。常陸・甲斐守。左衛門。 刑部丞。平日、住三井寺。 ・義光の子義業…吉田太郎清幹の娘を娶り、 佐竹冠者昌義を設ける。 ・義光、義業を久慈川流域の佐竹郷に配置。 ・義光の子義清…常陸国吉田郡武田郷に住して 武田冠者と呼ばれる。 ・義光、義清を那珂川北岸の武田郷に配置。
嘉承1年6月 1106 ・源義家の子の義国と義光が常陸国で合戦。 ●永昌記
・源 義光 大治2年10月20日 1127 ・源義光死去。●尊卑分脈・大聖寺 ・義光の所領は常陸国多可郡の国境に近い 菊田庄であったといわれる。●十訓抄
光、年七十三。
注…『韮崎市誌』には義光が甲斐守になったのは、嘉保三年(1096)~康和元年(1099)の四年間であるとし、その根拠として、甲斐守藤原行実、藤原惟信の間の任期不在期間を充てている。がこの行実は承徳二年(1098)八月に見任として『中右記』に名が見える。また甲斐国司は甲斐源氏の勃興の間も引き続いて存在している。 注…『新編相模風土記稿』巻之八十七 鎌倉郡巻之十九には次の記事が見える。 大寳寺 佐竹山にあり、多福山一乗院と号す。此地に新羅三郎義光の霊廟あるが故、其法名多福院と云ふを執て山号 とす云へり。されども義光の法名を多福院と云ふもの信用し難し、恐らくは訛なるべし。佐竹常陸介秀義以後敷世居 住の地にて今猶当所を佐竹屋敷と字するは此故なりと云ふ。『諸家系図纂』に秀義の後裔右馬頭義盛応永六年(1399) 鎌倉に多福寺を建とあり。 多福明神社…新羅三郎の霊廟と云ふ、明応八年(1500)権大僧都日證一社に勧請しその法号を神号とすと伝ふ、恐らくは佐竹義盛の霊廟を義光と訛り伝ふるなるべし。云々 鎌倉長勝寺、寺宝、寳陀観音像一体(新羅三郎義光の守本尊と云ふ) 注…鎌倉市大町大宝寺…大宝寺浦野墓地にある変形の宝篋印塔で、後裔の佐竹氏が建てたという。義光は頼義の子で、 新羅三郎あるいは館三郎と称し、兄義家を授けて清原武衡・家衡を討った。 ●歴史と旅、鎌倉興亡史 注…大宝寺…多福山一乗院といい、承暦年間の創建で、当時は真言宗で、俗に佐竹屋敷といわれる所で後三年の役後、新羅三郎義光がここに館を構え、その後佐竹秀義が住んだと伝えられる。 ●歴史と旅、鎌倉興亡史 注…常陸国を去った義光は京都に戻る。除目待つ間近江園城寺に住む。近江国義光所領の地は柏木、山村の両郷など近江国に多く見られる。義光は補任として甲斐守となる。 その所領は加賀美郷・逸見郷・甘利郷・塩部郷・石和御厨・原小笠原郷・一宮郷・一条郷・上条郷・下条郷・板垣郷・吉田郷・二宮郷・岩崎郷など。 義光は嫡男義業を常陸、次男義業の次男義定を配置する。
◇武田義清・源清光
承暦3年 1079 義清生まれる。(逆算)⓬甲斐名勝志武田系図
康和4年2月3日 1102 義光の子義清…常陸国吉田郡武田郷に住して武田冠者と呼ばれる。
天永1年6月7日 1110 義清の子、清光が生まれる。 々 6月19日 清光が市川平塩岡の居館で生まれている。 ●大泉村誌(?)
保安4年 1123 義清出家。●武川村誌
大治2年 1127 清光十八才。
大治3年 1128 清光は当時居住先の常陸国武田郷に於て嫡男光長と次男信義をもうける。 ●長坂町誌
大治5年12月30日 1130 源義清の子清光、濫行を以て告発される。 ●長秋記 甲斐国市河庄に配流される。 常陸国司、住人清光濫行の事などを申すなり。 子細目録に見ゆ。 ●長秋記 義清は武田冠者を名乗る(常陸武田郷)
保延6年 1140 清光の子、十三才元服の儀式。●長坂町誌 小倉太郎光長…逸見庄小倉八幡宮 武田太郎信義…武田庄武田八幡宮
源義清
久安1年 7月23日 1145 義清死去。●武田系図 5年 7月23日 1149 義清死去。年七十。●大聖寺過去帳 刑部三郎甲斐守。配流甲斐国市河荘。 ●武田系図 保安四年(1123)出家。
治承4年 1180 平家追討に決起する諸国源氏の甲斐武将 逸見冠者義清・その子太郎清光。●平家物語 武田太郎信義・加賀美二郎遠光 加賀美小次郎長清・一条次郎忠頼 板垣三郎兼信・逸見兵衛有義 武田五郎信光・安田三郎義定
源清光
仁安3年7月8日 1168 清光没(年59)甲州卒。天永2年生。 茨城県那珂郡武田郷に起こる。新羅三郎 義光の三子義清、刑部三郎と称し、はじめ那珂郡武田郷に居住し武田冠者と称し、義光の嗣たり 子清光大治五年罪あり、その父子を甲斐に配し市川庄に置く。是にて子孫永く甲斐の人たり。云々 …… ●新編常陸国誌 ●佐竹系図 若神子の居館で死す。 ●武川村誌(?)資料無。
正治1年6月19日 1199 清光没、●甲斐名勝志(?) (武田郷)の地名初見…和名抄 東西は七町、南北十八、町余ありて、久保、猫山の二組、中、原の二坪を有す。即和名抄、那珂郡武田の本郷にて、吉田社仁平元年(1151)文書に「吉田郡云々、武田荒野とあるもの是なり。中世大掾氏吉田の一族、此地に住して、武田氏とな る。或いは云う、甲斐武田氏も亦此村より出ツ、云々 ●新編常陸国誌
◇伊澤信景
平治1年12月9日 1159 井沢信景、平治の乱に源義朝の軍に加わって奮戦、負傷して帰国する。 ●平治物語 上 甲斐の国には井澤四郎信景を始めとして宗との兵二百人、以下軍兵二千余騎云々 井澤信景は(中略)遠江に知りたる人ありしかば、それにおちつき、傷を療治して弓うちきりて杖につき、山伝いに甲斐国井澤に落ちけり ●平治物語 中
◇武田信義 源信義
治承4年9月7日 1180 武田太郎信義、甲斐国を領す。●山槐記 平井冠者 平氏方甲斐国平井冠者、被討取。大太郎云々 烏帽子商人大太郎、頼朝を助け石和に百町の名田と在家三宇を与えられる。●源平盛衰記 9月24日 武田信義らの甲斐源氏、逸見山から石和御厨へ移動する。●吾妻鑑
武家時代分限帳
禄高(鎌倉右大臣の時) 四万五千石。北条四郎時政 五万石。武田太郎信義(甲州の内) 一万八千町 逸見三郎(山城の内) 三千町 一条次郎槇義(甲州の内) 五千町 板垣四郎高房(甲州の内) 千町 成田小兵衛房次(足利尊氏時代) 五千貫 武田伊豆前司信氏 二万貫 安田民部大輔仲景 甲斐源氏、北条父子と駿河国に赴く。 10月13日 石和御厨をたって、若彦路の大石駅に宿泊する。 武田太郎信義・次郎忠頼・兵衛尉有義 安田三郎義定・逸見冠者光長 河内五郎義長・伊澤五郎信光 10月14日 甲斐源氏、武田・安田の人々神野並びに春田路をへて鉢田に入り、駿河目代軍を破る。 10月20日 武田信義兵略を廻らし、敵の後面を襲う所、水鳥群立てし軍勢の装いをなす。 追討使軍敗走する。●平家物語 10月21日 武田信義…駿河守護、 吾妻鏡 (治承4年1180~元暦1年1184) ●日本史辞典角川書店版 11月 5日 甲斐源氏、富士川西岸に布陣した追討使軍を夜襲、追討使軍戦わず退却する。●玉葉
養和1年3月7日 1181 武田信義、御白河法皇から頼朝の追討使に任じられたいう風聞を否定し、誓書を提出する。 ●吾妻鑑
寿永2年 1183 義仲追討使として、甲斐源氏も出兵する。 武田太郎信義・加賀美次郎遠光 一条二郎忠頼・小笠原次郎長清 井澤五郎信光・板垣三郎兼信 逸見冠者義清(有義の誤りか)
元暦1年 1184
近江国粟津の戦いで甲斐源氏が活躍する。 ●源平盛衰記 一条忠頼・板垣三郎兼信…先陣、七千余騎 武田太郎信義・加賀美次郎遠光…二千余騎 逸見四郎有義・伊澤五郎信光 三千余騎 小笠原小次郎長清 範頼・義経群、摂津国に入り、一ノ谷に陣を構える平氏軍と対峙する。●平家物語 武田太郎信義・加賀美次郎遠光 一条二郎忠頼・小笠原次郎長清 井澤五郎信光・板垣三郎兼信
武田信義
文治2年3月 9日 1185 武田信義死去(『吾妻鏡』には建久元年十一月七日の項に、武田太郎とある) 卒年…59才。
◇安田義定
治承4年10月21日 1180 安田義定…遠江守護 ●吾妻鏡 (治承4年1180~建久4年1193) 日本史辞典角川書店版
養和1年 8月12日 1181 源頼朝、安田義定を討つとの風聞、京都に伝わる。 ●玉葉
寿永2年 1183 安田遠江守義定も義仲の負死を報告する。 ●吾妻鏡
建久5年8月 1194 幕府軍、梶原景時甲斐に攻め込み安田軍と戦い、安田義定菩提寺放光寺で自刃。
◇一条忠頼
寿永3年 1月27日 1184 一条次郎忠頼等飛脚参 着鎌倉 義仲の負死を報告する。云々 ●吾妻鏡
元暦1年6月16日 1184 武田信義の後継者と目されていた一条忠頼、鎌倉で頼朝に謀殺される。
◇板垣兼信
文治3年 3月17日 1187 板垣兼信、西国より使者を遣わし、土肥実平の専権を訴えるも、頼朝、退ける。
4年2月2日 1188 板垣兼信、尾張国津島社領の所当年貢を修理大夫に不納の為、訴えられる。
建久1年 7月30日 1190 板垣兼信、違勅の罪により隠岐国への流罪に処せられる。 々 8月19日 板垣兼信の所領、遠江国質侶荘の地頭職を解くこと約束する。 々 9月13日 板垣兼信、配流の官符の後在京しているとの風聞が流れる。 々 9月27日 御白河上皇、板垣兼信の配流を頼朝の上洛以前に完了するように強く命ずる。玉葉 々 11月日 頼朝入洛。随臣者、武田太郎(信義?)武田兵衛尉(有義)浅利冠者・奈胡蔵人・加々美次郎 安田義資越後守・河内五郎
文治5年 5月22日 1189 頼朝、院宣を受けて、板垣兼信の駿河国地頭職を解く。
◇武田有義
治承4年12月24日 1180 平清盛、京にいた武田有義の妻子を殺し、門前に梟首にする。●山塊記
寿永2年2月5日 1183 範頼・義経軍、摂津国へ入り平資盛・有盛らとの戦いに、武田兵衛尉有義・板垣三郎兼信・遠江守義定の名が見える。
々 8月6日 武田有義ら、平家追討のため西国下向にあたり、御所で饗され、餞別として馬一疋を与えられる。
々 8月8日 武田有義、頼朝に従い平氏追討のために鎌倉を出立する。
々 10月 政所造営、安芸廣元を別当として(中略)甲斐四郎秋家らを寄人として吉書あり。
元暦2年 1月26日 1185 範頼の豊後国に上陸に際し、武田有義ら随行する。
々3年 1月3日 1186 頼朝、鶴岡八幡宮に参詣する。武田有義、板垣兼信ら随兵として従う。
文治3年 3月15日 1187 武田有義、頼朝の鶴岡八幡宮での大般若供養に際し、御剣役として供養するを壓い遂電する。
々 5年 6月9日 1189 武田兵衛尉有義・武田五郎信光、鶴岡八幡宮どの御塔供養に、頼朝の先陣の随兵として参加する。
々 7月19日 浅利冠者遠義・武田兵衛尉有義・伊澤五郎信光・加々美次郎長清・加々美太郎長綱・加々美信濃守遠光・安田遠江守義定、頼朝の奥州征伐に従軍する。 建久 2年 2月4日 1191頼朝の二所参詣の随臣、伊澤五郎(信光) ・加々美二郎(長清)・武田兵衛尉(有義) ・浅利冠者長義・安田義資越後守・奈胡蔵人義行
建久 5年10月9日 1194 頼朝、流鏑馬以下の弓馬の道を武田有義らの堪能の者に評議させる。
々 11月21日 武田信光、鶴岡八幡宮で射手を努める。 武田信義の名が見える。 武田兵衛尉有義・小笠原次郎長清 武田信光・加々美遠光・安田義定 武田兵衛尉有義・小笠原次郎長清 奈胡義行・安田義資
建久6年 3月10日 1195 頼朝、東大寺供養、随臣、武田兵衛尉有義 ・小笠原次郎長清・伊澤五郎(信光)・奈胡蔵人 ・浅利冠者・南部三郎・加々美三郎・河内義長。
々 5月20日 頼朝、四天王寺に参詣、随臣、武田兵衛尉有義 ・伊澤五郎信光・奈胡蔵人義行・浅利冠者長義 ・南部三郎光行・加々美二郎長清
建久8年 3月23日 頼朝、信濃善光寺への参詣、随臣、 武田兵衛尉有義・伊澤五郎信光 加々美二郎長清・浅利冠者長義・南部三郎光行
正治2年 1月28日 1200 伊澤信光、甲斐国より参上、武田有義が梶原景時に通じて逃亡した由を報告する。
◇武田五郎信光
寿永2年 1183 武田信光の讒言により、頼朝、木曾義仲攻撃の為に信濃へ出兵する。
文治1年 10月24日 1185 武田信光、勝長寿院落慶供養に際し、先随兵として頼朝の行列に加わる。
々 3年 8月15日 1187 武田信光、鶴岡八幡宮の流鏑馬に射手として参加する。
々 4年 1月20日 1188 頼朝の二所詣に、武田信光・加々美次郎 奈胡蔵人。 6月 9日 武田兵衛尉有義・武田五郎信光、鶴岡八幡宮どの御塔供養に、頼朝の先陣の随兵として参加する。
々 5年 1189 八幡宮どの御塔供養に、頼朝の先陣の随兵として参加する。 信光、安芸守となる。
建久 2年 7月28日 1191 武田信光、新御所落成に伴う御移徒の儀に、参加。安田義資・浅利長義。 々 8月16日 鶴岡八幡宮流鏑馬、射手 武田五郎・小笠原二郎・武田小五郎 武田信光の進上した十六疋の馬が新御所で披露される。 信光…黒と白の斑毛
建久4年 3月21日 1193 下野国那須野での狩りに弓馬の達者とし選ばれ随行する。 武田五郎・加々美二郎。
5月 8日 武田信光、駿河国藍沢での狩りに随行。 小笠原次郎。
5月29日 工藤祐経を討った曽我時政の尋問に武田信光・小笠原二郎らが立ち会う。
建久5年 8月8日 1194 武田信光、日向山霊山寺参詣に随行する。
々 12月26日 頼朝、永福寺落慶供養参列の随兵、
源頼朝 正治1年 1月13日 1199 源頼朝没(年53)子頼家跡目。
源頼家 鎌倉幕府二代将軍着任。
正治2年 2月26日 1200 頼家の鶴岡八幡宮の参詣に随行する。 小笠原弥太郎長経の名が見える。
承久3年 7月12日 1221 信光、籠坂峠で藤原光親を斬る。
々 7月26日
信光、安芸国守護となる。
寛喜1年10月6日 1229 信光、伊豆守となる。
々3年 1231 安芸国守護、武田信光伊豆守。
延応1年12月13日 1239 武田光蓮(信光)の名護屋敷若者の方違の候補となるが、出家者の為選に漏れる。 吾妻鏡 中座町教恩寺(大聖院)諏訪屋敷の項、 新編相模国風土記稿 武田信光入道光蓮が名越の家。
仁治2年12月27日 1241 信光、次男信忠を義絶する。 ●吾妻鏡
武田信光 宝治年 8月19日 1248 武田信光死去。●一蓮寺過去帳
々 12月 5日 武田信光死去。年八十七。(諸家系図纂) 中座町教恩寺(大聖院)諏訪屋敷の項、 武田信光入道光蓮が名越の家。
◇加々美・小笠原
加々美次郎長清
治承4年11月12日 1180 長清、頼朝の側近となる。●陸奥南部一族
々 12月12日 頼朝、大蔵の地に幕府屋敷の建立する 加々美次郎長清侯、御駕籠左右。
々 5年2月1日 1181 長清の結婚披露、上総守広常の娘。
文治4年7月4日 1188 加賀美遠光の女、頼朝の嫡男頼家の養育係として出仕、9月、大弐局の名を賜る。
小笠原長清
承久3年 7月29日 1221 小笠原長清、前中納言源有雅を甲斐稲積荘小瀬村で斬る。
文治1年 8月 1185 遠光、信濃守となる。 5月19日 1189 鶴岡八幡宮塔供養の馬八頭を見る。 (これは加賀美信濃守遠光などが献上)
小笠原弥太郎
文治 4月20日 1189 小笠原弥太郎・比企三郎、同弥四郎、 中野五郎等従類者、於鎌倉中、縦雖被狼籍云云 ●新編相模国風土記稿
小笠原弥太郎 正治1年7月20日 1199 源頼家、安達彌九郎景盛が妾女を北向御所に置く。點小笠原彌太郎長継の被居。 ●編相模国風土記稿
南部三郎光行
文治5年7月19日 1189 頼朝、奥州征伐に出陣。光行初陣。
建久1年11月7日 1190 頼朝上洛。長清、光行 随兵となる。
小笠原六郎 寛元1年8月16日 1243 鶴岡八幡宮流鏑馬射手。 小笠原六郎・小笠原六郎・小笠原四郎太郎
◇その他の甲斐源氏資料
河内五郎 文治4年3月15日 1188 河内五郎義長、鶴岡八幡宮の大般若供養の先陣随兵として参加。
武田信政 建久6年 8月16日 武田信光の子信政、鶴岡八幡宮の流鏑馬に参加する。信政=小五郎。
源実朝 承久1年 1月27日 1219 実朝暗殺。
源範茂 3年 承久の乱。甲斐宰相中将範茂の名が見える。増鏡
甲斐守
嘉禄2年12月28日 1226 南新法華堂に北条時房、泰時参詣する。 ●新編相模国風土記稿 参会の者に甲斐守が見える。
武田六郎
嘉禎1年2月9日 1235 北条儀時亭蹟の項、頼經宅に止宿、 射手、武田六郎・武田三郎
寛元1年6月13日 1244 武田三郎、頼嗣の御行始に随行する。●吾妻鏡
武田政綱 寛元2年8月16日 1245 鶴岡八幡宮流鏑馬射手。 武田五郎三郎・武田五郎六郎
寛元3年8月16日 1245 鶴岡八幡宮流鏑馬射手。武田五郎六郎 ●吾妻鏡 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年02月28日 09時45分53秒
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