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一七九二年、雲仙岳の歴史的最初の爆発
『シーボルト 江戸参府紀行』
初版第1刷発行 1979年7月15日 訳者 斎藤 信 さいとう まこと
東洋文庫87 発行者 下中邦彦 株式会社平凡社
斎藤 信氏略歴 明治44年東京都生。 東京大学文学郁枝文科卒(昭12)。 名古屋市立大学名誉教授。 現職(著 当時) 名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。 専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。 主著『Deutsch fUr Studenten』。 主論文「稲村三伯研究」など。
一部加筆 山梨県歴史文学館
一七九二年、雲仙岳の歴史的に確認されている最初の爆発について次のようなことが報告されている。 寛政四(一七九二)年一月八日の午後五時であった。 突然、雲仙岳の山頂が陥没し、水蒸気と噴煙がたちのぼった。その後しばらくして翌月の六日に、山頂から約半里はなれた東斜面にあるビオノクビという山が爆発を起こした。 三月二日には全九州で人体に感じる地震が起こった。島原地方は激震で人々は地面に立っていることができないくらいだった。おののき震え狼狽せぬ者はなかった。 地震が次々におこり、火山は絶え間なく石や灰や溶岩を噴出し、そこから数マイルも離れた地方を破壊した。 四月一日の正午、またもや地震が起こり、次第に激しく繰り返され家は倒れた。 とてつもない岩の塊が山からころげ落ち、それをさえぎっていた すべてのものをうち砕いた。地底でも空中でも砲声に似た轟音が聞こえた。それからしばしの静寂がおとずれ、人々は危険が過ぎ去ったのだと思った時、突如として雲仙岳の南斜面にある妙見山がはげしい爆発を起こし、この山の大部分は空中に飛び散り巨大な岩石は海中に降り注ぎ、煮えたぎる熱湯がひびわれのした山の長目からほとばしり出て海に流れ込み、同時に海水は低い沿岸部に氾濫した。ふたつの水がぶつかり合って起こった現象はまことに奇妙というほかはなく、そうした事態ははじめの狼狽をなおさら大きくした。竜巻に似た水の渦巻ができ、その渦が通過して行ったところ、すべてのものが破壊され何ひとつ跡をとどめなかった。 地震と雲仙岳やその側方火口の爆発がその年に島原や対岸の肥後図に及ぼした破壊は実に筆舌につくし難かったという。島原の町とその周辺の地方では建物という建物はすべて倒れた。ただサイクロプス様式の巨石からできていた島原の城壁だけは全般にわたる破壊にもびくともしなかった。 肥後の沿岸は災害によってすっかり変わり果ててしまい、ほとんど見わけることができなかったほどである。五万三千の人がその日に難に遭ったということである。
このような事件によって日本人は地震や火山の爆発を日本の七つの災禍のうち最も恐ろしいものと認めざるをえなかったのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年03月04日 04時02分35秒
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