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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年03月05日
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カテゴリ:矢切止夫氏の部屋

源平時代 奴隷商人金売り吉次

 

 矢切止夫氏著『矢切止夫 日本史裏がえ史』

 一部加筆 山梨県歴史文学館

 

  五月五日は石くらべ

 

 京は五条の橋の上で、ピイピイ笛を吹いていた牛若丸を、遠く陸奥の国へ伴っていったのは、「金売り吉次」ということになっている。

 今の感覚でゆくと、<金売り>と聞けば、「売るほど金を持っている男」つまり金融資本の大財閥のように、勘違いしたくなる。

だが、これは吉次の名が現れる出典が、当時の関西出版。京の六道の辻に屯していた当時の文筆業者によって、京を中心に視点を当てたから<金売り>であって、睦の国から見れば、吉次は<金仕入れ業>の<奴(ど)売り>である。何故かと言うと吉次は、人間多い京都からそれを持って行き、東北からは引き換えに金を需要がありそうな京へもって来ていたからである。

 それに、ことさら<金>の文字を使ったのも、現代の人には可笑しいだろうが、これは当時まだ装飾用などに僅かしか使われなかった<金>という拡物のPRだったのである。

 

<六道>

は京へ入る六つの街道のことで、<六地蔵の党>とも呼ばれ、税関のかたわら諸国の珍しい話も耳に入ってきたから、『義経記』をはじめ、今日伝わっている謳曲の原本は、みな、この徒によって執筆された。

だが、書いていたばかりではなく、一条関白兼良の『尺素(せきそ)往来』などには、「六地政之党、警囚のため人数を派出す」と出ているよケに、印地打ちつまり投石をして、当時の機動隊を出勤例のごとく印地を企てヽ喧嘩を招き候は、洛中鼓騒(こそう)に及ぶべしと、侍所より、

させるぐらいデモってもいた。

つまり、『義経記』などといった物は、関を守っている彼らがゲバ活動をしてない時には、退屈しのぎに、「これこれ何んぞ珍しい話はないかや」と旅人から地方の話をききだし、それを現代でいえばニュース源にして、筆でかきとめ、

 「何んぞ面白い話があったら教えて下され、これから諸国へ廻りますのに、話の種を何んぞ仕入れて行かんことには、人集めするのに困りまする」

 と、この時代の歩き巫女、鉦(かね)たたきといった唱門師(しょうもんじ)の者が、銭を貰いに旅興行にゆく時には、この関所へよって、若干の銭を払って話を聞いていったり、書きとめたものを買っていたのが、その原形であるらしい。

 もちろん『義経記』などは、のち謡曲となってゆくが、そうした説話によって銭貰いしていた者たちは、

 「でろれん祭文」「ちよぼくれ」[辻講釈の売講庸子(師)」「軽口」といった形態で千年後には、浪花節、講談、落語といったタレントに昇華したし、ニュース専門にかき集めて報道していた方は、これまた今では、 「時事解説者」といった凧にも変ってきている。

 しかし、これは十世紀前の源平時代の話。

 とても筆一本の原稿料では食してゆけないから、関所番をしていた。つまり洛北白河に<院地>があって、そこの者が六道衆で、筆もとったが、当時の飛び道具の武器である疎うちもした。

 「印地を企てる」とか「院地うち」というのは投石のことだが、「印形を結ぶ」とか「院形をつける」とは後年の、忍術の形式にもなる。

 だからこれは余談だが、今でも三河の岡崎城へ行くと、三層の壁に、幼い宋版が背負われ安倍川原で、石合戦を観戦してる場面が掲げてあり、

 

「いつの頃より始まりしや、謂われは知らざれど、年中行事の石合戦を御覧あって、人数すくなき方を指さし(彼方こそ勝ため)と仰せあり、やがて、その通りになる。神君いまだ幼少なりと雖も、その深直にみな感嘆す」

と、とぼけた説明が貼ってあるが、家康こそ、この部族のエリートだし、風采で院他者は一目瞭然だから、プロの方が、人数に関係なく、勝味のある事は誰でも判る筈である。

 さて、この院地打ちの発端は、義経にあるとされている。それは、

「義経記」にも、土佐房が堀川を襲撃の時、

「白河のいんじ五十人を案内となし……」

 と出ているが、その後、彼の死が伝わると、判官びいきの者が、ぽ借しがって註をたて、「おのれ、憎っくきはいんじの者共……」という事になって白河口へ押しよせ、石を投げこんだから、それに応戦するため院地の者達も投げつけあって石合戦が始まったと謂うのである。

 そもそも<院地>というのは「やまとの国は、女ならでは夜もあけぬ国」といわれるように、

「ヤマタイ国のヒミコ女王陛下」のごとく、或いは天照大神のごとく、女神を崇び、女帝を立てていた原住民族を、大陸からの男尊女卑の人種が、次第に侵略してきた事から始まる。

 

八世紀の頃になると、紀ノコサミ将軍の五万の兵を、秋田のアタマロ夫人の指揮する和製ベトコンの女兵が、ゲリラ戦によって捕捉全滅させるごとく双方とも激化した。そして、その当時は、まだ首級をとる風習がなかったから、人体に露出した部分を切断して、これに換えた。

 そこで箱根の山をこえ進撃してくる女軍に、戦慄した進駐政権の男どもは、山背の国の嶮、長岡京へ都を移し、海外に救援をもとめた。

 当時まだアメリカはなかった。そこで延暦十年(七九一)一月十八日。朝鮮の百済王俊哲が国進軍司令官として、唐やシャムロ(現在のベトナムから泰国)の聯合軍をひきい進駐したが、インドネシアの女共産党員が行ったみたいに、部分切断されるのを恐れ、彼らは、進撃に当っては露出を警戒し布で防護した。よって、この軍用布は<禅>と呼ばれ、和製漢字の第一号である。

 

 そして、この進駐軍はシヤムロ人が多かったらしく、今でも北海道のアイヌ族は、内地人を、「シャムロ」と呼んでいる。

なお、この時、彼らが食用に持ちこんできた軍用鳥が、後年、闘鶏  用に飼われている軍鶏である。当時の彼らの根拠地が、今の河内なので、同地では現在でも「シャモのかけあい」つまり闘鶏が盛んである。尚紙幣の藤原鎌足や聖徳太子がもっているのが「シャモジ」で、これに文字をかきこんだので「杓文字」といわれ、戦地では飯盛りに使ったからこれが今の「シヤモジ」の語源という話もある。

 またその大小から後年の「爵位」は発祥する。

 

 さて、進駐軍の武力によって原住民の中の尖鋭分子を捕え、国内二千有余の山間僻地の捕虜収容所へ送りこんだものの、また反乱されて、陽物を切り取られては難儀するから、占領政権は、和製ベトコン人民に対して、初めは食料衣服を提供した。これは、「延喜式」に詳細に記録が残っている。後は、年貢課役免除をもって、懐柔策をとった。

だから、比較的生活の楽な彼らは、蛋白質の補給に、隔路用外濠に鰹などを飼った。

だから五月五日になると、嫉んでいる外来県の者は、長柄、薙刀、竹槍をもって襲撃したが、女たちに榛打ちで撃退された。そこで対抗上、外来系に考案されたのが、笹の葉やおがらをまきつけ、ぶんぶん振回して放りこむ擲弾(てきだん)である。

 これを<千巻き石>とよぶのである。

 

 さて、院地を襲って勝ったとなると、戦利品として、濠の鰹を捕えて、竹竿につきたて、自分の家の前にたて<鯉のぼり>といった。

 そして<勝負の祝い>に酒もりをした

 

 応安二年(一三六九)の『後愚昧記(ごぐまいき)』

にも、「雑人ら晩頭(ゆうかた)に及び、一条大路に出て、合戦をす。これを伊牢地と称す」

 と足利時代になると、北白川口の今出川から一条あたりで市街戦までやったらしい。

『源平盛衰記』の二二に、

「京童の向い磔ヽ河原印地のようなり」

 と出ている光景は、後白河法皇の勅になる『年中行事絵巻』の五月五目の条に、百余人の石合戦の有様が画かれているが、当日雨だと、

 「凧の手の牒のように打ち散らす、雨こそ今日の、そら印地なれ 左衛門督藤原義景」

 といった具合に失望するファンも多かったようで、これは『古今夷曲集』の中にある。

 

「信長公も若い頃は、五月五日の院地打ちを毎年なされたり」

 と『雨窓閑話』にも記録されている程である。

 

義経の死後、信長、家康の頃までは、五月五日は「背くらべ」ではなく、「石投げくらべ」で江戸期に入っても、山谷や、浪花の釜ケ崎では、時たま石合戦があったようである。

 

勝負の文字が「尚武(しょうぶ)」にたり、粽(ちまき)が餅、鰹は吹き流しと変わっても、まだあいかわらず権力へ反抗する徒の子孫が、夏になると、夕涼みに、今でも礫(つぶて)うちの印地をやるから、山谷あたりはマンモス交番などが、出来ているのである。

 なぜ五月五日と、昔から決まっているかというと、この日が、各国別にたてられている国府営の大祭の当日だからである。この五月五日という日は、京より国々へ派遣されていた国司(つかさ)が「天神地祇」の神々を勧請して朝から、「江美州静謐(えびすせいひつ)」を祈願したから、当日一目限り、エビスの末裔である院地に対し、外来示やそれに奴隷化させられた庶民が、石投げにゆくのを、国家が黙認したのである。つまり院地で頑張っている連中はノータックスでノー勤労奉仕なのに、外来系や、それに隷属したものには、年貢とか課役があったので、その鬱憤(うっぷん)晴らしをさせたものらしい。

云い換れば祖先が陽物を切られ、性転換させられた復讐を黙許した事になる。ところが昨今の世相では、手術代を払ってまで、男から女へと切断を希望する者も多いから、今日では尾張の一宮などでは国府営の「喧嘩祭」として、その名残りを、とどめているにすぎない。

さて捕虜収容所を京では院地、東海は院内、他は、別所、山(散)所というが、捕虜として捉まって女将と一緒に男衆として山中へ逐われた彼らは、やる事がないから穴を掘った。

 まず鉄をみつけた。そこで刀を鍛えた。

 美濃の関、鎌倉の雪の下、備前もみな別所である。刀の他に、鉄と革で鎧も生産された。

 甘味をとるため山蜂を追っているうちにヽ蝉の習性をまねたのが蜂のほうが見習ったのか、そこは判らないが、一妻多夫になった。なにしろ男は単数では連続使用がありだから、複数のハンサムだけが側近になり、残りは働き蜂の奴(ど)になった。そして、今日でもこの後裔は「男衆」などと男をよんで軽視するような習性がある。

 

さて、そこで当時の里人は、彼ら別所者を「はち、や」とよんで、ハ弥、蜂屋、鉢屋の字を当てた。

 彼らが、山から上げる合図の煙を「蜂火」といったり、彼らの決起を「蜂起」とよんで怖れた。

 そのうち、山中や河床で彼らは黄色い光る物を見つけた。金である。といってもまだ装飾品など流行する以前なので、金をカネにするのに苦労した。

 そこで既に里へ進出している同族の者が、その金の売れ口を見つけてやるため、六道衆なども、著作の中で、今でいうCMしたものらしい。

 なにしろ、義経が吉次に伴われて平泉へ行った時より、たった二十一年前の仁平三年(一一五三)の『台記』の七月十四日の条に、

 

 「陸奥国、五ケ荘の年貢につき、久安七年、

厩の舎人、長勝延貞を使となし、

奥州へ下向せしめ先年、

奥州高倉庄の年貢増やすべき由、

拝聞(関白藤原忠通)より基毎に、

金五十領よりも、布千段馬三匹に

換えるようと仰せられるも、

衡肯(がえん)ぜず」

という記載さえある。

 

つまり関白が

(藤原氏の名のりも与えていることだし、高倉庄の分も入れて、土産の金より、布地千反と馬三匹といったような値打ちがあって、もっと役に立つ物を上納しろ)

と使を出したのに対して、秀衡の父の基衡は

(黄金なら掘れば出てくるが布や馬は、そうはゆかん、此力が欲しいくらいだ)

と拒絶しているのである。

 

さて附記するなら、この時代の一領というのは、まだ後世の秀吉時代から始まった一両の単価ではなく、別所族の製革権と冶金権によって出来上る軍用鎧一領分の等価のことである。

 






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最終更新日  2022年03月05日 09時43分42秒
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