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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年03月09日
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カテゴリ:甲州街道

 

甲州街道独歩(ひとりあるき)台ケ原 谷戸城

 

  『歴史と旅』特集 徳川十五代の経営学

昭和59年12月号

 

円谷真護氏著(作家)

   一部加筆 山梨県歴史文学館

 

ふたたび甲州街道を錐れて北上し、長坂町方面へ向かう。谷戸城を見たいからである。

谷戸城は逸見山の城ともいわれ、新羅三郎義光の孫、逸(辺)見冠者清光の本城である。

 行ってみると、なるほど要害である。八ケ岳南麓の独立峰を城郭に改めたもので、東西四百μ’南北三百m。山裾の東西に東衣川と

西衣川が流れている。

山頂の本丸は、土塁をめぐらした一千平方μほどの平坦地で、八幡神社がある。仁安三年(1168)五十九歳のときこの城で没した清光の霊を合祀し、開源明神と呼んだ。この本丸から、ほぼ同心円状に、二の丸や三の丸が下へ広がっており、さらに北の出丸や西の出丸が張り出している。

 全体によく残っていて、旧状を保つように管理されている。この城は、弓矢を主とする攻撃では簡単には落ちないと思われる。もっ

とも清光は、ふだんは若神子の居館にいたらしい。ここは、いかにも戦闘用である。

 洽承四年(1180)源頼朝の使者、北条時政を迎えて、甲斐源氏の一族が頼朝と合流する相談をしたのがここだ。

戦国時代に入ると、武田信玄は、甲府から八ケ岳南麓をへて信州川中島方面へ至る軍用道路、棒道(ぼうみち)を開いたが、その中継点がこの城だった。棒道は、一軒の家もない原野の中を一直線に走る道だったという。

さらに本能寺の変の後、碓氷峠を越えて信州に進入した北条氏直が、この城を修復して拠点とし、新府城に拠った徳川家康と甲斐国の争奪戦を演じたこともある。

 谷戸城のある所は大泉村(現、北杜市大泉町)で、南へ広がるこ

の辺りは水にめぐまれ、古くから大八田荘の中心の穀倉地帯である。今も耕地がつづくがその間をぬう道のかたわらに、小祠やりっぱな道祖神など一群の石造物を見かけた。祭りを催すらしく、幟を立てるようになっている。  

素朴な信仰心が生きつづけているわけで、床しく感じられる。絵にもなる。耕地のなかの曲折する道をたどって、清光寺を訪ねる。清光創建の信立寺が衰えたのを、文明七年(一四七五)悦堂宗穆(そうぼく)禅師が人山して曹洞宗の清光寺に改めたもので、この地方から信州へかけて、布教の中心として崇められた。」

古くて堂々たる巨刹で、豪農と同様ヽ豪寺とでも呼びたいような重厚な趣がある。 

鐘があって、修行僧たちに時を報せたのだそうな。墓域に、清光と長子光長の墓がある。

なお、清光寺は長坂町大八田にある。  

 

甲州街道へもどる。

 

舞鶴の松のある三吹(武川村)のさきは大が原宿である。

韮崎宿から四里ハ町(十六・五八キロ)。

街道にそって家並みが続く。明るく、落ち着いた町。江戸時代は約百坪の本陣のほか、旅龍は十四軒もあったというから、今より大きな町だったろう。二階の手すりの下に、右から左へ「諸国旅人御宿」と横書きした宿屋、つるや旅館が今もある。

国鉄中央本線は韮崎から長坂へ北上して、ここは鉄道からはずれてしまった。

 家並の途中で、造酒屋のマークの杉玉を軒先に吊り下げた店を見つけた。「しなのや」と書いてある。甲州街道では初めてであった  が、少し先でもっと大きな杉玉に出合った。

 「七賢」の山梨銘醸である。

郡内の酒では「笹一」が知られているが、国中では「七賢」であろう。いな、もっとも有名なのは「七賢」かもしれない。

 なにしろ、一度知ったら忘れられない名だ。

中へ入って命名の由来を聞きたかったが、忙しそうなので遠慮した。独り合点で、中国の故事、「竹林の七賢人」に由来するのだろうと思っている。

それにしても、「七賢」の本舗は甲府市内だろうと思っていたから、意外でもあり、嬉しくもあった。水と米が良いのだろう。

良質な水は、八ヶ岳に降った雨が地中にくぐってり、泉となって湧いて得られる。

 

大泉村でゴンゴン湧く大きな泉を見たが、すぐ傍に水産研究所があって、魚を飼育していた。ちなみに、この辺りには鱒の養殖所が多い。

米は、武川米が良質として知られるが、旧大ハ田郷や若神子マとれる米も用いるのではあるまいか。いずれにせよ、八ヶ岳の降雨

の・賜物といえよう。  

 しかし、八ヶ岳の降雨は川の氾濫ももたらす。韮崎を出てから街道はずっと明るかったが、川が多いうえに、ときに氾濫するので川幅が広いせいでもあろう。

とくに大武川の氾濫はひどかったらしい。柳沢吉保の先祖(信俊)の居た柳沢ではつねに水害に襲われ、男は河川の改修や荒廃田の再開墾におわれるので、ふつうなら男仕事の材木の伐採や飼料の萱刈りを女がやらねばならず、こんな民謡も生まれた。

「……縁で添うとも柳沢は嫌だよ、

女が木を伐る萱を刈る」(「縁故節」)

 

武川とは、たけだけしい川の意味ではあるまいか。

こういう土地から、柳沢氏をふくむ武川衆という武士団が出陣していったのである。厳しい生活を強いられている人たちは、武士としても頑強だったに違いない。しかし、農兵であったことも間違いあるまい。

『妙法寺記』が信玄の出兵を嘆き恨んでいるのも、時期が農閑期以上に及ぶからである。おそらく、武田氏滅亡の究極の原因は、軍隊が農兵だったからであろう。

 かたや織田信長の軍隊は、すでに城下町をつくり、兵長分離を遂行しつつあった下での、専門的職業的軍隊である。農兵を主とするいわば季節的軍隊が対抗するのは、並たいていのことではない。武田勝頼は、信玄がムリを重ねた後だから民力を養うべきであったのに、軍事を政治から切り離しで考えたのであろう。軍事だけで見るかぎり、初期の勝頼はけっして凡愚とは思えない。おそらく、急激な滅亡への転落は、民心の離反にもとづくに違いない。農兵にとってのムリが極限に達したとき、彼らは勝頼を見限ったのである。

<……一考を要する……>

 

ところで、台ケ原宿の先に白須という所があるが、いまは、台ケ原から先はすべて白州町である。川が運んできた砂で、土地が白く見えるからであろう。

やがて教来石、おもしろい地名だ。弘法大師が腰かけた石ででもあったのだろうか、地名のいわれは分らない。諏訪神社があるので寄ってみたが、あたり一帯ほとんど手入れもしていないらしく殺風景なので、そうそうに立ち去った。

あとで調べると、弘化元年(一八四四)諏訪の有名な宮大工が建てた社伝で、ことに彫刻が優れているとのこと。しまったと思ったが、あとの祭り。下調べの結果、先人感を抱くよりは、じかに接したさいの印象を大事にしたいとも思うが、よく観察しなければ印象もへちまもない。戒心戒心。 

教来石を過ぎると、問もなく国界橋に着いた。対岸は信濃国ヽ長野県である。さすがに感慨が湧く。

相模国と甲斐国の国境地帯、相模湖周辺では、甲州武田氏と相州北条氏の領地がいりくんでいたが、ここ甲信の国境は釜無川によっ   

て画然と隔てられている。対岸、信州側は、低い段丘のさきが開けていて、遠くに山があり、なかなか眺めがよい。

こちら甲州側は橋の袂が少し展けているものの、山々が迫っている。どちら側からにせよ、釜無川にさえぎられて、越境は容易ではない。

 

江戸時代、甲州側、教来石の山口に番所があって、旅人を取り締まった。山口関所と呼ばれたが、規模は小さかった。

その山口生れの俳人、山口素堂(信章)の人口に膾炙した句、

「目には青葉 山ほととぎす 初かつお」

を彫ったりっぱな石碑がある。素堂は芭蕉と親しかった人である。

信濃国への旅のはなむけに名句を贈ってくれるとは、と、心愉しく、国界橋を渡った。(つづく)

 

<山文より>

記載内容には幾つかの間違いや記憶違いがみられる。が、ご苦労様でした。






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最終更新日  2022年03月09日 04時15分49秒
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