カテゴリ:歴史 文化 古史料 著名人
江戸期埼玉の文化人
『歴史と旅』特集 徳川十五代の経営学 昭和59年12月号
柳田敏司氏著(埼玉県立博物館 館長 一部加筆 山梨県歴史文学館
家康の関東入部によって譜代大名が封ぜられた埼玉の地に輩出した異色の人物群
関東郡代伊奈忠次
天正十八年(一五九〇)八月朔日、江戸城に入った徳川家康は、芦原の続く城下を整理し、城下町としての姿をつくりあげる第一歩をふみ出した。 旗本と称される古くからの小知行の武士は江戸を中心にした近郊に、一万石以上の大名格は遠方に配置し、その間に天領と称する直轄地(蔵入地)を置き住民を把握するため、信仰を集めている寺社に領地を寄進し、江戸城を中心とする整備が進んだ。 慶長五年(1600)関ケ原の合戦に勝利を収め、天下を掌握し、八年江戸幕府を開くとともに、論功により諸大名の改易、配置替えを断行し、多くの城を廃城とした。
このとき埼玉県内には江戸防衛の観点から岩槻、忍、川越の三城以外はすべて廃城となっている。この三城は幕藩体制が崩壊した明治まで続き、代々譜代の有力な大名が城主となり、幕閣に列し、老 中、若年寄など枢要な地位につく者が多かった。 藩領以外の幕府直轄地、旗本領などの支配は伊奈忠次、大久保長安などの代官頭が執行していたが、なかでも本県に関係の深かったのは伊奈忠次である。 忠次はのち紅関東郡代と称される代官頭になったが、その居住した屋敷は、北足立郡伊奈町の小室にあり、ここを拠点に土木工事、検地などに大きな足跡を残している。
伊奈忠次は、天正検地と呼ばれる近世の初期検地を実施するとともに、河川の改修、新田開発、治水事業等、特に土木工事に優れた才能を示し、その技術は伊奈流、または関東流と称されている。 江戸を中心とした街道を整備し、宿駅を設けるなど今でもその遺構、遺跡は県内各地に残されている。
伊奈氏は二代忠政、三代忠治と小室の陣屋を根拠屋敷としていたが、三代忠治のとき、陣屋を小室から、江戸に近い赤山(川口市)に移した。そして代々、関東郡代として荒川、利根川、入間川などの改修、新田開発を行ない、代官としての民政に力を注ぎ、大きな功績を残したが、十二代目の忠尊(ただたか)のとき、お家騒動のことから失脚するに至った。 この間約二百年。 今も伊奈氏屋敷跡は伊奈町に所在し、土地の人は丸山屋敷、丸山城と呼んでいる(県指定史跡)忠治、忠政、忠治の三代の墓は、鴻巣市の名刹、勝願寺に、それ以外は赤山の菩提寺源蔵寺等にある。
井沢弥惣兵衛為永
先の伊奈氏に対比される人物が井沢弥惣兵衛である。 伊奈氏は江戸幕府創設以来、関東郡代として天領の支配の任に当 たるとともに、領地の開発のため各種の土木事業を行なっているが、とくにその濯慨用水の利用に特色があった。上流からくる排水を集めて、貯留池、沼をつくり、その水を下流の用水として利用する方法をとった。この代表的なものが見沼の溜井である。見沼をつくるため、寛永年間(1640頃)大間木(現浦和市)の地に八丁堤を 築き、その上流を沼地、即ち、見沼溜井として、下流の水田地帯約五千町歩の水田の濯漑用水として利用していた。
八代将軍吉宗は米将軍と称された程、全国的に新田開発を進めたが、この見沼溜井の地にも目をつけた。この見沼によっておこる水害、干害をなくし、更に沼の水を荒川を通して下流に流し、その沼 地を干拓して水田とすることにあった。 この大事業の工事に当ったのが井沢氏である。
弥惣兵衛はまず見沼の水を下流に落とすため、荒川排水路を開いて干拓した。見沼溜井にかわる用水として、利根川から取水、延々々約六十キロの用水路をつくり、見沼の地象で水を引きいれた。見沼に代わる用水ということでこの用水を「見沼代用水路」と称した。 この工事は享保十二年(1727)八月から始められ、翌年の田植えまでには完成させるという短期間に行なわれたが、利根川の下中条(行田市)から水を取入れ、途中星川の流路を流し、元荒川の下をくぐり(伏越)綾瀬川の上はかけ樋で渡り、ここから用水を二分し東経、西経に分け、見沼田圃に水を配りながら荒川に注いだ。 この工事により、新田が約二千町歩も開かれた。
このように用水と排水に分離して水田経営する河川改修法を「井沢流」、あるいは「関西沢」と呼んでいる。
この工事の際、東西の両用水と荒川を結ぶ通船堀が八丁堤に沿ってつくられた。この通船堀は排水路の荒川と見沼用水路の水位差が約三メートルもあったので、二ヵ所に開門を設けて船を通した。見沼通船堀と呼ばれ、現在国指定史跡であるが、パナマ運河より百八十年も前に、このような開門式運河がつくられていたことは大いに誇りとしてよいと思う。
なお見沼たんぼは稲穂をなびかせ、一大水田地帯として今日まで、食糧の供給をし続けてきだが、最近の減反政策とともに、休耕田、畑地、苗木の産地と変り、今月では、農地として保存すべきか、新 しい見地からの利用方法を考え直すべきか、岐路にせまられているといえる。
塙保己一 はなわほきいち
江戸八百八町と称された江戸城を中心とする江戸の町には、武家屋敷の他、町人と呼ばれた商人、職人等が多数居住し、一大都市を形成していた。 政治、経済、文化の中心地江戸の近郊地であった本県は、各種の分野で大きな影響を受けていた。 文人墨客の来訪、職人、女中の供給、野菜、食糧の供給等数えればきりがないが、江戸に行き学問を志す者も多かった。 その代表として盲目の大学者塙保己一があげられる。 保己一は県北の保木野村(児玉町)で延享三年(1746)五月五日、貧家の荻野家に生まれ、幼名を寅之助といった。五歳のとき肝蔵の病にかかり、七歳にして両親の懸命の看病にもかかわらず、失明の悲運をたどり、十二歳のとき身の回りの面倒をみてくれた母がこの世を去るという悲しみの続いた少年時代であった。 宝暦十年(1760)十五歳のとき、母のつくってくれた巾着に銭二十三文を入れ、衣類を入れたそうめん箱を背負って、絹商人に手をとられ、父、弟に見送られ、涙ながらに江戸へと向かった。 江戸へ出たのは鍼(はり)、按摩(あんま)の修業を行なうためで、まず雨宮検校の弟子となった。しかし不器用であったので、その面では成功せず、むしろ一度聞いたことは絶対に忘れないという非凡な才能を見抜いた雨宮検校は、鍼、あんまの修業、琵琶、琴の修業を断念させ、学問の道へと進めた。 和歌から『太平記』、国学と、読んでもらったことは完全に覚えこみ、古典に通じた学者となった。 三十歳で勾当という位になったとき、師匠の姓塙の字をもらい「塙保已一」と改名した。番町に住んで学問を近所の人たちに教えていた頃、狂句にいわれる程有名になったのであるが、この間の苦労は筆舌に尽せない程であった。 三十四歳のとき、安永八(1779)正月を期して生涯の大事業 『群書類従』の編集、刊行の悲願をたてた。 古くから伝わる日本古来の文献を後世に残すことを目的としており、書物の収集、編集、校訂そして一定の体系をつくり、これを 刊行することであった。この事業をより完全なものにするため、幕府の援助をうけて、「和学講談所」を設立し、弟子の養成とい『群書類従』の完成に専心した。 こうして四十年後の文政二年(1819)全六百七十巻からなる『群書類従』は完成した。この間に勾当から検校となり、文政四年には最高位である総検校となった。 しかし、この地位から得られる金は、すべて書物の購入と刊行費にあてられ、自らは質素な生活を送っていた。今でも『群書類従』刊行の費用に困り、借金をしたときの借用証が残されているのをみ ると、決して楽な生活をしていたとは思えず、むしろ苦しみながら、初志の目的を貫いたということができよう。 文致四年(1821)九月十二日、七十五歳で没した。 保己一の生家は児玉町保木野(国指定史跡)にあり、遺品の類は児玉町の塙記念館に保管されている。
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最終更新日
2022年03月09日 05時12分49秒
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