カテゴリ:歴史 文化 古史料 著名人
諫早 温泉 真珠養殖『シーボルト 江戸参府紀行』
初版第1刷発行 1979年7月15日 訳者 斎藤 信 さいとう まこと
東洋文庫87 発行者 下中邦彦 株式会社平凡社
斎藤 信氏略歴 明治44年東京都生。 東京大学文学郁枝文科卒(昭12)。 名古屋市立大学名誉教授。 現職(著 当時) 名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。 専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。 主著『Deutsch fUr Studenten』。 主論文「稲村三伯研究」など。
一部加筆 山梨県歴史文学館
二月十六日(旧暦一月十日)われわれは七時にたち、多良岳に源を発して諌早付近の海に注ぐエイショ川(Jeisjol‐gawa)という小川を越え、海岸沿いに大村の町に向かうたいへん気持の良い道を進んだ。 諌早と鈴田という小さい村の間にはたくさんの茶が栽培されていて、畑という畑には整然と茶の木が植えてある。長崎付近では茶の木はよく見かけたが、きちんと植えてあるのではなく、数本ずつ薮をなして野原に散在していたり、または境に沿って生垣となったりしていた。 大村領の境界ではふたりの武士が姿を見せ、使節に挨拶し行列を先へと案内した。彼らは野服(nofuku)を着用し、二本の刀を差し藩主の定紋をつけた黒漆塗りの陣笠をかぶっていた。 われわれはまだ正午前に大村に着いたので、太陽の高度をはかり、クロノメーターで経度を観測した。 われわれが測定したところでは、大村の町と城は北緯三二度五五分二七秒・グリニッチ東経一三〇度一分に位置し、町の名をとってつけた大村湾の近くにある。大村は四〇の町に分かれ、人口二千をかぞえる。領主上総介(Kadsusanos'ke)〔大村純昌、一七八二-~八三八〕は年収二万七九七〇石、約三三万五千四百グルデンを受け、ここに城を持っている。
真珠養殖
この土地はとくに真珠採取で名高く、領主はこれを占有している。大村湾内の真珠貝の主な生息地は内海であるといい、二ないし二〇尋〔一尋は約一・八メートル〕の深さのところで岩石に付着しており、潜水夫は小舟から命綱をつけたりあるいはつけないで海中にはいり、すばらしく上手に貝を深みから採ってくる。深ければ深いほど、真珠は大きいという。日本で本物の真珠のとれる貝は大部分は大村湾と尾張湾および伊勢・薩摩地方の沿岸でみつかる。蝶番のところにある独特の突起部から袖貝と呼ぶ。
アコヤ貝
またこの貝は、おそらく最初に発見された尾張国の或る場所によって、アコヤ貝と名づけられた。これはメレアグリナ(Meleagrina)具でメレアダリナ・アルビナに非常に近く、さらにいくぶんかふくらみの強い貝殻で、直径三インチをこえることはない。 この貝はスンダ諸島に産し、ゲゼルシャフト諸島〔ソシェテ諸島〕のタヒチ島でルソソおよびガルノー氏によって採集されたM・アルビナの変種にたいへんよく似ている。 人々は、この真珠貝がたいへん小さいので未成熟の貝だと考えたら誤りである。日本においては決してそれより大きいのは発見されていない。 日本人は真珠を一般に貝の玉(Kai‐no tama)と言っていて、商いされる最上程のものを真珠(支那語のDschin‐dschu)と呼ぶが、これは本物のぺルレのことである。本真珠は二種に区別される。 銀玉……白真珠と金玉(Kintama)……黄金色にバラ色のさしたもので、これらは珍しくまた色彩や光沢が本当にすばらしくきれいで、一個の小さいエンドウマメの大きさで、小判二枚・約二四グルデンの値がする。 これ以外に日本では種々の他の貝が採れるので、なお多くの真珠の種類がある。 それはアワビ・ハマグリ・シジミ、それからピナの一種でイカイのような貝の珠はたいてい緑色を帯びていて小さい。 日本ではこの真珠をさらに薬として用い、支那や日本の医者は眼病・耳痛・痙摯(ひきつけ)その他の病気にすすめる。
食用の貝
貝類は生のままかあるいは煮るかして食べる。藩侯の真珠採取場の一監視人はデザートに新鮮な貝の皿を出してわれわれをびっくりさせた。われわれはそれを生で食べたり焼いて食べたりしたが、おいしいことがわかった。 ビュルガー君は、食べたときキピ粒大の真珠をかんで痛い目にあったが、真珠を得たのは仕合せだった。監視人は真珠を採ることにかけては豊かな経験を持っているようであって、真珠はたいてい貝の被膜の筋肉と膜の間、すなわち動物が殻に食い付いている部分(日本人はそれを貝の柱、つまり貝殻の支柱と呼んでいる)にあると断言したが、私も最近それを確かめた。美しくて円い真珠は 必ず外膜のこのところにある。採取者もこのことを良く知っていて、ただそこのところだけで真珠を捜す。
蕗(ふき)
宿の主人の清楚な庭園の中にフキが植えてあって、冬によく耐えている葉は大きく艶がよくて、この種類をひとつの美しい観賞植物にしている。 私はこのうちの一本を植物園用として出島に送ったが、晩秋に花をつけた。われわれの植物群の中でフキは、(Tu-ssilago giganteaとして光彩を放っている。後に友人のひとり、江戸の宇田川榕庵(ようあん)が大フキの葉を一枚わけてくれたが、それは直径一メートルあった。 出羽の国、秋田付近ではフキはもっと大きくなるということで、日本の画京北斎は彼の画集の中で、農夫がフキの大きな葉の下で、雨宿りしている有様を描いている〔北斎漫画七編「出羽秋田の蕗」の図をいう〕。
大村から千綿(ちわた)街道は、湾沿いに続く丘のけわしい斜面を郡川(Gunnhori gawa 国境の川)が湾に注ぐ河口付近に通じている。森を流れる小川で深くはないが、ときには急流となり、このあたりでは二筋に分かれて海に注いでいる。大きな玄武岩が河床に横に並べてあって、それを渡って人夫や荷馬が過ってゆく。その左岸は巨大な自然石の壁と竹を編んで石をつめた寵を幾筋にも並べて護られている。 われわれは大村湾を見渡すすばらしい眺望を楽しみ、一マイルに及ぶサクラの並本道に沿って進んだ。……この道はふたつの村を過ぎて放虎原(ほうこはら)というところに通ずるのだがひとつは紙すき人がたくさんいる江串浦で、もうひとつは松原(Matsubara)といって、鉄の槌で名高く武器・小刀その他の鉄製品を産出する。
天然痘(てんねんとう)
ある村落の前にたくさんの藁縄が張ってあった。人々が私に語っ たところによると、山岳を巡礼する山伏が伝染病の予防のためにしたのだそうで、厄除けの注連(しめなわ)という。こういう守りの網を張る宗教上の風習は珍しいことではない。この注連縄は近所に流行している天然痘を防ぐためにここに張られていたのである。 大村藩ではこの病気の伝染に対処して非常にきびしい処置がとられていて、そのおかげでこの地方はときには一〇年間にわたってこの病気におかされずに済んでいるのである。 この伝染病が周辺の地域に蔓延すると、ここではきびしい隔離が実施され、天然痘が或る部落に発生すると、病気にかかっているものはみんな遠い山岳地帯に連れていかれ、完全に治癒するまで看護をうける。こういう追放を免れようとして、ときには家族全部が病人を連れて隣接の土地に移ってゆくのは、そこに避難所を求め、もっと良い看護を受けるためなのである。 長崎付近を散策したおりに、私は一度こういう回復期の病人が再び故郷に帰ってゆく行列に出会った。この人たちの中にはこれまでにこの病気にかかった数人の年寄りがいた。彼らはみんな病気で憂いに沈んでいる様子だったし、家族の大部分の者をなくしていた。 離島、とくに九州の西南〔実際は西〕にある五島列島は、長い間この流行病からまぬかれていた。しかし一度この病気が侵入すると、その惨状はさらに驚くばかりである。長崎湾の入口にあり、漁民たちが住んでいた高島という小さい島では、数人の老人以外はすっかり死に絶えてしまったことがあったのを、私は思い出す。 天然痘は八世紀の中ごろにはじめて日本に伝わって、まもなく全国に広がって恐ろしい大流行を惹起した。 日本の「和事始」という書物の一節によると、 九州から新羅は朝鮮半島にあった昔の四つの国のひとつに渡った人々が、七三五〔天平七〕年にこの病気を大陸から日本へもって来たという。いま町や村では一般に竹俯を戸口に竹箒(たけぼうき)を戸口に掲げて、天然痘患者が家にいることを知らせるという予防策がとられている。
われわれは大村湾に望む港町彼杵(そのぎ・薗木と書いた例もある〕に泊まった。ここからは大きな湾に望む広々とした景色を楽しむわけであるが、 かつて(一六六一年)〔寛文一〕江戸参府の旅行中この海を渡るのが普通であったオランダ人が、この湾を大村湾と名づけた。
ここは肥前の国の心臓部にあって、東南の方向に広がり長さ約六里、幅は渡し場の時津から大村まで四里ある。 そして西北の方では幅半里たらずの針尾瀬戸(Hariwo‐seto)によって外海につながり、瀬戸は彼杵地方の杉崎の先端と冑崎(かぶとざき)の間にある〔この瀬戸の杉崎付近に西海橋〈長さ三一七メートル〉がかかっている〕。 海抜三五〇から六〇〇メートルの火山性の山地がこの海盆を囲み、多数の小島が西南に浮かぶ。わりに大きい島があって、その牛ノ浦海岸は今述べた瀬戸の内側にあり、満潮時には力強く流れこむ海水に対していわば堤防となっている。肥沃な稲田……多数のそして村々や漁民の家がこの入江を活気づけ、数知れぬ舟は静かな鏡のような海面に航跡を残して進む。 とくに時津から彼杵への舟行は非常に活発で、長崎から九州内陸部に向かう商業は、その恩恵を著しくこうむっている。ただ海岸が浅く、残念ながら大きな船は航行することができない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年03月12日 13時06分29秒
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