カテゴリ:歴史 文化 古史料 著名人
『シーボルト 江戸参府紀行』 二月一九日 〔旧一月一三日〕 初版第1刷発行 1979年7月15日 訳者 斎藤 信 さいとう まこと
東洋文庫87 発行者 下中邦彦 株式会社平凡社
斎藤 信氏略歴 明治44年東京都生。 東京大学文学郁枝文科卒(昭12)。 名古屋市立大学名誉教授。 現職(著 当時) 名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。 専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。 主著『DEUTSCH FUR STUDENTEN』。 主論文「稲村三伯研究」など。
一部加筆 山梨県歴史文学館
二月一九日 〔旧一月一三日〕 神崎・
神崎は約干戸の気持のよい所で、八つの町にわかれていて、長さは一里に及ぶ。 比較的少ない家数のわりに著しく長いのは、これだけの戸数がたった二列に並んでいることで説明がつく。 すべての町村に特有な町の作り方で、街路が交叉している都市とは異なる。われわれが出発する時に、大通詞甚左衛門が夜分に現金を盗まれたという噂が伝わった。彼は会計主任をしていてそのうえ寛大だったので、旅行中少なからず好都合なことを期待していたのであるが、今はもうあてにできなくなったので、この事件はなおさらおもしろくない感じがした。 公にはこの盗難品について何ひとつ詳しいことは知られていなかった。けれども甚左衛門は内々私に大金が盗まれたことを打ち明けた。彼はともかく自分の被害を決して我々に感づかせなかったし、そのことについてはそれ以上触れなかったが、私は、この事件が知れわたると、盗まれた者の不注意ととられ、しまいには彼が罰を受けることになるだろう、と懸念して書きそえておきたい。
日本の官僚主義的
これは少なくとも、日本の官僚主義的な見解なのである。われわれはF四八度、〔C九度〕の気温のもとで心地よい朝を迎え、引き続きよく晴れた春の一日であった。右手には肥沃な田が、肥前と肥後の自然の境界をなしている筑後川の岸まで広がっていた。
筑後川 筑後川は豊後西部の山岳地帯に源を発し、多くの支流を合わせて水嵩を増して筑後地方をうるおし、北緯三三度一〇分の佐賀・柳川両都市の間で二筋に分かれて島原湾に注ぐ九州最大の川で、その流域は、左は柳川の、右は佐賀付近の嘉瀬川(Kasagawa)の周辺まで続き、日本における摂津地方の淀川流域の平野、越後の信濃川、尾張の木曽川流域の平野をのぞけば、九州はもちろんおそらく日本中でも最も広大な平野を形づくぅている。そしてケンプㇷァーの意見ではもしこの地方で農業と同じ程度に牧畜や果樹栽培が盛んだったら、ここは、豊かなメクア王国〔前七~六世紀に栄えた国。今の イラン西北部にあたる〕にも優るだろう、という。 ……北には肥前と筑前の国境の山脈が延び、東南はるか彼方には筑後を豊後や肥後の国々から隔てている山々の峯が見える。かなり高い山の頂は雪におおわれているが、それは北緯三二度から三四度の間で、およそ千二百ないし千五百メートルの高度と推定される。
二毛作・麦・黄櫨の木・蝋燭
この地方では稲田から二度の収穫がある。農夫は晩秋になると土を積み重ねて三フィートの幅の畝をつくり、早播きのハダカムギ(麥)かコムギ(小麦)の種を横の列にまく。にうして播いた畝は水のみなぎる田から高く串ていて、よく茂ったシバの腰掛のように見え、 衛生的な休息所といった観を呈している。 日本でよく栽培されるオオムギはハダカムギの一種で、二列あるいは六列の穂がある。このムギは六月の始めに実る。 それから掘り返され、切株や栄費に富んだ緑肥でこえた土地にすぐ米がつくられ、やがて第二の収穫をもたらすのである。
ロウソク
……このあたり傾斜地や高地ではよく蝋(ろう)の木を見かける。これは有名なハゼノキ{黄櫨}で、その実から脂肪をとり然るべく仕上げ、この国では一般に蝋燭(ろうそく)に使う。 品質ではミツバチの蝋に近く、獣脂のロウソクは全然ない。ハゼのロウソクは盛んに使われるので、この木蝋は重要な商品となっている。近ごろではまたジャワやヨーロッパヘの輸出品になった。 その安値……百ポンド〔五〇キログラム〕で、約七〇グルデン……のため需要がたいへん多いのは、商人が動物性の蝋と思っていたからである。けれどもやがて植物性の脂肪であることがわかって、今あるようなやり方で燈火に使うと、濃い煙が出るので、以来それについての問合せは少なくなっている。日本人はロウソクの構造をなおしてこうした欠点を除いた。木綿糸をかたくよったものを芯に用いないで、紙で作った中空の円柱を使い、日本語で藺(い・りん)というトウシングサの髄をそれに巻きつけ、くっつきやすい生糸で結ぶ。濃い煙は円柱の中に扱い込まれ、燃えるときに無影燈の場合と同じように煙がでない。
ハゼノキ・大根の木・麦きり・米通し
ハゼノキは南方または東南方の風土で最もよく育ち、われわれの方の果樹と同様そこかしこの野原に適当な間隔をおいて植えられる。ハゼノキは、樹脂を含んだ植物に特有な羽状の葉をのぞけぱ、ドイツの野生のリンゴの木ぐらいの外観と大きさをもっている。 晩秋には落葉する。すると農民は木の枝に大きなダイコンを隙間なく掛けるが、それは塩漬にするために干すのであって、木はそのためおかしな格好となり、不案内な船乗りはそれを大根のなる木だと思うことも珍しくはない。 そうこうするうちにわれわれは苔野(こけの)という小さい村に着いた。この村はソバ(蕎麦)から作った一種のうどんで旅行者の間に名がある。それはソバ切りといってたいへん栄養に富んだ食物で、醤油の汁・ワサビ・トウガラシ・ネギなどでよい味がする。 農夫はこのあたりでは一般に穀物を挽くのに一種の唐箕を使っているが、それはわが国のものと同じ方式である。私が聞いたところでは、この有益な農機具はオランダ人が導入したのだという。この機械は米通し(Kometosl)あるいはモミ車(Momi‐kuruma)ともいう。われわれはここでまた非常に簡単にできている硯臼を見た。この臼は、回転軸の端に恢歯車を備えた汲水車からできている。 その歯車は上部の日石の上にある木製の変速歯車にかみあい、上の臼回る。穀物は縁が高くなっている上の臼に投げこまれ、穴を通って下臼の上にゆき、ふたつの石の間ですり砕かれ、下石のまわりにある箱の中で挽割りとなって集められる。挽割りはそれから特別な箱の中で篩(ふる)われ、そしてまだ穀粉を含んでいる糠はもう一度臼にかける。水樋も同じく簡単で、木で作った樋が水を上掛け式水車に導き、汲み涌かいっぱいになると水車を動かす。水車小屋は藁葺きの屋根で、水車の機械はむき出しのままその中にある。 風車は日本にはないが、牛や馬でひく臼はたぶんあるだろう。
肥前……陶土・陶工・陶器
肥前は良質の陶土で知られていて、そこで掘り出し加工される。町の至る所で陶工が陶器を乾かす仕事をしているのに出会う。 破砕機は非常に簡単で工夫をこらしてあり、その中にかなり堅い陶土(風化した長石)を入れて砕く。二〇ないし二五フィートの長さの円い材木の、太さ約ニフィートの一方の端のところが長方形の涌の形に彫ってあり、もう一方の端には木製のハンマー形の杵がつけてあり、その下側には鉄が打ちつけてある。 この円材はほぼ中央の重心のあるところが軸になって、シーソーのように昇ったり降りたりする。桶が水でいっぱいになれぱさがり、反対の端に取りつけてあるハンマーは少しの間あがっているが、流れ込んでいた水で重くなっていた桶がからになると、急にはねあがりハンマーは重みで玄武岩か花尚岩で作った摺鉢の中へ落ちてゆき陶土を砕く。
目達原……ニワトコ・クスノキ 太陽の高度を測った
目達原(めたばる Metabara)の近くで、道は心地よい松林をぬけてゆく。それは遠くから見ると、まだ植え付けていない平らな田圃から、砂漠の中のオアシスのように姿をあらわしていた。 われわれが休んだ中原の村で、私は、生垣がみんなムメサキウツギ(Mumesaki utsugi)なのを見た……おそらく日本で最も美しい濯木のひとつであろう。またそのあたりにはよくニワトコの一種の、クズノキ(Ku―zunoki)が生えていた。その木はわが国の〔ニワトコ〕によく似ている。クスノキの新芽はその後に降った霜で傷んでいた。この木はもっと南方の風土に適しているように思われる。
太刀洗(Tatsiaral)
太刀洗(Tatsiaral)の近くで、昔山賊が住んでいた大刀洗峠という山を指して、山賊の恐ろしい話を聞かせてくれた人がある。昼ごろ轟木に着き太陽の高度を測った。 この地点の天文学的測定は、この付近で肥前、筑前および筑後の三つの大名の領地が境を接しているので、なおさら重要である。 われわれの観測によると森本は北緯三三度二一分にある。ビュルガー君と私は、害を受けずに観測できるように、行列の先を急いで進んだ。しかしわれわれが六分儀をとりだすと、すぐさま数人の警護の役人が近づいてきて、われわれの意図を尋ねた。われわれはうまい口実をみつけて、使節が旅行の計画を時間どおりに行なうため、天文学の機械を使って正午ごとに彼の旅行用の時計を合わせるよう我々に命じたのだ、と言ってその場を切りぬけた。 我々の仕事は幾重にも取り巻いていた住民の好奇心を誘った。厳粛な静けさがみなぎり、顔という顔には驚嘆と畏敬の色がこもごも浮かんだ。実際われわれはたえず肉眼や望遠鏡を用いて、その創造力のゆえに神と崇められる太陽をながめ、それから太陽神の祭壇に立っているような人工水準器の鏡の中に、純粋の像として太陽の反映をみたのである。残念ながらわれわれの乗物はクロノメーターを積んで遅れて来たので、この土地の経度を測ることができなかった。 しかし江戸の天文方の報告によって佐賀と柳川の距離がわかっていたし、日本の道路標には各地の距離が精確に書いてあったので、轟本の経度は一三〇度三〇分と推定される。 このあたりの景観は次第に山岳的となり、西北方には高い山脈が走っている。権現山・針山・吉川岳・酒盛山で、これらの山は肥前と筑前の国境をなしている〔福岡・佐賀術県の境にある背振山地をいう〕。
嬉野…牛津…神崎
嬉野から牛津までにビュルガー君は粘土と泥灰板岩を見つけ、牛津から神崎までは粘土がうすい層をなして石炭層とか粘上板と交互になっているのに気づいた。 神崎からここまでとさらに田代までには長石があらわれ、山全体が陶土から成っている。それは天草島で花崗岩の間に現われ、質の良さで珍重されているのと同じものである。
田代・基肆(きい)郡・対馬藩主
われわれはなお一里すすんで、肥前と筑前領の境にある田代に着いた。ケソプファーは、この地方は彼が来た当時には対馬藩主が領地として受けていたと、報告しているし、実際にまたその通りであった。 田代が二一の村とともに属している基肆(きい)郡は、九州の他の二、三の領地と同じく当時天領として没収されたのを、対馬藩主に領地として与えた。新しく国の体制を定めるに当たって対馬藩主に対して毎年一〇万の石高が認定されたが、コムギ・アワ・ソバだけがつくられコメはできない不毛な対馬では、それだけの収入を得ることができなかったからである。 それゆえ日本の政策は、この藩に朝鮮との単独貿易のほかに九州にある領地を割り当てたのであって、それは万一起こるかもしれないアジア大陸からの侵略的な企図に対して、対馬の位置や朝鮮との関 係からいわば監視塔の役目をもつ対馬藩主の忠誠を確実にするためである。 国境で筑前侯の数人の家来が使節を出迎え、我々をさらに案内してくれた。 このあたりの土地は平坦でとくに念入りに耕作してあった。原田付近ではたくさんの菜種やカラシナ(芥子菜)があった。日本のカラシは品質が優良で、その味はイギリスやロシアのものとよく似ている。 ロシアのカラシが同一種の、シナガラシからとれるというのは有りうることで、他の多くの種子と同様に、このカラシがシナからキャフタ〔バイカル湘南、モンゴル国境に近い町〕を経由してロシアに輸入されたことがあったろうから、シナガラシ云々ということもありそうなことである。
獺(かわうそ)・
出島を出発して以来、払は何匹かのイタチやウサギ以外に野生の哺乳動物を見たことがなかった。今日は一匹のカワウソが払のすぐ前から小川へ飛び込んだのでびっくりした。日本のカワウソはドイツの普通のものと形や大きさも同じだが、ただ背中がいちだんと濃い褐色で、腹・胸・喉などの毛が灰色をおびているのが違っている。ともかく日本のはカナダのものほど暗褐色でないから、ヨーロッパ種から新世界の北半球に住むカナダ種への明白な移行形態を示している。……このカワウソは川や湖のほとりに住み、そこから細い川にのぼって行く。ときには大きな河が海に注ぐあたりの海岸にもいる。カワウソは魚類を常食とし、ときにはカニも食べる。一月に交尾し一ないし二匹の子を産み、もっと多く産むことは少ない。カワウソの皮はシナヘの輸出品で、シナの商人はこれに四ないし六グルデン支払う。また日本人は、シベリアの住民、千島やアリューシャン群島の毛皮を剥ぐ人のように、口から頭部を通って尾の先まで少しも切り損うことのないやり方で皮を剥ぐ。皮は灰・明礬(みょうばん)・塩を混ぜたものをつめ、それから空気にあてて乾かす。
化石・山井
我々が泊まった山家で、われわれはまもなくこの土地の珍しい物を見つけた。中にはとくに珍しい鉱物のコレクションがあって、日本人がめったに見たこともない化石が主なもので、この地方や近くの宝満岳で集めたものであった。そのコレクションにはほかのものに混じって、石英や水晶のたくさんの断片と白に赤味をおぴた珪質板岩のところどころに赤鉄鉱がまじっている鐘乳石形の鉱物や大きな木の化石があり、組織と条理面とがよくわかった。そのほかたくさんの化石を見たが、その中にはいくつかのいわゆる竜骨、つま り原始時代の竜の骨とか、カメのものと称していた化石があった。竜骨というのは象の骨で、カメの方は怪しい化石で、たびたぴの注水ですっかりくだけて、鑑別できないようになっていた。なぜなら日本人の好みによって奇妙な組に分けて並べた石は、閉じ込められて部屋の片隅で岩の小山をなしていて、見物する直前に二、三ばいの桶で水をかけるのは、ほこりをきれいに洗い流して、珍奇な品々がきれいに輝いて見えるようにするためである。 山家……この名は山の家という意味である……は筑前領の首都で藩主の使む福岡から東〔南東〕へ六里のところにある。われわれが泊まったところは藩主の別荘で、彼は毎年参勤交代で江戸への行き帰りにはここを訪れる。使節は藩主の部屋に泊まった。二つあって、きれいでさっぱりし過ぎているような気がした。一方の部屋は高貴な人の次の間にあたり、襖戸で居室や寝室に使うもうひとつの部屋と続いている。蛇腹と天井板はえりぬきの杉材を用いきれいに磨かれていたし、壁は貝殻石灰で真平らに塗りあげてあり、一方の部屋のは桃色で、もう一方は黄土色であった。両方の部屋は六枚の襖で仕切られ、外側は花模様の、内側は金色の襖紙が貼ってあった。 襖には黒漆をぬった縁が付いていて、われわれの方の錠の代りに青銅に金張りした円い金具がつけてあった。この襖は取り外してふたつの部屋をひとつにすることができた。床は上手に詰物をした畳で緞子の縁飾りがついていた。居室の方の床は約一フィート高くなっていて、部屋の中央には厚さ二分の一フィートの芯のはいった蒲団が置いてあるのは、藩主の座席として用いるのである。両方の部屋の窓は床と同様この国の風習に従い木材であっさりと作ってある。縁は褐色にぬられ、ガラス板の代りに白い紙が張ってあった。窓は趣味豊かに造られた小さい庭に面していて、庭の奥には小さいお宮とふたつの石燈龍があって茂みの中から顔を出していた。 次の間の隅に彫刻で飾った小室があり、部屋のある側にひとつの戸斟あり、格子のついた窓穴があけてある。これは外は見えるが中は見えないので、尼僧院の教会の内陣に似ている。なぜならこのせま い部屋の中にいる人はたいへん窮屈な気侍になったからである。この独特の小部屋は侍臣の勤務するところで、彼はここで妨げられず見られもせずに主君の合図を待っていればよいのである。
大宰府
……山家の近くに有名な巡礼地大宰府という所があり、天満宮〔天神というべきである〕を祭る。何人かの従者はわれわれが到着した晩に参詣に出かけた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年03月12日 23時01分24秒
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