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『シーボルト 江戸参府紀行』 二月二〇日 〔旧一月一四日〕
初版第1刷発行 1979年7月15日 訳者 斎藤 信 さいとう まこと
東洋文庫87 発行者 下中邦彦 株式会社平凡社
斎藤 信氏略歴 明治44年東京都生。 東京大学文学郁枝文科卒(昭12)。 名古屋市立大学名誉教授。 現職(著 当時) 名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。 専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。 主著『DEUTSCH FUR STUDENTEN』。 主論文「稲村三伯研究」など。
一部加筆 山梨県歴史文学館
二月二〇日 〔旧一月一四日〕 花崗岩 たいへん骨の折れる山道が山家から山岳地帯に通じているが、その地帯には三百から七百メートルの地田山・宝満岳・冷たい水の山という名の冷水峠の山山がそびえている。宝満岳の麗では片麻岩と石膏が混じっていて基礎台地を形成し、その台地を貫いて花崗岩が大きな塊となり狭い谷底の斜面に突き出ている。この花崗岩は非常に美しい大粒のものである。
日本の四季
南と東南に向かって横たわっている前山の麗には、恵み深い太陽がもう日本の植物群の春の使いを誘い出していた。 スミレ・コマメズメ・サワオグルマ・タンポポ・ムサシアブミ・センボンヤリ・スゲの花が咲き始めていた。
日本列島では、わが国と同様に植物は四季を一巡し、景色はそのつど季節にふさわしい装いをするが、季節の移り変りは日本では、夏から秋と秋から冬への変化が、冬から春にかけての変化ほどきびしく現われないから、北方の気候の変化と異なるわけである。 なぜなら荒い北風や吹雪の下で眠り込んでいた草木は急に目覚め、数週間たらずで景色は美しい春の装いをこらす。 いま(二月)上に述べた春の使者が、すでに早く(一月)庭に咲いているアンズ・ツバキ・サザンカ・ビワ・サソシュウユ・セイョウサソザシ・ミズキなどの仲間に加わる。 三月には ヤマブキ・シロヤマブキ・ムメサキウツギ・アオモ ・チンチョウゲ・ジャスミン・サクラソウ・ニンドウ ・キンギンボク・早咲きキフジ・ハナズオウ・マンサク ・ロウバイ・ムレスズメ・スモモ・サクラ・モモ
などのだくさんの類種や変種が続き、モミジの色さまざまな若葉を織り交ぜて森や庭や生垣を飾り、常緑のゲッケイジュ・セイョウヒイラギ・テンニンカ・カシワが四月には新たに葉をつけ、たくさんあるシュウテイカの木は花が終わって葉となる。 森は硬い葉、軟らかい葉が濃淡の緑を織りなして輝き、花咲く ツツジ・ウツギ・ヒサカキ・ヤマツツジ・モクレン ・ヤマシャクヤク・テマリ・ニシキギ・カナメ ・キイチゴ や、すばらしいキリの木が、暗い色の杉・ニオイヒバ・イヌカヤ・マキその他の針葉樹の眺めを明るくし、まだ葉をつけていないハゼノキや、たくさんの手で葉をつみとられた茶の木をおおいかくしている。 次いで(五月)若々しい緑にもえて若い麦が丘をなした畑で希望にみちて立ち上がり、ほんの最近耕したばかりの畑を黄金の縁で飾っていた早熟の菜種は、色あせて重い茎を垂れる。勤勉な農夫は自然の蕃殖力と競う。驚嘆すべき勤勉努力によって火山の破壊力を克服して、山の斜面に階段状の畑をつくりあげているが、これは注意深く平入れされた庭園と同じで旅行者を驚かす千年の文化の成果である。
六月には木の葉は次第に濃く茂り、花の過ぎた潅木に影をおとし、だんだんに暗くなってゆく陰影の中で濃さを増す緑が夏の訪れを告げる。 七月にはうだるような暑さでタケの地下茎は大きな新芽を出すが、その竹の子(筍)は親竹のそばでどんどん生長するので、秋の嵐や冬の霜からやっと元気をとりもどした親竹を直に追い越すほどになってしまう。 熱帯の気候のもとでのように、ひとり立っているシューバショウは、あたかももっと暑い国からここへ運んでくれた人間を陰の多い屋根で守っているかのように、その葉を広げる。 ダイダイ・ミカン・キンカン・モクセイ・ヒイラギ ・ゲッカコウ・ラン その他香り高くにおう植物が花をひらき、草木を世話する疲れた人々をその芳香で元気づける。 すてきなユリや深紅色で目をひくケイトウ・モミジソウ・ハゲイトウが庭を色どり、シンケイカ・キソギョソウ・ヒルガオ・ゼニアオイが野を飾り、聖なるハスは浮かんでいる葉をもたげて、沼地を美しい花でおおう。 いまや、生命のあるものはみなたびたびF九五~百度(R二八~三〇度)〔C三五~三八度〕をこえる暑さのもとで衰える。高等な植物は蔓で巻いたり匍ったりする種々の雑草、ケタデ・ミゾソバ・イタドリ・イノコズチ・チャブクロ・ツタ・シロザ・ツユクサなどと戦い、そして繁茂した草……カヤツリグサ・キビ・オイシバ……は花時を過ぎた高等な植物と乾いた田のあぜ道や干上がった水源の小川の岸に沿った濯木を押しのけ、田畑の中で生い茂る。 雨期 待ちに待った雨期が始まると、それを利用して農夫は除草したりキピやアワを播いたりして、あまり肥えていない土地から第二の収穫をする。 オオムギ、コムギはすでに六月にとりいれ、その土地にコメ、リュウキュウイモ、食用となるクワズイモとナスピ、タバコ、アイなどを植える。 谷にはコメが実り、岡の日当りのよいところではキウリ(胡瓜)・シロウリ・トウガン(冬瓜)・スイカ(西瓜)・ボーブラはみずみずしい実を結び、ダイズ(大豆)はサヤ(鞘)をつける。 おそらく八月まで一カ月かあるいはそれ以上の間、植物の外観上の生活には目立つほどの変化はあらわれない。 ただそこここになおクサギ・トウキリ・フョウ・ムクゲ・ノウセンカズラ・サルスペリのような遅咲きの木や、オトコメシ・オミナエシ・フシバカマ・ヒヨドリハナ・ツルニガナの類や前に述べた其のいくつかの花の咲く野草が、黄色い草の中からつやのない緑色をして顔をだす。木の実や種が熟し稲田は色梗せ、春はスミレヤアネモネの花が咲くところに、 いま九月には、ツリガネニンジン・ヒメ・センブリ ・ミヤコアザミ・キッネノヤ・オトコヨモギ・ガンクビソウ ・シラヤマギグ・ヤブニンジン・ボタンボウフウがあらわれる。
早く熟すモモの葉は一〇月には枯れ始め、カキ(柿)の葉は落ち、すき間のできた枝は柿色の実を誇らかにみせる。いくつかの早咲きの濯木、たびたび述べたレンギョウ・クツギ・ヤマブキ・バラ・ジャスミンはいま再び花を咲かせ、キク・キフネキク・ヨメナ・ヤマシロギクなどの人々の好む変種とともに庭を彩る。 トキワ・カヤ・チョウセンガリヤス・オガルカヤのような種類の草の属は、注目すべきことであるが、晩秋の、それも山頂を繁った緑でおおっている海抜六百ないし八百メートル以上の高さでも花を開く。 ダイダイヤスギやその他二、三の針葉樹の数多い変種も、この季節にときどきかなり冷たい北西の風が吹く時でも新芽を出す。まるで新しい衣をまとって冬をしのぎやすくしようとしているかのようである。太陽の力強い影響からまもられて、塊根をもつ植物は今や土の中にある根をますます実らせる。 白や黄のカブラ・ダイコン・ジャガイモは今がいちばんよく育つ。 ハゼノキやカエデの紅葉はついに自然の力が衰えてゆくのを知らせる。 大部分の樹木や潅木は葉を草とし、多年性の茎は枯れる(一一月)。ただキク・ツバキ・チャ・スイセンとシキザキイバラだけが庭、 や野に咲く。明るい木立のなかからゲッケイジュ(月桂樹)やセイョウヒイラギの赤や黒い実やオレンジが輝き、コケ類はけわしい岩や、葉の落ちた幹に咲く。 すでに二、三週間前から高い山の頂上は雪をいただき、冷たい北西の風が吹き、氷が張り雪や霙(みぞれ)が降る。 ……しかもほんの短い期間だけ高等植物の冬の眠りが続く。すでに正月の初めには幾種類かの草木が生じ、すでに新年の日に梅の枝に花が開きフクジュソウ(福寿草)が家の守護神の祭壇を飾ると、人々は豊年が知らされた思いがする。
近隣のアジア大陸との、とくに支那・朝鮮およびもっと南の琉球諸島との千年以上に及ぶ交渉は、日本の植物群を外国のたくさんの有用ならびに観賞植物で豊富にし、人の住んでいる地方の姿は明らかに技術で改良された外来の特色を帯びている。 われわれがいま丘の斜面に穀物や野菜を植えた畑が階段をなして上っているのを見る所は、以前には丈の高い草、 ……カヤ・カルカヤ・チカラシバ・チガヤが生い茂り、 シオデ・クズ・ツルウメモドキ・センニンソウ ・ボタンツリ・サネカズラ・トコロ・ヤマイモ・フナワラソウの蔓性の枝がからみ合っていた。 いまチャの木が、アブラナ・クレナイ・ケシ・ゴマ・ワタ(綿)を植えた畑の回りに垣をめぐらしている処は、かつては色とりどりに混じり合って、 ナツグミ・ナワシログミ・ヤマデマリ・コバノグマズミ ・ガマズミ・イワカサ・スズカケ・ミムラサキ ・ヤブムラサキ・クサイチゴ・ゴマハギ・メドハギ ・ハギ・ヤブツグサ・ハクチョウ・チサノキ などが茂っていたのだ。数時間かかる平野を亥ねが一色の緑でおおっているところには沼があって、 ハス・オニバス・ガンシサイ・センダイタクシヤ ・ヒジ・トチカガミ・クワイが生え、 またヨシやカヤツリの類…… サカカツリ・ガマ・ナルコヒエが淋しい岸辺の縁に生えていた。川や山の小川はまだ思いのまま流れて河床を広げた。 その川岸にはマタケ・メタケ・シオチク・ヤタケ・モウソウチク ・ハチクなどいろいろな種類の竹やイヌビワ・イタビ・モツコボク・アカメガシワ・ヤブマオ・アクソウ・ヤナギイチゴが生い茂っていた。 土砂が積もってできた州には ツユクサ・ハマアカンウ・マツナ・イヌコズチ・キケマン ・ムラサキケマン・テンゴサク・キンポウゲ・タガラシ ・キツネノボタン・メハシキ・カタシロ・イヌフグリ ・カワヂシヤ・ドクダミ・ッボグサ、などが繁茂し、 それからウルシ・マンネンソウ・ゲンゲバナ・オトギリソウ ・キジムシロ・キッネノゴマ・ヤブタバコ・トダイグサ ・ニシキソウ・チヂコグサ・モチハナ・タマジオ・シュブンソウ ・カワラヨモギ・ハナヒリソウ、が草原や丘をおおっていた。 神社・仏閣の周囲の荒野を切り閣いて、組織力をもつ人が美しい森をつくり、色とりどりのツツジ(躑躅)・ノコギリツバキ ・ホンバツバキ・ボタンやすばらしいユリ・ランなどで飾った。そして荒れ果てた海辺では貧しい漁師が丹精して甘いクリや食べられる実のなるカシワが茂って、小さい森になって、育ててくれた 人々の小さい家にやさしく影を落としていた。 数世代にわたる文化的な活動によって、はじめて日本の景観は現在の特色を得たのである。 オレンジ・ザクロ(柘榴)・モモ(桃)・アンズ(杏) ・リンゴ(林檎)・ナシ(梨)・マルメロ、ならびになお多くの日本産といわれる植物は外国の原産であって、われわれは約五百の有用ないし観賞植物のうち半数以上のものが輸入されたと、推定することができる。
我々が山岳地帯へ深く進むにつれて、絶え間なく降る雨のために道はいっそう苦しくなってきた。人馬の敏捷さと確実さは驚くほどであるが、細く険しく滑りやすい山道を攀じ登るのは気の毒なことであった。もし先に述べた履物がなかったら、こういう道で荷を運ぶことは人馬にとって不可能であろう。 それゆえ藁靴はこの国では皮靴や蹄鉄では代用できない必要品である。私の門人や従者は、地衣やコケ類を集めるために、非常に急な斜面をよじ登りたびたび足をしっかり踏みしめて、インドの大トカゲのように険しい岩にがじりついていた。
冷水峠・通詞 我々は冷水峠の山の背にある宿で休み茶菓を喫した。 古いしきたりによって宿の主人は使節に土産を贈って款待した。それは杉の木の小さい板の上にきれいに並べた雉と卵で、われわれを酒宴に招いた。 そこでもわれわれは日本の役人や通詞に出会った。きれいに着飾ったかわいらしい娘を連れた主人夫妻は、われわれを手厚くもてなした。この宴会では通詞諸君が元来最も宣誓な役割を演ずるのであ る。なぜなら款談の糸口はこの連中の仲介でつくられるからで、彼らの主な努力はわれわれ客人を犠牲にして上席検使にとりいることにあるのだから、そんなおのれの器用さを発揮して、われわれがこの役人に対し丁重にするように仕向け、使節の体面をときには傷つけるのである。 私は、通詞らの性向にここで注意を向けないではいられない。提督フォン・クルーゼンシュテルンやフォン・ラングスドルフが激しく非難した以前のある事件の部分的な弁明でなくて、その説明に役立つからである。 私は、オランダ賢弟の長官がロシアの使節をナデスタ号艦上に 訪問したとき、ひとりの通詞のまことに無礼な合図で、ロシヤの使節に儀礼的な挨拶をするのに先だって、長官がまず艦上にいる上席検使の席に赴き、深く頭を垂れたあの場面を想像する。 ……ひとたび船上の与えられた状況のもとで、日本人衝突しない ようにするには、商館長H・ヅーフ氏はそれ以外にどうしようもなかったのである。 しかし彼は周囲の気風をよく知っていたので、前もって日本人と儀礼について折り合うべきであったろうし、日本人の側からはオランダ国民の代表者の体面にかかわるようなことは、きっと何ひとつ要求もしなかったであろう。 私はもう一度繰り返しておきたいのだが、いわゆる、上席検使は出島で考えられているほどの高官ではない。ただその仕事熱心と通詞の卑屈な追従とが、とくに外国人に対すると自らのために官職の威光を行き渡らせるようにするのであって、おそらく彼ら自身は一度もそうした要求をしていないだろう。
上席御番所衆の川崎源蔵
しかし、わが上席御番所衆の川崎源蔵はひじょうに謙虚な人柄で、われわれに対してとくに気をきかせてくれた。その注意深さのほどを示したのである。
内野村
われわれは山岳地帯の東北の斜面を下り、内野という山麓の村で上に述べたのと同じように贈物を受けもてなされた。 ……野生のツバキ(椿)、若干のジュウテイカ、ヒサカキ、いろいろな種類のササフラス、アワブキ、ムラダチのほかに、山の湧き 出る小川のほとりにはセキショウ、湿った岩の壁にはイワボタン・ヤマアイ・クサニンジン・イヌナズナ・タガラシなどが咲いている。 野椿はときどき二〇ないし二五フィートの高さで、幹は六インチから八インチの太さがあった。この植物は所々で森の一部となり、たくさんある濃紅色の花はちょうどこの季節にはとくに美しい眺めを呈している。花は簡素で半ば開いているに過ぎない。
雉 われわれは新しい森林伐採区の側を通り過ぎたとき、キジに驚かされた。キジはわれわれの方のヤマドリのように音をたてて飛び上がったのである。それがヤマドリであったかキジであったかを判別する事は出来なかった。とにかく両方ともよくこの山中に居るという噂である。
シーボルト『日本動物誌』 雉・山鳥
私の『日本動物誌』の共編者のひとりである、アムニンク氏は、私がすでに、一八二六(文政九)年に日本から国立博物館〔ライデン市内にある〕に送ったこれらの鳥を、彼の偉大な鳥類学の著作の中で、 ヤマドリの方をPhasianus versicolor、 キジをPh. Sommeringii として図示し記述した。 ヤマドリは山にいる鳥の意味で、その名の示すとおり深い山中にのみ生息しキジよりも珍しい。その長い尾と、赤褐色ひと色で光の具合で金色に輝く羽根はヤマドリの雄をキジの雄から区別し、そしてキジの方は形も色もドイツの普通のキジに似ている。両方とも光のさす新しい伐採地区をえらんで春を過ごすが、雌は交尾期が終わると密生した森に戻り、濯木の下のコケやシダの茂った場所に巣をつくり一五個までの卵を産む。 日が暮れると、雄鳥は卵を抱いた雌鳥から別れて、種を播いた畑で餌をもとめ、ときには雌を呼ぶ声を聞くことがある。それで日本の歌人が次のように歌っているのはもっともである。 春の野にあさる雄子の妻恋に おのが在処を人にしれつつ Haruno no asaru Kisi。 sono tsuma koini Onoga arigawo hijtoni sire tsutsu。
「春の野に餌を捜しながら、 キジは恋しい妻に寄せる愛情から 自分の居所を人にもらしてしまうのだ」
春や夏には穀物の種子がこれらの鳥にたくさんの餌を提供し、秋や冬には鳥は木の実や芽を食べる。 このころになるとヤマドリやキジの胃はたいていヒサカキの実でいっぱいになっていて、その青い色素で胃の内壁はすっかり染まっていた。 キンキジ(金雉)やギンキジ(銀雉)は日本の原産ではなく、わが国におけると同様に、ただ楽しみとして飼われるだけであるが、盛んに繁殖したくさんとれる。その原産地は多分支那である。
長尾村の少年・少女
内野と飯塚の間の冷水峠の東北斜面の麓にある長尾村で、音十郎という一八歳の日本人の奇妙な顔に注目した。この男の鼻は非常に小さく額がたいへん突き出ているので、頭から額に線をひくと、鼻はその線より後ろにあったくらいである。彼の挙動は単純で子供っぽく、声は少年らしくないし、髭や眉毛のあるべき箇所にはヴブ毛が生えているだけであった。上顎骨の二本の白歯以外には歯がなかった。この少年は健康な両親から生まれ、見た目にはたいへん弱そうであったが、丈夫であった。この病的な醜さにはクレチン病〔一 指の白痴〕に似た状態が認められる。
ともかく九州の内陸部の高原を形成しているこの地方の住民は強健な人種で、顔づきは平らで横幅があり、鼻は小さく幅が広くロも大きく唇も厚くて、九州南岸の住民と見分けやすい。女性はたいへん優美である。若い娘は美しく白い皮膚をし、頬は生き生きとした赤味を帯び、まるまるとした顔立ちである。鼻根は深く押しつけられ、内側の眼角め間隔が広く顴骨(かんこつ)はいちだんと突き出ていて、そのためちょっと見ると内斜位である眼の独特の位置が、他の日本人について観察したのよりもいちだんと目立つのである。
長尾川(Nagawogawa)・瀬戸川(Setogawa) ムスエ川(Musujegawa)・直方川・芦屋川
飯塚付近で山地は終わり、肥沃な水田のある広々とした平野がひちけ、長尾川(Nagawogawa)。瀬戸川(Setogawa)及びムスエ川(Musujegawa)で潅漑されている。これらの川は三メートルから九メートルの幅で、たった今われわれが通ってきた山岳地帯に水源を発し、筑前と豊前の境をなしている山地の直方付近で堺川Sakaigawa) と合流して、それから直方川という名の幅九〇メートルの河となり、芦屋崎の近くで芦屋川となって海に注ぐ。 同一の川が水源から河口までしばしば短い距離で種々の名称をもっていること、普通その川が流れ過ぎる地方の名を冠していることを、ここで注意しておかねばならない。 これは大きな河川を記述するに当たってよく斟酌しなければならないことである。……長尾川の右岸にある約二百戸の飯塚村でわれわれは昼食をとり、それから直方付近で同じ名まえの川を渡力、夜ふけて木屋瀬(KojanoSe)に着いた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年03月13日 08時59分14秒
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