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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年03月13日
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『シーボルト 江戸参府紀行』

  二月二二日 〔旧一月十六日〕 

 

初版第1刷発行 1979年7月15

  訳者 斎藤 信 さいとう まこと

 

  東洋文庫87

  発行者 下中邦彦

  株式会社平凡社

  

  斎藤 信氏略歴

  明治44年東京都生。

  東京大学文学郁枝文科卒(昭12)。

  名古屋市立大学名誉教授。

  現職(著 当時) 

  名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。

  専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。

  主著『DEUTSCH FUR STUDENTEN』。

  主論文「稲村三伯研究」など。

 

  一部加筆 山梨県歴史文学館

 

二月二二日 〔旧一月十六日〕 

 

  鶴・黒鶴・貝・引島

 

 この町で産物を捜し出すことを頼まれていた門人や従者たちは、市場や魚類・獣肉などを売る人々のところで、ツル・ノガモ・フクロウ・アトリ・シジュウカラ・魚類や食用になる貝などを手に入れて持って来た。その中には普通のツルや大ヅル、それから当時まだ私の知らない種類で日本人がクロツルと呼んでいたものもあぅた。ツルは日本ではたいそう冷泉され、しばしば絵画や花瓶や神事の道具に幸運の象徴として描かれている。

ツルを捕ることは元来将軍や大名たちに残しておかれたもので、彼らは特別の猟区で鷹を使ったり弓を用いたりして行なった。将軍は毎年必ず自分で捕ったツルを天皇に献上することは古くからのしきたりで、歴史家や歌人によって長く伝えられている。

それにしても猟の禁止は将軍の居城から遠く離れた地方では、非常に厳しく守られているものではない。ツルの肉はたいへん需要の多いもので、大きな宴会ではそれで吸物を作り、肉は煮て食べる。

……魚脂のような味のする料理で、この国の人々にはよりぬきの御馳走と思われているが、ヨーロッパ人の口には合わない。そんなわけでツルはたいそう高価で、一羽一二ないし二〇グルデンもする。だから読者は、私か毛をとったやせたツルを贈物として与えた時に、上検使や通詞を驚かせてどんなに愉快だったかを、容易に御想像いただけるだろう。

ほかの鳥の中には美しくて珍しいカモ・ウラルフクロウ・カンムリカイツブリがあった。

この土地では食用のハマグリ(蛤)のほかにマデガイという一種

のナイフの鞘の形の貝が市場に出ていた。

 

  引島(彦島)・六連諸島・男島・女島・紫川

 正午ごろ、われわれは街を通って散歩し前日渡って来た橋の上で何度かコンパス測量を行なった。これは九州をほぼ〔本州〕から隔てている海峡の西にひろがる引島〔現今では彦島という〕や、今いくつかの小島や岩礁の位置を決定するためである。この橋の上からは上述の海峡を望む広々とした銀色が開けている。われわれの前方右手、北北東には引島があり、その背後には日本〔本州〕の長門の高地がそびえていた。左手の北北西には六連諸島、北西には男島、女島があって、これは二島(Futasima)とも呼ばれる。すなわち双子の島という意味である。橋の下を流れる川は、この河口のあたりでは南から北へ流れでいる。小倉の住民はこの川を原本川、紫川と呼んでいる。けれども日本の地図ではこの川は蒲生川(Kamogawa)志井川(Siwagawa)となっている〔現在では紫川という〕。

この名称は江戸の天文方の作った最新の地図にのっているから、私はあとの方の名を採ったのである。この川は河口では非常に浅く、場所によってはほとんど一フィートの深さもない。そこで最近その左岸から長さ百歩あまりの堤防を海に向かって作った。これは水の流出を延ばしそれによって砂が堆積して浅瀬となるのを除くためである。

  関門海峡・

 われわれは散歩中、川向うにある藩主の城を見物しようと思って城の方へゆく道を進んだ。けれども城の白い壁と高い天守閣がやっと見えて来たころ、数人の武士が我々に向かって急いで近づいて来

た。われわれに付き添ってきたふたりの町使は引き返すようにしきりにすすめた。われわれはこの町のいくつかの街筋を通ったが、ついに監視役は気軽な気持からかそれとも懸念してか、群衆もふえて来たので、宿にもどるのがよいと考えた。

 

城下町小倉

豊前の首都でこの国を支配している藩侯の城下町小倉は、小さい志井川の両岸にあり、九州を日本〔本州〕と隔てていて、われわれがファン・デル・カペレン海峡の名でやがて知ることになる海峡〔今

日の関門海峡〕の西の入口に接した入江に沿って広がっている。川の左岸にある地区は城とともに本来の古い町で、濠や堤防や城壁で平松言という郭外の町と分けられていて、長方形をなしている。旧市の南方、高い樹々の森から天守閣がそびえている城は、平地に建っていて、たびたび述べた日本の天文学者のいうところによると、北緯三三度五三分三〇秒・グリニグチ東経一三〇度五〇分にある。

小倉のような軍事上の重要な地点では、城はほかの所では期待できないほど堅固であるという。また町は海に面した側は高く巨大な石垣と堤防で守られ、その上に家が建っている。海上に突き出た堤防さえ、港と海峡の西の入口を護る目的で数ヵ所に造られているのかもしれない。

旧市はすでに述べた約百歩の長さの橋で、右岸にあるさらに大きい市区と結ばれている。

この地区は長浜という隣接した町を含めて、海岸に沿い一里以上に広がり幅は半里を越える。ケンプァーの時代には小倉の繁栄は下り坂であった。現在では町は再び活況をとりもどしている。国内貿易・商業および農業は……人口ー万六千におよぷだろう……住民の生計を豊かにしている。しかし藩の下級武士の家族や召使が住んでいる町はずれでは、裕福な暮しというのは当てはまらないように見える。

それゆえ私の助力を求めてやって来たたくさんの患者は、……たいていは慢性の皮膚病・眼病であるが……瘤疾の梅毒や胸・腹部の古い疾患に起因する彼らの病状によって、われわれがこの町にはいって来た時に驚いたこぎれいな住居は、ただ貧困をかくしているに過ぎないことを打ち明けていた。

 小笠原案出身の現藩主は、年収一五万石・約一八○万グルデンである。

 

〔訂正〕

 四二ページ上段〔後から9行目〕の「……湧き出ている。」の次に「湯の中の石には同様に酸化鉄水和物が付着している。」を加える。

 






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最終更新日  2022年03月13日 14時58分50秒
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