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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年03月19日
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無頼派作家とその時代

   奥野健勇氏著(文芸評論家)

  限りない読書への渇き

「一億人の昭和史」十一月号

 

占領から講和へ 

一九七五年十一月一日発行

発行所  毎日新聞社

 

一部加筆 山梨県歴史文学館

 

 

 

今日の若者たちを、敗戦後の日本に連れて行ったら、乞食の群の中に入れられた気持がするに違いない。ズダ袋のような粗悪なよれ

よれの、垢じみたボロを着て、ブリキと板切れで囲った乞食小屋のようなバラックに住み、栄養失調でやせ細り、青黒くむくみ、目ばかりギョロギョロさせ食物をさがし漁っている。

 おそらくそういう時代を過ごして来たぼくたちでも、かつての自分たちの姿を見れば、戦争に疲れはてたどこかの国の難民か、磯節

のため餓死寸前の旧植民地の被差別民族かという感じがするのではないだろうか。ぼくたちは当時の栄養にあふれた身体をスマートな

軍服に包んだ進駐軍兵士たちが、われわれ日本人を軽蔑とあわれみの目で、いや触るのも近寄るのもけがらわしい、汚らしい存在とし

て嫌悪感を体中にあらわしていた姿を思い出し、その心情がわかるような気がする。

 しかしぼくたちはボロ衣も、ボロ家も一向に苦懲なかった。食物だけは今日の生命にかかわるので、手に入れるため懸命になってあ

らゆる努力をした。そして腹が減っているときは、どんな食物もおいしく、むさぼり食った。その食物と同じくらい、当時の日本人は

知識と芸術と娯楽に餓えていた。そしてあらゆる知識・教養を、文学・芸術を、探しもとめ、むさぼり食った。

たとえば西田幾多郎全集三木清著作集が発刊された時は、岩波書店の前に前夜から延々長蛇の列ができた。今日ではとても考えられない熱心さである。

 昭和二十丁年、「中央公論」「改造」「新潮」「文芸春秋」などの雑誌が復刊し、同時に「新生」「世界」「展望」「人間」はじめ、何十、いや、おそらく百を超す新雑誌が雨後のごとくいっせいに創刊された。もちろん紙不足、印刷・製本の工場も殆んど焼けてしまった時代だから、ザラ紙・仙花紙に製本も粗末な雑誌なのだが、たちまち売切れ、闇値がつき、しかも米や芋や煙草などのプレミアムを本屋に持って行かなければ手に入らない始末であった。着るもの、住む家は乞食同様でも食糧と同じくらい、いやその乏しい食糧を割いても本や雑誌をむさぼり求めた。こんな例は稀ではなかろうか。乞食同様のみじめな生活をしていても、日本人の誇りや志は高かった。いやアメリカの圧倒的な物量の力に敗けたという意識が強く、その点では劣等感にさいなまれながら、だから最後のプライドとして、日本人は文化や芸術など精神面では高い教養を持っている文化的民族なのだという面にすがりついたのだろう。

 進駐軍の米国軍人が、白木のいい木目の家や床柱までやたら赤や青のペンキを塗りたくるのを見て、アメリカ人は文化や芸術を知ら

ない野蛮人だと軽蔑したりした。まことにはかない抵抗であるが、その知識欲はまことにけなげであり、ヴァイタリティにみちていた。それも教育の普及で、国民全部が字を識っていたという事情とかかわりあっているだろう。ぼくはこの敗戦直後夢中になって本や雑誌を求めた日本人の知的好奇心とヴァイタリティと、負け惜しみ的な粋がりが、日本をどん底から復興させたと考える。

 空腹時はどんなまずいものでもむさぼり食うが、少し腹が足りてくると味がわかってくる。それと同じように敗戦直後、印刷された

ものなら何でも飛びついた読者も、やがてその内容を問題にしはじめる。人々はほんものの言葉を、新しい思想を求めているが、敗戦

により世の中が変ったといっても、そう簡単に新しい文学、新しい思想が生まれるはずがない。

 もちろん敗戦直後、平和国家建設、デモクラシイ、社会主義革命などをしたり顔に声高に唱える文章は氾濫したが、それは何時の時

代にもいる便乗主義者で、今までの米英撃滅論の口を拭って、「たちまちまわれ左」して、デモクラシイや共産主義を讃美しはじめる。こういう言動ほど、ぼくたち若者の既成世代の日本人に対する不信感を抱かせたものはない。

 日本が敗けたことよりも、同じ教師が、知識人が、同じ新聞・ラジオが、同じ日本人が、昨日と全く正反対のことを平気で語っていることの方が、はるかに恥かしく、ぼくたちを絶望的にさせた。彼ら使乗主義者たちは大衆からも次第にそっぽを向かれるようになって行くが、そのあとを埋めたのが、戦前の左翼、自由主義者の知識人と文学者たちである。つまり戦争中、弾圧され禁止されていた思想や文学がいっせいに復活したのである。

 

文学でいえば、永井荷風、谷崎潤一郎、正宗白鳥、志賀直哉、武者小路実篤、室生犀星ら老大家のめざましい復活であり、戦争中秘

かに書き溜められていた作品が次々に発表され、人々に平和な時代の到来を実感させた。

そして築地劇場時代の新劇の華々しい復活、節を曲げなかった左翼、共産党の英雄的復活、政党政治、労働組合と、次々に戦中ひっそくしていた戦前の勢力が復活して来た。

 

疎外された若者たち

 

今日、戦後を紀元元年として、そこから現在にいたる新しい時代が出発したという見方が圧倒的で、したがって戦後は新しさにあふ

れた若者の時代であったに違いないと思っている人が多いようだ。しかし敗戦の時、十九歳の若者であったぼくにとって、戦後は若者

の時代などではなかったという実感が強い。

 次から次へ、ぼくたちの知らない戦前の亡霊が、華やかにフットライトをあびて次々に登場する。マルキシズム、自由主義、芸術至

上主義……戦争期に育ったぼくたちには皆目見当もつかぬ戦前の思潮が突然あらわれて来て、とても若者など出る幕はなかった。それ

どころかぼくたち若者は、戦争中、軍国主義教育をうけ、戦争に加担したということで、新時代に相応しくない戦犯的世代として疎外

されてしまったのだ。戦後の数年間ぐらい若者が疎外された時代はなく、若い新人の進出が困難であった時期はない。

日本が連合軍により占領され、その支配下にあるという未曽有の新しい異常な状況ということを別にすれば、戦後の第一歩は決して新しい創造の時代ではなく、戦争を挿んで、まず戦前の復活、復古から始まったという感がぼくたちには深話を文学に限定しても、まず先に述べた老大家ののどやかな時代を超えた復活、プロレタリア文学、左翼文学者たちのついに待望の我が世いたるという英雄的復帰、ついで戦前から文壇で活躍した中堅の流行作家の進出と続く。しかし老大家の時代を超越した仕事に拍手した読者たちも、左翼文学者、そして中堅作家の戦前と変らぬ古さにはとまどった。

 左翼作家はかつての転向前のプロレタリア文学運動を絶対に正しいと規定し、戦争期の敗北の体験を捨象し、戦前そのままの文学理

論や運動を押しつける。かつての流行作家であった中堅は、戦前と同じ風俗的リアリズムで戦後風俗を描く。そして共に文学的根拠と

して、自分たちは本心は戦争に反対であり、戦争中も抵抗者であり、批判者であり、あるいは傍観者であったと主張する。

 それは戦後、二十二、三年ころ、新進作家として華々しく登場して来た第一次戦後派作家……

野間宏、梅崎存生、椎名麟三、中村政一郎、

武田楽淳、大岡昇平

らにも共通する戦争に対する姿勢である。もっとも彼らは新人、戦後派と言っても、その多くは三十代であり、戦前にマルキシズムや転向の体験を持つ、戦争期を。暗い谷間’として過ごし、

戦後を……第二の青春……として謳歌できる世代であった。

 それにせよ、ぼくたちは戦後発表された小説や評論を読み、その誰もがぷな戦争に対し、戦争中から批判的、傍観者的であったとばかり述べていることに戸まどい、突き放された気持を味わった。と言うのは、ぼくたち若者は戦争下、祖国のために懸命に努力した。戦争がいいか悪いかわからないが、こうなった以上、生命を犠牲にしても日本を守ろう、日本と運命を共にしようと必死の思いであった。それはぼくたち若者だけでなく、大人たち、ぼくたちの周囲の多くの日本人の姿であった。そういう祖国のため努め、たたかった殆んどの日本人の姿が、体験が、心情が、戦後の小説、評論に全く描かれていない。そうすると二十歳で死を決意したあの重い体験はまるで存在しないことになる。したがって敗戦のかなしさもくやしさも、そして戦争に夢中だった自分に対する心の痛みも、にがい批判も敗戦の衝撃も、自己崩壊も戦争に対する真の否定も虚妄のように思われてくる。

 ぼくたちは自分たちの戦争、敗戦そして戦後体験と合致する文学を見出し得なかった。みんな何か嘘をついている。自分を偽ってい

る。こんなはずはないと。戦後生きる指針を、希望を与えてくれる文学を、敗戦の虚脱と昏迷の中をさまよっていながら、ぼくたちの魂を共鳴させてくれる文学を、ぼくたちの心情をそのまま語ってくれている文学を、探し求めていた。

 

無頼の魂

 そういう時、ただ一つぼくたちの心をとらえ、魂をゆさぶってく

れたのが。無頼派の文学であり、文学者たちであった。

 

織田作之助、坂目安吾、太宰治、石川淳、檀一雄、田中英光。

そして

伊藤整、高見順、三好十郎、平林たい子、北原武夫等々、無頼派4の文学者たち、この人たちだけがほんとのことを言っている。ぼくたちの心のかなしみを知ってくれている。ぼくたちの言いたいことを代弁してくれている。

そして彼らは戦後に命を賭けて主体的自立的に生きようとしていると思った。

ぼくたち若者はここにまぎれもない自分たちの魂の仲間を、先達を見出したのだ。

 いや事情は逆である。もともと。無頼派などという文学者のグループも、エコールも、文学運動もなかったのだ。彼らは出身校も、郷里も、文学的経歴も銘々違っていた。

戦前から文学活動をしてはいたが、別に仲間でも親しい友人でもなかった。織田作之助石川淳は生前会ったことはなかったであろう

し、大宰が織田や石川淳に会ったのも座談会の席ぐらいであったろう。ほかの文学エコール、たとえば、白樺派が学習院の同窓生中心の集まりであったり、……戦旗派……や。……文戦派……がはっきりした政治的文学運動の組織であったり、……日本浪曼派……が雑誌を中心とする同人の集まりであったりなどと違って、具体的な集まりはなく、交友も余りなかった。

 つまり。……無頼派……とは、読者たちがつくりあげた幻想の、あるいは理想の文学エコール坂口安吾が書いた色紙「あちらこちら命がけ」書くことをも含め生活すべてに命がけだったなのだ。若い読者たちが自分の心にはげしく訴えかけてくる数少ない文学者たちを探し出して選び、無頼派なる文学エコールをつくり出したのだ。

名もない読者たちの熱烈な希求と、祈りに似た深い思いが戦後の空に現出させた美しい虹であり、蜃気楼であったのだ。

 しかし文学の世界においては現実の交友関係によるエコールより、読者の中から湧き起った幻想のエコールの方がはるかに強い文学

的真実をもっている。当時の鋭敏なジャーナリストたちは、その読者の欲求がっくりあげた幻想的共同体を皮膚に感じ、無頼派なるエ

コールを雑誌の編集、出版の中に座談会とかグラビヤとか特集のかたちに具現化して行く。そして作家自身も、作品を通しておたがいに文学的・精神的な同志として意識し認め合いはじめる。無頼派は読者の側から自然に形成されたエコールで、このような例は日本文学史上ほかにない。それだけに、無頼派ぐらい人々に圧倒的な共感と影響を与え、読者に強い同類意識、同志感を与えた文学的エコールはない。

 無頼派は敗戦直後の焼跡の中に疾風のごとくあらわれ、その自由奔放な作品と自ら世相と化するような大胆な言動によって日本人の

魂を烈しく揺り動かし、たちまち戦後乱世の英雄豪傑として迎えられ、彼らは自己のすべてを燃し尽して書きまくり、ある者は倒れ、

ある者は自殺し、ある者は狂い、ある者は隠棲し、風の如くに消え去って行った。

 無頼派が文壇を席捲するようなめざましい仕事をしたのは二十一年から二十三年までのわずか二、三年の間である。

織田作之助が病死したのは二十二年一月十日であり、

太宰治が自殺したのは二十三年六月十三日、

田中英光は二十四年十一月三日であり、

その年に坂口安吾は錯乱状態になり、東大の神経科に入院している。その短い間に、彼らはやつぎばやに驚くばかりに豊富に数多くの力作、問題作を発表している。

 






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最終更新日  2022年03月19日 21時13分46秒
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