カテゴリ:歴史 文化 古史料 著名人
生捕りました三度の大地震 地震どう化大津ゑぶし 太平の御恩沢(ごおんたく)に 鯰の力ばなし 地震のすちやらか 世直し鯰の情け 切腹鯰(せっぷくなまず) 地震・雷・過事・親父 鯰と鹿島大明神の首引き しんよし原大なまず(鯰)ゆらひ(由来)
人と自然の博物館・野島断層保存館ジョイント企画展 「地震はなにがおこすのか?一日本人の地震観の変選一」 安政大地震をえがいた……鯰(なまず)絵解説……
生捕りました三度の大地震
鹿島大神宮の神様が,生捕りにした三匹の鯨に縄をかけ蒲焼屋に連行したところ、地震で儲けた大工.とび職、左官,屋根師、絵師の五人が、どうか助けてやってくれと頼んでいる. 三匹の鯰は大きさの順に、 善光寺地震(1847年), 安政地震(1855年), 小田原地震(1853年) を表わしている。 しかし,職人たちの願いは聞き入れられず,神様は鯰を断固として許さず,「ふたたび地震がおきないために,なべ焼きにしろ」と 命じて幕となる。 地震鯰、鹿島大神宮、職人、蒲焼といった画題のほとんどを組み合わせた鯨絵の秀作である。 (東京大学地震研究所 所蔵)
地震どう化大津ゑぶし
大津絵は,江戸時代の初めに近江国大津で売り出された民衆絵で, 無名の画家の画いたものである。 民俗信仰や伝説と結びついた戯画や仏をかんたんな筆彩りで,奔放に画かれた。この鯰はその画法を写し,瓢箪でおさえつけられた大鯰を中心にいろいろな人々を画き込み,これを大津絵節という節まわしで「どう化」して、「世直し」を願望していることを表わしている。文中にはしやれも入り,庶民の気持ちを十分に引きつける力がある。 「八方へ燃え…十方にくれます」と生活の途方にくれ困ると洒落る。 さらに絵中の「祭りの跡で又永やすみ」には,政(まつりごと)は後回しで永やすみと,幕府の無為無策ぶりへの痛烈な皮肉がこめられている。 (北淡町教育委員会 所収)
太平の御恩沢(ごおんたく)に
人々が鯰をなぐったり、髭を引っ張ったりしてこらしめている。左下でも子どもが子鯰をこらしめている一方で、震で恩恵を受けた職人たちや瓦版売りは鯰をかばっている.鯰の脇には瓢箪がころがり、猿が倒れている.これは猿が瓢箪で鯰をおさえるという大津絵の一つを意識しており,今回の地震は,鯰をおさえているはずの猿が瓢箪の酒を飲み酔って寝てしまったために起こったということを示している。詞書きも洒落ている。 地震を「なへ」と読ませるのは、神代の時代より地震の呼び名であった「なゐ(地)ふる(震)」を受けたもので、 それに続くパロディ-化した君が代の歌にかけられている。 後半に 「かなめいし(要石)の いはほ(巌)ハ ぬけ(抜)じ よし ゆるぐとも] とあり, 揺(ゆ)るぐとも よもや抜けじの要石 鹿島の神のあらんかぎりは という有名な地実数を洒落たものである. (北淡町教育委員会 所蔵)
鯰の力ばなし
善光寺地震の信州鯨と安政地震の江戸鯰が、髭を結んで輪を作り、相手の首にかけて首引きをしている その脇には江戸鯰の女房鯰が画かれている。 詞書きは、 「なまずの力ばなし」と 「なまずの婦夫やきもちばなし」 の二話からなり, 歌舞伎「伊賀越道中双六」の六段目をもとにした小噺にしたてられている。 力ばなしでは,懇意になった江戸鯰と信州鯨が急に首引きを始めたので,女房鯨がびっくりして止めようとする鯰二匹ともやめようとせず、 「沼津では腹さえ切ったのに髭が切れるぐらい…」 と答えている。(北淡町教育委員会 所蔵)
地震のすちやらか
「すちやらか」は歌舞伎下座音楽の一つで、幕末から流行した阿呆陀羅経を三昧線にのせ,小木魚をいれたものである。 鯰には「すちやらか」によせて衣装や道具が描きこまれ,背景の防火用の水樽には,鹿島大明神をもじり「鹿島町」のご町名が記されている。「すちやらか節」では、 「おくれて出ぢれぬ 蔵の中 まだかでにげ出す 風呂の中」 と、地震時に人々の逃げまどう様を調子よく唄い、続けて 「雨ふり野じんハトばの中、曲がりヲ直してして、内の中」 と、地震後の避難生活を風刺している。 (北淡町教育委員会 所蔵)
世直し鯰の情け
庶民が「地震の時には神馬が人々を救ったのだ」と言う.そこへ鯰が来て、「本当はおれたちの仲間が救ったのだ。地震もおれたちの仕業ではない。おれたちは鯰を悪く言うやつは救わずに、歓迎してくれる人々だけを助けたのだ」と答える。 これを間いた人々が「鯰にそんな情けがあったのか」と感心すると,鯨は「魚心あれば水心」としやれ,会話を終わらせている。 庶民の味方として擬人化することで,地震で苦しむ庶民に特別の施策をはからなかった幕府に対する皮肉を画いた鯨絵である。 (東京大学地震研究所 所蔵)
切腹鯰(せっぷくなまず)
鹿島大明神に矢を放たれて罪を咎められ,とうとう観念した地需鰻が切腹して腹の中から黄金(こがね)を出している、これを見た長者は、「無念をはらそうと来てみれば,自腹をきって詫びる鯰の の殊勝さに,これまでの恨みは晴れた。とつぶやく、地震で亡くなった亡者たちも、「ご隠居のおっしゃることも、もっともだ」と、切腹鯰を許している。こらしめられた鯰が許される立場になったことに、この鯰絵に巧みに盛り込まれた震災後の刻々と動く世情を読み取ることができよう。 (東京大学地震研究所所蔵)
地震・雷・過事・親父
地震・雷・過事(火事)・親父は、古くから言い伝えられた恐いものの代表である.この鯰絵は、 地震を表わす町人風の鯰 鬼の姿の鯰、 職入猟の火事を擬人化し, このご馳走を前にした三人の話のやりとりを絵柄にしている・ また鯨絵の最大の購買者である親父の顔を立て,他の三人の会話だけを浮き彫りにして悪者にしている。 三人の会話では,雷が鯰に向かい 「この間の大揺れはなんだと問う。 鯰は「わっちは水の中で火は知らねえ」 とうそぶき,さらに 「天候が不順で陰陽の気が和順せず, おもしろくないから大ふざけをやるのさ」 と地震の発生原因を説明する。 さらに火事が 「春とまちがえて乱心し,仲間が踊ったり, ひっくりかえると地震になるのか」 と、問いつめると,鯰は 「自分白身でもわからねえ」 と、言いのがれる。 江戸時代の人々が地震と鯰との関係をこのように考え,地震の原因が鯰にあると信じていたことが,この鯰絵からもうかがえる。 (東京大学地震研究所 所蔵)
鯰と鹿島大明神の首引き
向かい合う二人が輪にした縄を首にかけ,互いに後ろにそり返って引き合う力比べを「首引き」という.この鯰絵では鹿島大明神と鯰が首引きをしており、鯰が勝つと地震が起こることを表わしている.鹿島大明神には多大な被害を受けた金持ちや芸人たちが,鯰には地震で儲けた職人や絵帥たちがつき,それぞれに応援をくりひろげている。 職人たちは鯨に負けてくれるなとしながらも,「もう少しやんわりとやんなせえ、またうごくとこまりやすぜ」 と,地震はもうこりごりだと言う。 鹿島の神様は、 「おれが出雲に出ているとこの始末だ.以後のみせしめを観念しろ」と言い,首に力をこめる.対する鯰は, 「どっこい,そうはうまくいきませんよ. わしもぬらくらしねえように焼け場で灰をつけてきた」 としゃれる。 絵の口上は,今回の地震は仏説の帝釈動という大吉のしるしで,鯰をときはなして蔵をゆりくずし,金銀を庶民にあたえたという意味である.(東京大学地震研究所 所蔵)
しんよし原大なまず(鯰)ゆらひ(由来)
遊郭のあった吉原は,明暦大火(1657年)のあと,浅草の水田を埋め立てた軟弱地盤の上に移転されていた。 廓のもっともにぎわう夜十時ごろ激震におそわれ,直後の出火により廓内が全焼、遊郭と外を結ぶ橋も落ちて逃げ道が限られたため、630人におよぶ遊女たちが焼死した。 この鯰絵では、吉原の遊女や遊客たちが大鯰を捕えて,遊女に仕える幼女は小鯰を捕えて、口々にののしりながら、なぐる、打つ、けるなどして地震のあだ討ちをしている。 左上では職人たちがこれを止めようと、とんできている. 一方,鯰は 「おいらん(花魁)たちにのられてうれしいよ ……またゆすぶるよ」 と喜び,おどけ(道化)ている。 このように自然現象である地震に対するやり場のない怒りを,擬人化した地震鯰にぶつけることで,はらしているのである。 (東京大学地震研究所 所蔵)
解説文は,「安政大地震紅絵」(国公立所蔵史料刊行会,1979)と「紅欽一震災と日本文化」(宮田登・高田衛監修,1995)を引用・参照し,加藤茂弘(兵庫県立入と自然の博物館)がまとめました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年03月20日 15時39分59秒
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