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2022年03月20日
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無頼派作家とその時代

   奥野健勇氏著(文芸評論家)

  限りない読書への渇き

「一億人の昭和史」十一月号

 

占領から講和へ 

一九七五年十一月一日発行

発行所  毎日新聞社

 

一部加筆 山梨県歴史文学館

 

 

 

今日の若者たちを、敗戦後の日本に連れて行ったら、乞食の群の中に入れられた気持がするに違いない。ズダ袋のような粗悪なよれ

よれの、垢じみたボロを着て、ブリキと板切れで囲った乞食小屋のようなバラックに住み、栄養失調でやせ細り、青黒くむくみ、目ばかりギョロギョロさせ食物をさがし漁っている。

 おそらくそういう時代を過ごして来たぼくたちでも、かつての自分たちの姿を見れば、戦争に疲れはてたどこかの国の難民か、磯節

のため餓死寸前の旧植民地の被差別民族かという感じがするのではないだろうか。ぼくたちは当時の栄養にあふれた身体をスマートな

軍服に包んだ進駐軍兵士たちが、われわれ日本人を軽蔑とあわれみの目で、いや触るのも近寄るのもけがらわしい、汚らしい存在とし

て嫌悪感を体中にあらわしていた姿を思い出し、その心情がわかるような気がする。

 しかしぼくたちはボロ衣も、ボロ家も一向に苦懲なかった。食物だけは今日の生命にかかわるので、手に入れるため懸命になってあ

らゆる努力をした。そして腹が減っているときは、どんな食物もおいしく、むさぼり食った。その食物と同じくらい、当時の日本人は

知識と芸術と娯楽に餓えていた。そしてあらゆる知識・教養を、文学・芸術を、探しもとめ、むさぼり食った。

たとえば西田幾多郎全集三木清著作集が発刊された時は、岩波書店の前に前夜から延々長蛇の列ができた。今日ではとても考えられない熱心さである。

 昭和二十丁年、「中央公論」「改造」「新潮」「文芸春秋」などの雑誌が復刊し、同時に「新生」「世界」「展望」「人間」はじめ、何十、いや、おそらく百を超す新雑誌が雨後のごとくいっせいに創刊された。もちろん紙不足、印刷・製本の工場も殆んど焼けてしまった時代だから、ザラ紙・仙花紙に製本も粗末な雑誌なのだが、たちまち売切れ、闇値がつき、しかも米や芋や煙草などのプレミアムを本屋に持って行かなければ手に入らない始末であった。着るもの、住む家は乞食同様でも食糧と同じくらい、いやその乏しい食糧を割いても本や雑誌をむさぼり求めた。こんな例は稀ではなかろうか。乞食同様のみじめな生活をしていても、日本人の誇りや志は高かった。いやアメリカの圧倒的な物量の力に敗けたという意識が強く、その点では劣等感にさいなまれながら、だから最後のプライドとして、日本人は文化や芸術など精神面では高い教養を持っている文化的民族なのだという面にすがりついたのだろう。

 進駐軍の米国軍人が、白木のいい木目の家や床柱までやたら赤や青のペンキを塗りたくるのを見て、アメリカ人は文化や芸術を知ら

ない野蛮人だと軽蔑したりした。まことにはかない抵抗であるが、その知識欲はまことにけなげであり、ヴァイタリティにみちていた。それも教育の普及で、国民全部が字を識っていたという事情とかかわりあっているだろう。ぼくはこの敗戦直後夢中になって本や雑誌を求めた日本人の知的好奇心とヴァイタリティと、負け惜しみ的な粋がりが、日本をどん底から復興させたと考える。

 空腹時はどんなまずいものでもむさぼり食うが、少し腹が足りてくると味がわかってくる。それと同じように敗戦直後、印刷された

ものなら何でも飛びついた読者も、やがてその内容を問題にしはじめる。人々はほんものの言葉を、新しい思想を求めているが、敗戦

により世の中が変ったといっても、そう簡単に新しい文学、新しい思想が生まれるはずがない。

 もちろん敗戦直後、平和国家建設、デモクラシイ、社会主義革命などをしたり顔に声高に唱える文章は氾濫したが、それは何時の時

代にもいる便乗主義者で、今までの米英撃滅論の口を拭って、「たちまちまわれ左」して、デモクラシイや共産主義を讃美しはじめる。こういう言動ほど、ぼくたち若者の既成世代の日本人に対する不信感を抱かせたものはない。

 日本が敗けたことよりも、同じ教師が、知識人が、同じ新聞・ラジオが、同じ日本人が、昨日と全く正反対のことを平気で語っていることの方が、はるかに恥かしく、ぼくたちを絶望的にさせた。彼ら使乗主義者たちは大衆からも次第にそっぽを向かれるようになって行くが、そのあとを埋めたのが、戦前の左翼、自由主義者の知識人と文学者たちである。つまり戦争中、弾圧され禁止されていた思想や文学がいっせいに復活したのである。

 

文学でいえば、永井荷風、谷崎潤一郎、正宗白鳥、志賀直哉、武者小路実篤、室生犀星ら老大家のめざましい復活であり、戦争中秘

かに書き溜められていた作品が次々に発表され、人々に平和な時代の到来を実感させた。

そして築地劇場時代の新劇の華々しい復活、節を曲げなかった左翼、共産党の英雄的復活、政党政治、労働組合と、次々に戦中ひっそくしていた戦前の勢力が復活して来た。

 

疎外された若者たち

 

今日、戦後を紀元元年として、そこから現在にいたる新しい時代が出発したという見方が圧倒的で、したがって戦後は新しさにあふ

れた若者の時代であったに違いないと思っている人が多いようだ。しかし敗戦の時、十九歳の若者であったぼくにとって、戦後は若者

の時代などではなかったという実感が強い。

 次から次へ、ぼくたちの知らない戦前の亡霊が、華やかにフットライトをあびて次々に登場する。マルキシズム、自由主義、芸術至

上主義……戦争期に育ったぼくたちには皆目見当もつかぬ戦前の思潮が突然あらわれて来て、とても若者など出る幕はなかった。それ

どころかぼくたち若者は、戦争中、軍国主義教育をうけ、戦争に加担したということで、新時代に相応しくない戦犯的世代として疎外

されてしまったのだ。戦後の数年間ぐらい若者が疎外された時代はなく、若い新人の進出が困難であった時期はない。

日本が連合軍により占領され、その支配下にあるという未曽有の新しい異常な状況ということを別にすれば、戦後の第一歩は決して新しい創造の時代ではなく、戦争を挿んで、まず戦前の復活、復古から始まったという感がぼくたちには深話を文学に限定しても、まず先に述べた老大家ののどやかな時代を超えた復活、プロレタリア文学、左翼文学者たちのついに待望の我が世いたるという英雄的復帰、ついで戦前から文壇で活躍した中堅の流行作家の進出と続く。しかし老大家の時代を超越した仕事に拍手した読者たちも、左翼文学者、そして中堅作家の戦前と変らぬ古さにはとまどった。

 左翼作家はかつての転向前のプロレタリア文学運動を絶対に正しいと規定し、戦争期の敗北の体験を捨象し、戦前そのままの文学理

論や運動を押しつける。かつての流行作家であった中堅は、戦前と同じ風俗的リアリズムで戦後風俗を描く。そして共に文学的根拠と

して、自分たちは本心は戦争に反対であり、戦争中も抵抗者であり、批判者であり、あるいは傍観者であったと主張する。

 それは戦後、二十二、三年ころ、新進作家として華々しく登場して来た第一次戦後派作家……

野間宏、梅崎存生、椎名麟三、中村政一郎、

武田楽淳、大岡昇平

らにも共通する戦争に対する姿勢である。もっとも彼らは新人、戦後派と言っても、その多くは三十代であり、戦前にマルキシズムや転向の体験を持つ、戦争期を。暗い谷間’として過ごし、

戦後を……第二の青春……として謳歌できる世代であった。

 それにせよ、ぼくたちは戦後発表された小説や評論を読み、その誰もがぷな戦争に対し、戦争中から批判的、傍観者的であったとばかり述べていることに戸まどい、突き放された気持を味わった。と言うのは、ぼくたち若者は戦争下、祖国のために懸命に努力した。戦争がいいか悪いかわからないが、こうなった以上、生命を犠牲にしても日本を守ろう、日本と運命を共にしようと必死の思いであった。それはぼくたち若者だけでなく、大人たち、ぼくたちの周囲の多くの日本人の姿であった。そういう祖国のため努め、たたかった殆んどの日本人の姿が、体験が、心情が、戦後の小説、評論に全く描かれていない。そうすると二十歳で死を決意したあの重い体験はまるで存在しないことになる。したがって敗戦のかなしさもくやしさも、そして戦争に夢中だった自分に対する心の痛みも、にがい批判も敗戦の衝撃も、自己崩壊も戦争に対する真の否定も虚妄のように思われてくる。

 ぼくたちは自分たちの戦争、敗戦そして戦後体験と合致する文学を見出し得なかった。みんな何か嘘をついている。自分を偽ってい

る。こんなはずはないと。戦後生きる指針を、希望を与えてくれる文学を、敗戦の虚脱と昏迷の中をさまよっていながら、ぼくたちの魂を共鳴させてくれる文学を、ぼくたちの心情をそのまま語ってくれている文学を、探し求めていた。

 

無頼の魂

 そういう時、ただ一つぼくたちの心をとらえ、魂をゆさぶってく

れたのが。無頼派の文学であり、文学者たちであった。

 

織田作之助、坂目安吾、太宰治、石川淳、檀一雄、田中英光。

そして

伊藤整、高見順、三好十郎、平林たい子、北原武夫等々、無頼派4の文学者たち、この人たちだけがほんとのことを言っている。ぼくたちの心のかなしみを知ってくれている。ぼくたちの言いたいことを代弁してくれている。

そして彼らは戦後に命を賭けて主体的自立的に生きようとしていると思った。

ぼくたち若者はここにまぎれもない自分たちの魂の仲間を、先達を見出したのだ。

 いや事情は逆である。もともと。無頼派などという文学者のグループも、エコールも、文学運動もなかったのだ。彼らは出身校も、郷里も、文学的経歴も銘々違っていた。

戦前から文学活動をしてはいたが、別に仲間でも親しい友人でもなかった。織田作之助石川淳は生前会ったことはなかったであろう

し、大宰が織田や石川淳に会ったのも座談会の席ぐらいであったろう。ほかの文学エコール、たとえば、白樺派が学習院の同窓生中心の集まりであったり、……戦旗派……や。……文戦派……がはっきりした政治的文学運動の組織であったり、……日本浪曼派……が雑誌を中心とする同人の集まりであったりなどと違って、具体的な集まりはなく、交友も余りなかった。

 つまり。……無頼派……とは、読者たちがつくりあげた幻想の、あるいは理想の文学エコール坂口安吾が書いた色紙「あちらこちら命がけ」書くことをも含め生活すべてに命がけだったなのだ。若い読者たちが自分の心にはげしく訴えかけてくる数少ない文学者たちを探し出して選び、無頼派なる文学エコールをつくり出したのだ。

名もない読者たちの熱烈な希求と、祈りに似た深い思いが戦後の空に現出させた美しい虹であり、蜃気楼であったのだ。

 しかし文学の世界においては現実の交友関係によるエコールより、読者の中から湧き起った幻想のエコールの方がはるかに強い文学

的真実をもっている。当時の鋭敏なジャーナリストたちは、その読者の欲求がっくりあげた幻想的共同体を皮膚に感じ、無頼派なるエ

コールを雑誌の編集、出版の中に座談会とかグラビヤとか特集のかたちに具現化して行く。そして作家自身も、作品を通しておたがいに文学的・精神的な同志として意識し認め合いはじめる。無頼派は読者の側から自然に形成されたエコールで、このような例は日本文学史上ほかにない。それだけに、無頼派ぐらい人々に圧倒的な共感と影響を与え、読者に強い同類意識、同志感を与えた文学的エコールはない。

 無頼派は敗戦直後の焼跡の中に疾風のごとくあらわれ、その自由奔放な作品と自ら世相と化するような大胆な言動によって日本人の

魂を烈しく揺り動かし、たちまち戦後乱世の英雄豪傑として迎えられ、彼らは自己のすべてを燃し尽して書きまくり、ある者は倒れ、

ある者は自殺し、ある者は狂い、ある者は隠棲し、風の如くに消え去って行った。

 無頼派が文壇を席捲するようなめざましい仕事をしたのは二十一年から二十三年までのわずか二、三年の間である。

織田作之助が病死したのは二十二年一月十日であり、

太宰治が自殺したのは二十三年六月十三日、

田中英光は二十四年十一月三日であり、

その年に坂口安吾は錯乱状態になり、東大の神経科に入院している。その短い間に、彼らはやつぎばやに驚くばかりに豊富に数多くの力作、問題作を発表している。

 

織田作之助

 

織田作之助(大正2年1026日~昭和22|10日)

 

無頼派の中で真っ先に登場したのは大阪の作家職田作之助である。敗戦の年の十二月「表彰」を「文芸春秋」に発表し、翌二十一年三月に「アド・バルーン」「六白金星」四月に「競馬」「世相」を発表した。はじめはなかなか達者だが大阪らしい人情噺の復活かと思っていた続者たちも、「競馬」「世相」にいたって、その不思議にこちらの心にぐいぐい食い込んで来る迫力にただごとならぬものを感じはじめた。はじめて戦後の混乱の世相をまるのままとらえることのできた小説があらわれた。自から「世相」の一片と化そうというなりふりかまわぬ態度で、十銭芸者、阿部定の公判記録、ジッパーで二つに割れる洋服を着ている酒場のマダムなど、戦前の思い出話と現在とを巧みに配列させ、エロチシズムを誘うと共に、国破れた人間のかなしさ、人生のはかなさを漂わせる。

 左翼が弾圧、転向させられた後に三高に入った織田は、政治や思想に対しはじめから不信を抱き、学校を中退、放浪生活の中にスタ

ンダールばりの「青春の逆説」などの小説を書き発禁になり、戦争中も大阪の庶民たちを描き続けた。

権力をきらい、政治や戦争をあえて無視して来た彼は、戦後、今こそ書けると阿修羅のごとく書き出し、私小説なんか二流文学だ、美男美女があばれまわるおもしろい本格ロマンを、しかも現代は偶然性の時代だから、新しい視点手法の小説をつくらねばと、サルトルをいちはやく吸収し、アンチ・ロマンを先取りするような「可能性の文学」を主張し、エロチシズムの重要性を説いた。

長身痩躯、長い髪を無雑作にかきあげ、織田作はトンビも、またジャンパーも似合うかっこいい男で、スポットライトの中で歩きまわりながら「エロチシズムと文学」という有名な講演をやったり、当時中学生だった野坂昭如がその姿を見て胸をときめかせたように、

回転の連い思考・文体で、文壇の既成権威にドン・キホーテのごとく挑み、「それでも私は行く」「夜の構図」「土曜夫人」など意外

性の重なる奔放な小説を新聞・雑誌に次々に連載する。闇屋、パンパン、浮浪児の横行する無秩序の戦後乱世に水を得た魚のように泳

ぎまわり、あえて軽佻をよそおい、キヤッキヤッと騒ぎまわる。しかしその時、彼は既に重症の結核で死期の近いのを知っていた。

それ故、ヒロポンを射ち、死ぬのを覚悟で書きまくり、暴れまわっていたのだ。そのためか彼の作品は人生を一瞬のうちに凝縮し、一

目で見てしまうような性急さとかなしさがあった。

 二十二年一月十日、喀血を続け、「土曜夫人」を未完のまま、夫人になったばかりの織田昭子に看病されつつ三十五歳で世を去った。凄絶な斬り死に的な最期と言ってよいだろう。

戦後一年半の間に彼は信じられないほどの活躍をなし、その一瞬の光芒は人々の心に永く焼きついて消えることがないだろう。

 

坂口安吾

 

 

二十一年「新潮」四月号に発表された坂口安吾の「堕落論」ほど、ぼくたちの魂に霜露のごとき衝撃を与えた文章は、あとにも先にもない。終戦の詔勅が政治的な終戦宣言ならば、「堕落論」は精神的な終戦宣言であった。

ぼくたちは生きるため間商売をやり、また女にうつつを抜かし、進駐軍のペーパーバックスのヌード写真に溜息したりしていたが、特

攻隊で死んだ友人のことや戦争中のことを思うと、おれたちも堕落したなという気持ばかり強く、どう生きて行くのか自信がなかった。まだ心情的に戦争期の倫理に支配されていたのだ。

 ところが安吾は

「生きるためには堕落しなければならない。

人間は生き、人間は堕ちる、

堕ちる道を堕ちきることによって、

自分自身を発見し、救わなければならない」

と、言い切る。

この「堕落論」によって、ぼくたちは自からうつばりがとれるごとき思いがした。そうだ、生きるためには堕落してもかまわないのだ。今の間をやり、自分のやりたいことをやる生き方は正しいのだと、はじめて戦後を主体的に生き抜く原点を見出したのだ。これは生涯に二度とないような価値観の転換だった。

 ぼくだけでなく日本の多くの青年が、この文章によって救われ生き返ったのだ。当時の青年が、「堕落論」の感激を語る姿を今もよ

く見掛ける。今日読んだら当り前のことを述べているのだが、その頃、安吾以外誰もこのような根本的な人間や社会に対する発想をな

し得なかったのだ。

続いて「白痴」で空襲下の白痴の女性との実存のきわみとも言うべき人間のかなしみを書き、

「恋をしに行く」

「肉体」

で大胆に性を通じての肉体の思考を表現し、

「金銭無情」

「夜の王様」

「青鬼の褌を洗う女」

などで戦後乱世の人間たちを活写し、一方

「桜の森の満開の下」

「夜長姫と耳男」

などのグロテスクと美のまじった人間の実存に達する怖しい傑作を書く。

そして

「安吾巷談」

で戦後乱世を語り批判し、たとえばなぜ共産党は農地解放の時、コルホーズをつくらなかったかと問い、野坂泰三などは中尉ぐらいの見識もないと、当時批判するのがタブーだった共産党を批判し、また

「安吾史譚」

「安吾新日本地理」

でいちはやく天皇室は朝鮮の出で、日本古代史は朝鮮の情勢に支配されていると喝破し、

「不連続殺人事件」

「安吾捕物帖」

などのエンターテインメントの中で戦後文明の本質を探求する。

 まさに安吾こそ戦後乱世の豪傑であり、ヒロポンとアドルムを交互にウィスキーの肴にボリボリ噛り、仕事をはじめると散らかりに

散らかった部屋で二昼夜三昼夜便所にも行かずぶっ続け机に向い、終ると今度は飲屋へ大勢と行き、三日三晩飲み続ける。まさに超人

であり、今日の文学者やジャーナリズムのあらゆる可能性を先取りしている。全身で怒り、全身でかなしみ、狂うときは徹底的に狂う。

まことに見事であった。合理主義者であり、神秘家であり、死ねば終りという現実主義者であり、聖人をめざす理想主義者であった。

 もともと坂目安吾は昔からただものではなく、越後の没落大地主、大政治家・漢詩人五峯の十二番目の子と生れ、父母や家や故郷に反逆し、海と空と風の中に故郷を求めた。学校に行かず怠け遊ぶが、悟りをひらこうと決意すると三年間殆んど寝ずに勉強し、神経衰弱になると梵語、チペット語の勉強で克服する。「風博士」という奇想天外なファルスで昭和六年デビューするが、求道憎と破戒憎の間を大きく揺れ動く。家に帰るのがいけないのだ、そこに振り返る魔物がいると、家も下宿も持たず、帰らず、常に前進、友人の家を泊り歩く。

 戦争中の国粋主義時代、必要ならば法隆寺をこわして停車場にしてもよいなどと「日本文化私腹」で言い放つ。空襲下日本の滅亡を

見ようと十貫の石をかつぎ百メートルかけたり、水風呂にもぐって息をつめたり鍛練する。

ライスカレー百人分食べたいとおもえば百人分注文する。税金闘争や競輪の不正をあばく闘争をひとりでたたかう。安吾は石となり風と化す精神の振幅が石から風へとケタ違いなほど大きい巨人で、チンマリした日本文壇の純文学の枠に入らなかった。

三十年二月十七日四十九歳、脳溢血で急死したが、戦後の原点のごとき存在であった。

 「堕落論」に感激した若者たちは「堕ちる道を堕ちぎれ」という安吾の言葉を見落した。

そしてみな年功序列やマイホーム主義の中に安息し、堕ちきるのをやめた。安吾ひとり死ぬまで、その至難の堕ちきる道を貫いた。もし若者たちが真に安吾の「堕落論」を理解しておればエコノミックアニマル、公害の今日の日本とは違う戦後の道がひらかれたであろうに、七〇年大学紛争のあと、戦後の原点として安吾が若者の間に復話してきたのは当然と言えよう。





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最終更新日  2022年03月20日 17時16分46秒
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